4-5
クロムウェル建設公社の臨時作業員に成り済ますのに、大がかりな下準備は要らなかった。求人広告に記載されている電話番号に連絡して、面接の時間の五分前に事務所のドアを叩いたぼくは、木板に脚を取りつけただけの椅子に座らされ、現場監督と思しき大柄な面接担当の男に貧相な身体を嘲笑されたあと、必要書類に偽名のサインを記した。待遇に文句を言わない、経営者にとって都合の良い労働力を演じるつもりでいたが、それも不要だった。納期を間近に控えた中での求人だ。どんな手でも良いから人手をかき集めたい。訳はそれに尽きるだろう。
休憩時間になると時計塔の作業用足場から町を展望するのがルクレツィアの日課だってことは、兵士や作業員たちの話から聞いていた。塔の上階、それも外側なんかには作業員もほとんど寄り付かない。人知れずルクレツィアを浚うには格好の機会だ。まさか、彼女がアンジェリカを連れて来るとは思いも寄らなかったが。
ルクレツィアに追い着いたぼくは、メルツェルが手配した滑空装置を展開した。王立兵器工廠で試験的に作られたもので、地形に阻害されない迅速な偵察手段として設計されたそうだ。
姿勢が安定してきたところで、展開していた翼を少し畳む。滑空を続けていれば城壁を越えた先まで飛んでいけるが、その速度は緩慢だ。高度を保っている今はともかく、降りている最中に撃ち落とされるだろう。
心臓が鳴る。大きく鳴る。祭りの準備で賑わっていた町が一転して、狂乱に包まれた。警鐘が鳴る。怒声や悲鳴が響く。ぼくは大罪人と化し、国中から追われ、安息地を失った。
メルツェルは笑う。「元々、生きている限り君は安住などできなかっただろう」
背負っている装置から声がした。奴は町に潜む死体やアルマの身体を使って、絶えずぼくを監視している。
ぼくは世界の敵だ。秩序を乱し、平穏を脅かす。兵士たちが馬に跨りぼくを追う。人々は家の戸を閉め、カーテンの隙間から道を見張る。神父はぼくを呪い、事件の解決を祈っている。
みんなが、王女を救おうとしている。みんなの命を人質に取られたぼくには、何の救いもない。縋るものもないまま、ぼくはメルツェルに利用されて、使い捨てられる。死んだところで墓も建たない。これは、誰のための戦いだ?
ぼくは思わず笑った。墓のない死体と、死体のない墓は、どっちがマシなんだろう。
ぼくが国中に恨まれる代わりに、国中の命を救えたとしても、それがメアリーの命を救えなかったことの慰めになるなんてことはない。ぼくは失敗を繰り返し、メルツェルの狗に成り果てただけ。何かを成し遂げたわけじゃない。屈辱と汚名に塗れて自分を責め続ければ、あの世でメアリーも納得してくれる?
「そんなわけないじゃない」
メルツェルがぼくを見る。「また『女の声』か?」
大罪人が町に潜伏していると発覚した時点で、全ての大通りは封鎖されて、一定間隔をあけて検問所が設置される。脇道ならば警戒の薄い場所もいくつかあるが、城郭の門を抜けるときには大通りを使うことになるのだから、身を潜めようなどとは考えないほうがいいとメルツェルは言った。奴のことは信用できないが、嘘を吐く理由もない。ぼくを駒の一つくらいにしか考えていないメルツェルには、王女暗殺の機会を失うことのほうが痛手だろう。
隠れるのが無理なら、ぼくは追ってこられない道はないかと考えた。
コークストンには町を二分するように大きな川が通っていて、観光客や積荷を乗せた商船が頻繁に行き来している。舗装された川岸に着地したぼくは、ルクレツィアを背負い、橋の陰に隠しておいた小舟に乗せた。
「やればできるじゃないか」
小舟で待機していたアルマが、気を失っているルクレツィアを見下ろした。
「脱出するまでは手出し無しだ。……解ってるな?」
「覚えているさ。他ならぬ君の頼みだ」
船が出発すると、一台の馬車が川沿いの道を使ってぼくたちを追ってきた。
「エワルド!」ロバートの声だ。「しょせん、お前はただの狂人だったというわけか!」
天窓から顔を出したロバートは、執拗に小船の動力を銃で狙う。ぼくたちの船はこのまま河口まで下っていけるが、川沿いの道は少し先に建っている建物を迂回するように、大きく逸れる。ぼくはそれを知っていて、脱出経路に川を選んだし、ロバートには土地勘があった。ここでは、ぼくは撃たれない。ぼくを仕留めたところで、小船は岸壁に引っかかるまでどこまでも下っていく。小船がひっくり返れば、気を失ったルクレツィアは川の底だ。だから、ロバートはぼくを撃てない。
初めの二発は馬車や波の揺れと風に煽られて水面を叩くだけだったが、三発目は船尾に当たった。動力は? 無事だ。
「進路を見ていろ」メルツェルは言う。「壊されたのを確認したところで、やれることは変わらないだろう?」
そりゃあ、そうだ。
遠くから地響きがして音と揺れが次第に大きくなる。何かがこちらに近づいているようだ。ロバートが呼んだ応援だろうか。しかし、どれだけの数を揃えたところで、川に入って来られないのでは、ぼくを追っては来られない。
