4-8

 終始動向をメルツェルに監視されているぼくでは、王女のことを助けるなんてできやしないから、王女には自分で助かってもらうほかなかった。

 ぼくはメルツェルの言いなりになった暗殺者だ。だけど、出来損ないの暗殺者だ。ぼくの計画は詰めが甘くて、つけ入る隙が沢山ある。メルツェルに悟られないくらい些細な、だけど、状況が覆るくらいに決定的な失敗をやらかす。ルクレツィアを助けるのに、ぼくは革新的なアイデアを思いついたり、超人的な力を発揮する必要はない。手痛い失敗を犯せばいいんだ。

 ぼくならやれるさ。そうだろう? エワルド。ぼくは何度も間違えてきたし、いつも足りなかった。

 ルクレツィアはぼくに狙いを定めた。銃声。静寂に響いた発砲音は、地獄の淵から這い上がる悪魔と共に轟く、破滅の報せのようだ。ぼくは仰向けに倒れ込む。全身の力が抜けた。これでやっと終わったって思う。二発目の銃声。何もかもが終わった。

「自分の命を賭けて、よくもまあ、これだけ割の合わない勝負に出られるわね」

 引っ繰り返ったぼくに、銃を突き付けたままルクレツィアは言った。ぼくは銃撃を喰らった……振りを続ける。

「あなたの連れの兵士は、もうミンチになってる」

 ルクレツィアに盛ったのは鎮静剤に使われている、ロバートには効果てき面で、アルマには効かなかったあの薬だ。暴れ回っている人の気を落ち着かせる……というか、頭と身体の連動を鈍らせて、無理矢理身体を弛緩させる。意識を奪うわけじゃない。閉じた瞼は開けられないけれど、塞がっていない耳や鼻は、しっかり機能している。メルツェルは薬の効能を正しく理解していない。というか、理解していないことにぼくは賭けた。直接投与されたことのないメルツェルだから、倒れたロバートやルクレツィアを見て、生きてる者の意識を奪う薬だって思い違いをしている見込みは、十分あった。

「王女でもそんな冗談を言うんだな」

「冗談でも言わなきゃやってられないの。だって……人を殺したのよ?」

 ぼくは起き上がる。「罪悪感なら要らないさ。彼女は既に死んでた」ルクレツィアはぼくから銃口を外さない。「君はぼくを救っただけ」

「救った? 頭を撃ち抜かれていたかも知れないのに」

「どっちに転んでも、ぼくは救われたよ」

「どういう意味?」

「死ぬほど憎んでいる奴の手下になって、自尊心を失ったところで、国中を敵に回さなくちゃいけなかったんだ。考えるまでもないだろう。こんな状況に晒されるくらいなら、頭を吹き飛ばされた方がマシに決まっている」

 生きているから追い続けなきゃならない。ぼくはメルツェルを殺すことに自分の人生の多くを取り返しがつかないくらいに費やしていて、ぼくの人生の大部分を占めるようになった怒りは、人生の他の部分まで侵略していた。ぼくの人生はメルツェルを殺すことそのものに成り果て、自分の意思で足を止めるなんていうのは、生き恥だ。だけど、突発的不運による不意の幕切れだったら、ぼくは恥も遺恨も湧く前に死ねただろう。

「まだ遅くないと思うけど」ルクレツィアは言う。「わたしはまだこうして銃を握っている」

 ぼくは言葉の続きを彼女に任せることにしたけれど、ルクレツィアは引鉄に指をかけることなく銃を片付けた。

「悲観主義者なのね」

「疲れているせいさ」

 ぼくは溜め息を吐いた。

「問題は、まだ問題が何も解決していないってことだ」

「まずは状況を教えて」

「メルツェルは死体を操ってぼくに近付き、この国の人たち全員を人質に取ってあんたを殺すようぼくを脅した。奴の言いなりになるのは気に入らなかったし、言う通りにしたところで、その後に待つのは処刑されるまで続く逃亡生活だ。あいつはどうしてもあんたをコークストンから追い出したかったらしい。だから、ぼくがあいつに一矢報いるとしたら、自分がくたばってでもあんたを生かすことだって考えた。〈豊穣会〉のことは?」

「ロバートから聞いてる」

「表立って行動することを避けてきた連中が、アーバン大鉄橋であんな大騒ぎに巻き込まれた。ほとぼりが冷めるまで、連中は……あとどれだけいるのかは知らないが、顔を出せない。コークストンには、メルツェルの政敵がみんないなくなった。少なくとも、あいつの障害になる者はもういない。だから、あんたはすぐに戻って自分が健在だってことを知らしめるんだ」

