4-6

 川や町並みの導線っていうのはそれがどんなに目立たない道でも、日夜訓練している兵士が見逃すようなことはない。普段から町にあるようなものは、当然熟知しているはずだ。そんな連中を相手に追跡を掻い潜ろうと思ったら、他所の道理を持ち込むしかない。

 幸いなことに、お膳立ては整っていた。技術博覧会の準備のために、百を超える商船がコークストンの中心を流れる運河を行き来している。その大部分は地方から流入してきた商人や建築作業員で、国内外の観光客、外国の商人や役人と続く。

 ぼくは王女を背負って暗渠を歩き、とある酒場の地下搬入口に辿り着いた。名前と場所は明かせない。下水道なんかを搬入口にしている店がまともなわけがないだろう?

 男たちは、ランプの灯りを頼りに、沢山の小包を木箱に詰めていた。一杯になった木箱には隙間を埋めるようにコーヒー豆が敷き詰められ、蓋がされる。男たちの傍らに停めてある小船には、同じ木箱が五つも積んであった。男はぼくが背負っている荷物とアルマをちらりと見たが、反応はそれきりで「さっさと乗れ」とだけ言う。メルツェルも余計なことは口にせず、荷積みが終わるのを待っていた。

 出航したぼくたちの船は、漁船や遊覧船に紛れて異国の国旗を掲げた大型の商船に接舷した。商船から網が括りつけられたロープが垂れてきて、同船していた男たちがその網に木箱を乗せると、一つずつ、木箱は商船に回収された。

 この時期には、技術博覧会に託けて商売を目論む連中ばかりが集まっている。つまり、荷物をこの町に持ち込みたい人はいても、持ち出そうとする人はほとんどいないってわけ。だからここに寄港している船の大部分は、荷台を空にしたまま船乗りとバラストだけを積んで帰ることになる。石や砂利を運ぶくらいなら、ちょっと素性の解からない旅人や得体の知れない荷物を運んで、酒代の足しにしたいって考える船乗りは少なくなかった。

 船乗りたちは木箱とぼくたちを船底に押し込め、錨を上げた。

 船が揺れ始めて少し経つと、船乗りと誰かが言い争いをしている声が聞こえて、幾人かの足音が頭上を行き来した。しかし、船底までその誰かがやってくることはなかった。

 この船は入国前に厳重な審査を受けて、通行証と商業許可証を発行されてる。例え水上で検問を行っていても、兵士は証拠不十分じゃ強気に出辛い。何より、自分の責任で外交問題なんか起こしたい奴はそういるはずもなく、そもそも、国家事業である技術博覧会を控えているのに、王女が浚われたなんていう不祥事を易々と明るみには晒せないだろう。

「どうだ。あんたの思惑通りか?」

 船が再び動き出したのを確認してから、ぼくは荷物の脇に携えていた銃を置く。熊の頭も吹き飛ばせるような威力の猟銃で、兵士の鎧だって容易く貫ける。自衛にしては、過剰かも知れないが。

「今のところは」

「満足したなら、あんたが国中に仕かけたっていう死体を停める方法を教えろよ」

「焦るな。まだ君はわたしとの約束を果たしていないだろう」

 ぼくは荷物を一瞥した。麻酔をかけられたルクレツィアは無防備に寝息を立てている。呼吸と脈こそ続いているけれど、手足の自由は利かず、瞼だって開けられない。

「まだ十分じゃない」メルツェルは言う。「王女に止めを刺してからだ」

「フェアじゃないな。ぼくはあんたの計画を一つ前進させたっていうのに、あんたは自分の責任を果たしていない」

「随分と強気じゃないか。君は。わたしに温情をかけられていることを君はもっと自覚した方がいい。王女を町から連れ出すことに成功した今、君は用済みだ。最早、対等じゃないんだよ」

「嘘だな。……あんた、王女を始末したら、また兵器工廠に戻るつもりだろう」

 メルツェルは返事をしない。図星なんだ。

「失踪したあんたが王女の失踪したあとに、何の疑いもかけられず元居た場所に戻るためには、王女誘拐の実行犯が他にいるってことが明確になっていなくちゃならない。違うか?」

 メルツェルは観念したのか、苦笑を浮かべて頷いた。

「ぼくなら好都合だろう。口封じもなる。ぼくから奪った研究も、独り占めだ。両立させるには、ぼくがルクレツィアを殺すよう仕向けるしかない」

「感動したよ。まるで、以心伝心だな」

「ぼくがここで自分の頭を撃ち抜けば、あんたが念入りに計画してきた社会復帰プログラムは破綻するんだぞ」

 メルツェルは長考してから、渋々口を開いた。

「一つだ。工程が進む度に、一つずつわたしの計画を打ち明けよう。わたしは計画を進められる。君はわたしを止める手がかりを得られる。どうだ?」

「まずは、あんたの話の信憑性の確認だ。国中にばら撒いた死体を、どうやって管理している?」

「わたしは直接管理していない。死体の面倒は家族が……いや、遺族か」メルツェルは「ややこしいな」と笑う。「遺族が面倒を見ている」

「退院して帰ってきたのが死体だって家族は知っているのか?」

「知らんさ。知っていたら、この計画は成り立たん。処方箋だ。死体の遺族共は処方箋を持って、わたしが操る医者の下に薬を受け取りにやってくる。死体全部に目を光らせておく必要はないんだよ。わたしが処方した薬の投薬が続く間は、死体は指示通り生者を演じるし、薬が切れれば、それが第二の寿命だ。これで、医者の遺体一つで、町中の死体が管理できる」

 薬の処方を止めれば死体を止められる。とはいえ、家族を見殺しにできる奴なんてそうそういないだろうし、メルツェルが操っている医者を特定するのだって困難だ。

死体は止められない。だとしたら、処方箋の発行を止める手立てを考えるしかないか。

 船は一晩かけて川を下り、中流にある倉庫街に辿り着いた。早朝、甲板の見張りを除いたほとんどの船員が寝静まっている間に船を脱出したぼくたちは、船着き場に面した造船所の廃墟に身を潜めることにした。自動車の流通が増えつつあり、航路が限られる船の需要が落ち着くと、小規模の造船会社は工場を棄てるか倉庫に転用したっていう話で、ぼくたちが間借りしている廃墟も、その過程でできたんだとか。

 船に乗って逃げた奴がどこを隠れ場所に選ぶのか。警察も察しが付くだろう。あまり長居はできないが、メルツェルとの関係を長引かせてもいられない。ぼくたちは引き続き船乗りの振りをして、同船していた連中が使うつもりで予約していた貸馬車を拝借した。未だ目を覚まさないルクレツィアを荷台に乗せて、ぼくも乗り込む。気に入らないが、メルツェルが手綱を握る。廃墟に向かう道中で、ぼくはメルツェルに言う。

「次の質問だ」

 メルツェルは何も言い返さない。ルクレツィアは瞼を閉じたまま。ぼくは最善を尽くそうとしているのに、これでは空しい独り言だ。

「あんたの目的は何なんだ?」

「世直しさ」メルツェルは言った。「この国は病に侵されている。お前もアーバン大鉄橋で見ただろう? 自分が全盛期だった時代に縋って思考が停滞している連中を。ああいう連中が支配している限り、この国は長く持たん。その女もそれは解かっているだろうさ」

「それがどうして王女殺しになる」

「人が自発的に変わることを期待するという王女のやり方では遅過ぎるというのが一つ。もう一つは〈豊穣会〉の排除のためだ」

「……彼女も〈豊穣会〉の一員なのか?」

「違う。君が〈豊穣会〉を演じるんだ」

 王女殺しの首謀者を〈豊穣会〉に仕立て上げるってことなんだろうけど。

「ぼくが〈豊穣会〉を語って、誰が信じる?」

「信じるさ。何のためにわたしが彼らに〈タロス〉をくれてやったと思っている? あれは君の技術だろう」

「あんたは、それを壊した」

「あの騒ぎのおかげで、彼らは〈タロス〉を表舞台に引き出した。大衆に活躍を見せれば帳尻あわせができると思ったんだろう。アンソニーの考えそうなことだ」

 空は白み始め、馬車は廃墟の陰に停まった。

「着いたぞ」

 腰に猟銃を吊るし、まだ目を覚まさないルクレツィアを担ぐ。

「王女の墓場にしては、殺風景だが」メルツェルは廃墟を見上げた。

「ここで手にかけるなんて言ってないだろう」

 ぼくはずり落ちそうになったルクレツィアを担ぎなおす。ルクレツィアは小さな呻き声を挙げた。そろそろ覚悟を決めなくちゃいけないか。

「何事も」メルツェルは振り返る。「先延ばしていいことは起こらないぞ」

「あんたには次のプランがあるんだろうけど、ぼくはこれから沢山の問題を抱えることになるんだよ」

「君が約束を果たすことが前提になっているからこそ、わたしたちの関係は保たれている。君が渋れば、ボードエルは未来のない死者の国と化す」

 そうだ。悔しいけれど、メルツェルの言うことは正しい。ぼくは岐路に立たされていて、問題解決を先送りにしても事態は何一つ好転しない。

 ぼくは既に、一つの道しかないって解かっている。墓から出たときから考えた。工事作業員の面接を受けている最中にも考えた。時計塔に登っているときも考えた。船の中で考えた。馬車に乗っている間も考えた。だけど、どうしても同じ答えに行き着いた。