「人質は? あなた言っていたでしょう。この国全部が人質だって」

「そこのアルマみたいに、メルツェルが操れる死体がそこら中に潜んでいるって話だ。規模について正確なことは言えないが、十分な死体を集められる環境はあった」

 状況を言葉で整理すればするほど、もうどうにもならないってことが明確になっている気がして苛立たしい。ルクレツィアをコークストンに連れ戻すことがメルツェルの妨害になるのは間違いないだろうが、人質をどうにかしなければ、ルクレツィアだってメルツェルに手出しできない。

「あなたはどうするつもり?」ルクレツィアは言った。「わたしを王城に戻して、あなたは何をするの?」

「死体を止めるしかないだろう」

 ぼくは同じ所をぐるぐる歩き回った。ただ茫然と立ち尽くすよりは何かをやっている気がして幾分落ち着けるし、血の巡りが良くなって都合良く事態を好転させられるような素晴らしいひらめきが起こることを期待した。

「あなた一人で?」

「当たり前のことを聞かないでくれ」

「仲間を集めましょう」

「誰がメルツェルの手下か、あんたに見分けがつくのか?」ぼくは思わず怒鳴って、アルマを指した。「彼女はロバートの部下だっていう紹介で現れたのに、正体はメルツェルの駒だった。同じ手を食うわけにはいかないんだよ」

 ルクレツィアはぼくの怒声に動じず、真直ぐぼくを見ていた。一方的に熱くなっていたことに気づいたぼくは居心地悪くなった。

「それに……ぼくは、ぼく個人の問題を解決したいだけだ。助けてくれたことは感謝する。だけど、それだけだ。これは同盟の儀式じゃない」

「あなたの問題って?」

「ぼくがメルツェルに研究成果を奪われなければ、死人が操られるなんてこともなかった。自分じゃどうにもならない資金を他人に工面させようとして逆に出し抜かれた。自分の研究さえ進められれば他人がどうなろうと知ったことじゃないっていう独りよがりな態度で孤立した。どれもがぼくの失態で、その結果がこのザマだ」

「そうやって、あなたはずっと自分を責め続けてきたの?」ルクレツィアは言う。「自分で自分のこと、誤解しているのね」

「今はぼくのことよりも、メルツェルを止める話だ」

「いいえ。焦っている原因が、その悲観的な自己批評にあるなら、あなたはここでそれを正すべきよ」

「そんな時間はないんだ」

「時間は無いし、失敗もできないというのなら、尚のこと。物事は一つずつ片付けていきましょう? 現にあなたは状況を見誤ってる」

「何を間違えているって?」

「何でも一人でやれるって思っているところ。まずはその考えを改めなくちゃ、あなたは『また』失敗するわ」

 ぼくが言い淀むと、ルクレツィアは一方的に続けた。

「意地の悪い言い方だって解ってる。でもね。国民の命がかかっているというのなら、王女であるわたしにとって、これは失敗が許されない事態なの。あなたの暴走がその原因になるのなら、わたしは何としても止めなくちゃならない」

 ルクレツィアは手にしていた銃をチラつかせた。

「だから、こんなときにカウンセリングか?」

「あなたが他人に相談できない性分なのは解ったわ。あなたはわたしの言うことを聞くだけでいい」下らないって思った。ぼくはさっさと話を切り上げる術を考える。「まずは、死体が蘇ったのは、あなたの責任じゃないってこと。技術に罪は無い。悪意が技術に悪事を働かせるの。それから、メアリーのこと」

 メアリーのことは、ぼくが一番蒸し返されたくない話だ。ぼくは心底ルクレツィアのことを助けるんじゃなかったって後悔した。

「メアリーが何だ」

「アンジェリカが心配していたから」

 ぼくがいないのをいいことに、余計なことを言い触らしたのか。

「彼女はあなたに愛想を尽かしたりなんかしてない」

「何も知らないくせに。勝手に死人の言葉を語るなよ」

「手紙がある。あなたとの暮らしのことを語った手紙が。そこには恨み言なんて一言もなかった。幸せな日常と、ちょっとした愚痴。読んでる方は痴話喧嘩に巻き込まれたって呆れるくらいの話ばかり」

 ルクレツィアはメアリーが手紙に書いたことを語り始めた。その話一つ一つが、メアリーとの思い出を呼び覚ましていく。

「慰めは要らない。メアリーが何を思っていたとしても。ぼくは――」

 言葉が詰まる。何を言ったらいいか解からないからじゃない。これを言ったら、今まで喉の手前で塞き止めていた思いが全部、一辺に溢れ出る気がした。何もかもを打ち明けるなんてそんなこと、ぼくは望んじゃいない。望んじゃいないから、黙ってきたんだ。

「ぼくが彼女の邪魔をしていたことに変わりはないんだ」

 これから垂れ流すのは、どれも言い訳だ。罪を軽くするための命乞いで、批難から逃れるための釈明だ。

「ぼくは救えるって言ったんだ。言うしかないじゃないか! 他に何を言えば良かった? 自信がないのを打ち明けて、彼女を不安に陥れれば、楽になれたか?」ぼくは怒鳴る。「なれるわけないだろう!」

 こんなことを言って何になる。頭の中で自分の声が聞こえるが、身体は止まらない。

「いつも彼女の力になりたいって思ってた。だから、救えるって言ったんだ。ぼくは彼女と共に歩む相応しい相手だってことを証明する機会が欲しかった。次は大丈夫だって、何度も繰り返して、メアリーのことを縛り続けた。ずっと。……死ぬまでずっとだ」

 もう止めろ。ぼくの頭の中でぼくが言う。

「メアリーが歩き回るのを邪魔していたのは、病気じゃなくて、ぼくだったんだ。本気で彼女のことを思うんだったら、ぼくはメアリーの前から消えるべきだった」

「見捨てるってこと?」

「そうじゃない。ぼくと一緒じゃなければ、彼女はもうちょっとマシな時間を過ごせた」

「要するに、あなたは怖いのね」ルクレツィアは溜め息を吐いた。「自分がやってきたことの価値を信じられないから、誰かを巻き添えにしたくない」

「ぼくみたいな奴は、自分の一生に責任を持つのが精々で、これがぼくの身の程ってことさ」

「いいえ。あなたは成し遂げられる人よ。自分を見失いさえしなければね」

「あんたは奇跡を信じるタイプか? それとも努力は裏切らないって?」

「確かに結果はあなたの思い通りじゃなかったかも知れないけれど、だからって全部が無価値だったわけじゃない。あなたが寄り添っていたから、メアリーは孤独じゃなかった。どうしたらまた歩けるようになるのかってことを真剣に考えてくれる人が隣にいたから、彼女は歩けなくなってからの一生を前向きに過ごせたの」

「それも手紙に?」

「ええ。メアリーは自分のせいで、あなたが無駄なことに時間を費やしているんじゃないかってことも心配してた」

「そんなこと、ぼくは思ってない」

「そうでしょうね。メアリーも同じよ」

「メアリーが何を考えていたって結果は――」

「あなたがメアリーを孤独から救った。あなたが何を考えていたってね」

 ルクレツィアは銃を捨ててぼくに歩み寄った。

「あなたが無駄だったと思っていたことのほとんどはそうじゃない。そう見るから、そう見えるというだけ」

 ルクレツィアはぼくの手を取った。

「あなたを本当に赦していないのは、あなたよ。エワルド。あなたは自分を呪うためにメアリーを利用している」

「そんなこと……」

「違うって言い切れる?」

「あんたは何なんだ」

 ぼくはルクレツィアの手を振り解く。

「状況を解かってるのか? 今問題にすべきなのは、ぼくが過去とどう向き合うかってことじゃない。何千万もいる、あんたの国民の命だ」

「あなただってそうでしょう?」

「ぼくはメルツェルの人質じゃない」

「それに、あなたは見捨てなかった。何千万もの人も、わたしのことも」

 ルクレツィアは、もう一度ぼくの手を握った。

「わたしも同じ。何千万の国民も、あなたのことも、わたしは見捨てない。どうしてわたしがあなたのことを気にかけるかって聞くなら、それは、あなたがやってきたことがそうさせてるから」

 メアリー手紙が彼女の本心だったと信じられたら、どんなに良かったことだろう。

 ルクレツィアの言葉通りに、ぼくがやってきたことは無駄じゃなかったって信じられたら、ぼくはどれだけ救われただろう。

 だけど。

 焼ける家が、メルツェルの嘲笑が、頭に焼き付いて離れない。

 そして、メアリーのこと。ぼくにしか見えない彼女の亡霊が、ルクレツィアの背後からこちらを睨み付けている。

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