 ぼくに足りないのは、見つけた道を進みだす覚悟だ。

「……だとしても、死体が転がっているのを簡単に見つけられるのはまずい」

 メルツェルは言う。「同感だ」

 元は造船所だったこの廃墟には船を組み立てる作業場があって、そこは完成した船を川に送り出すために、水を引き込める仕組みだ。そこで事を済ませれば後片付けが楽だ。

 ぼくとメルツェルは作業場の階段を下りた。開けた何もない場所で、コケや泥が隅に堆積している。造船所が現役だった頃は、この空間の大半は船底が占拠していただろう。

 階段を降りる。緊張でぼくの鼓動は早くなる。階段を降りる。ぼくは自分が背負っているルクレツィアの鼓動が早まるのを感じた。ぼくの先を行くメルツェルが振り返る。

「どうした? 顔が真青だぞ」

 ぼくは笑う。空笑いだ。「人を殺すのに慣れている奴より人間らしいだろう?」

 ぼくがルクレツィアを殺さなければ、大勢の人が死ぬ。

 ぼくの頭は犠牲を避ける術を見つけられなかった。

 まただ。ぼくはまた諦めることを迫られている。非力が招いた失敗のツケだ。復讐なんて願わなければ負うこともなかった責任。今度こそは上手くやれるなんて自分に期待したせいで、ぼくはぼくの人生を悪化させるばかりか、また他人を不幸に陥れようとしている。

「気負い過ぎるな」メルツェルは言う。「君は大勢を救おうとしているんだ」

 メルツェルは言う。

「それに、君はルクレツィアを制裁する権利がある」

 メルツェルは言う。

「メアリーのことさ」

 ぼくとメルツェルの間に、メアリーの影が現れる。

 ぼくの鼓動は高鳴って、ルクレツィアの鼓動を掻き消す。

 メルツェルは言った。「彼女はメアリーの友人だって自称したくせに、君の訴えを無視してあの火の家事を事故だと決めつけた女だ」メルツェルは言った。「美徳を語り、人に取り入る、口先だけの女だよ」

 メルツェルは言う。

「君が恨むべき女だ」

 メアリーが呟く。「わたしを見捨てた女よ」

 メルツェルは言う。「わたしのためにやるんじゃない」

 メアリーが呟く。「わたしのためにやるの」

 メルツェルは言う。「ヨハン・メルツェルを野放しにしたツケを払わせるだけだ」

 メアリーがぼくに聞く。

「わたしが何を望んでいるか、あなたに解かる?」

 ぼくは造船上の作業場でルクレツィアを背負ったまま立ち尽くす。

「わたしが何を望んでいるか、あなたに解かる?」

 ああ、解かるさ。君はルクレツィアの謝罪なんか望んじゃいない。

 ぼくは背負っていたルクレツィアを降ろそうとした。彼女の足が地面に触れたそのとき、それを見計らったように、ぼくはルクレツィアに突き飛ばされた。

「動かないで」

 ルクレツィアはふらつく足で懸命に立つ。ぼくの腰にあったはずの銃を構えながら。

「お早いお目覚めですな」メルツェルは悠長に笑う。そして、ぼくに言った。「薬の分量でも間違えたか?」

 ぼくがどれだけ思考を巡らせても、犠牲は避けられなかった。大勢を救うのには代償が伴う。

 解かってほしい。ぼくは別の拳銃を抜く。簡単に決められるようなことじゃないってこと。ぼくはルクレツィアに銃口を向ける。解かってほしい。決断には痛みがあったってことを。ぼくはルクレツィアと睨み合った。そばでメルツェルがどんな目をしているかは知らない。視線を逸らしたら最後っていう緊張があった。

 狙いを外すような距離じゃない。お互いに。ぼくたちの顔は陰に隠れて表情は解からない。ただ、命がけのぼくとルクレツィアの息が響き、鼓動が高鳴り、窓から差し込む僅かな光が銃身を光らせる。解かってほしいのは、考え抜いた末の決断だったってこと。犠牲を最小限にするなら、この手しかなかった。

 ルクレツィアがぼくから奪った猟銃には五発の弾が装填されていて、ぼくが構えた拳銃には弾がない。

 大事なのはメルツェルにとって不都合なのは誰が生き残ることかってこと。犠牲が不可避ならば問題はその一点に尽きる。全てがメルツェルの思惑通りに転がっているこの状況を覆せる者がいるとしたら、それが誰かは明白だろう。

 解かってほしいのは、これは覚悟のいる決断だったってこと。ぼくは顔も知らない無数の人と王女を救うために、自分の命を差し出さなくちゃならない。解かってほしいのは、ぼくが納得して決めたわけじゃないってこと。そうせざるを得ないから、そうしている。

 願わくば。その銃でメルツェルの頭も吹き飛ばしてくれってルクレツィアに祈る。

 願わくば。これ以上の痛みを味わなくて済むように一撃で仕留めてくれって祈る。

 ぼくは引き金を引く。撃鉄が起き上がる。だけど、銃口は火を噴かない。

 カチリとだけ音が鳴る。幸いなことに、ぼくが事情を話さずとも、ルクレツィアはそれで全てを察してくれた。

「最悪の目覚めね」ルクレツィアは呟く。「本当に、最悪」

 ルクレツィアがそう言ったあと、造船所の作業場に銃声が響いた。

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