「誰だかは知らないが」声が響く。ぼくの頭じゃない。この声は男のもので、街中に響いている。「王女を浚ってくれてありがとう」
頭の可笑しなことを言っているこの声には聞き覚えがある。
「おかげで面目躍如の機会が得られたというものだ」
あれは、アンソニーの声だ。辺りの振動が大きくなると共に、アンソニーの笑い声も大きくなる。川沿いの建物が倒壊し、姿を現わしたのは一台の〈タロス〉だった。
「どこから持って来たんだ、あんなもの!」ってぼくが悪態吐いている隣で、メルツェルは笑っている。
「どんな臆病者でも、後が無くなれば決心するものらしい」
船ごと王女を川に沈めれば、メルツェルはぼくとの約束を守らずとも目的を達成できる。だから、ぼくはメルツェルがアンソニーの手引きしたんじゃないかって疑ったけど、メルツェルは船に備え付けられている機銃を〈タロス〉に向けて構えた。
「あいつの生い立ちを知っているか」
「興味がない」
メルツェルは「そう言わずに聞け」と話を続けた。
「地方の領主の長男として、父親から押し付けられた責任を背負い」メルツェルは〈タロス〉を狙って機銃を連射した。「この町の金融街でアンソニーは馬車を降りた」〈タロス〉の脚部装甲に無数の窪みができる。しかし、その歩みは止まらない。
「名家の子息の責任とは何か、知っているか? 家の……名前の価値を大きくすることだ」
メルツェルは一方的に喋っている。相槌の必要もないだろう。ぼくたちは仲間でも、ましてやこれはデートでもないんだから。
「父親の署名と家の判が押された小切手を握り、成功者の仲間入りを夢見ていたあの男を待ち構えていたのは……銃と拳だ」
笑い声と発砲音の連打が混じる。
「金融街とは名ばかりだったのさ。その正体は腐った奴らの掃き溜めだ。内政が手薄になっていた戦時中は、政治家たちを買収して好き勝手をやっている連中が金融街を牛耳っていた。それを知らずに無法者の縄張りに踏み込んだアンソニーは、軍資金にするはずだった父親の小切手を奪われて、無一文の始まりを余儀なくされた。自分よりも知恵が劣り、何の努力も積んでこなかった連中に蹂躙されたんだよ。だから、あいつには強靭な肉体への執着がある」
だから、手を換え、足を換えっていうやり方に抵抗がなかったのか。
「肉体の優劣の前には、家柄も財産も役に立たない。アンソニーは非力な自分を憎み、力で勝てぬ者を見返そうとした。身を粉にして働き、アンソニーは経済発展を担ってきたんだよ。しかし、それは戦争の下支えとしか見做されなかった。いつも持て囃されたのは、祖国に勝利をもたらした兵士たちだ。〈豊穣会〉の一員となり、将軍と肩を並べるようになって尚、劣等感は消えぬのさ」
ルクレツィアを救い出せば、かつてどれだけ望んでも手に入れられなかった脚光が自分に注がれる。小さな小船の上のぼくたちを見下ろせば、これから先にはそんな成功しかないって思えるのだろう。
「アンソニーは、お前とわたしに救われたんだ。見ろよ。念願の玩具を買ってもらった子供のようだ」
だから、ありがとう、か。これだけ方々から感謝されるとは思ってもみなかった。このクソみたいな役割は、一体誰のためにやっているのか、いよいよ解からなくなってきたぞ。
「あいつの栄光のお膳立てになるつもりはないね」
「だとしたら」とメルツェルは言う。「上手いこと逃げ延びることだな」
〈タロス〉の歩みは、ぼくたちの船よりも早い。あいつに追い着かれないためには、どうすればいい。速度を上げる? 駄目だ。とっくにやっている。逃走経路は川をなぞっているって知られているんだから、撒くことだってできやしない。
小船は橋の下を潜り、川に沿っていた道は建物を迂回して岸を離れる。ロバートは追走を止めざるを得ない。メルツェルは執拗に〈タロス〉の脚を狙ってる。アンソニーがあれを操れるのは、〈タロス〉の身体に血が巡っているからだ。あれを作ったメルツェルは、もちろん解かってる。鉛玉の連打が続く。大半は装甲板に弾かれたけど、数発が僅かに露出している駆動機構に命中した。〈タロス〉の節々から鮮血が吹き出る。建物が赤く染まり、川が濁り、道に血溜まりができた。しかし、これくらいでは、〈タロス〉は止まらない。
「痛みというのは身体が頭に送る、逃げろという警告だ」〈タロス=アンソニー〉の笑い声が続く。「しかし、わたしは国賊と戦っているのだよ」
ええと……つまり……それなりには効いてはいるってことか?
住宅街を抜けた川は、工業地帯に入った。〈タロス〉はその腹で煙突や鉄塔をへし折るが、速度が緩まることはない。
地下室を資材置き場や動力室にしたり、配線設備を埋め込んでいる工場が多いために、工業地帯は地盤が高く、川沿いには高い岸壁ができていた。ぼくは岸壁を注視する。普段の排水量が多いことに加えて、降水量の多い時期は調整池にもなる工業地帯の流域には、小舟で入り込める脇道がいくつかある。
遂にぼくたちに追い着いた〈タロス〉が、船の進路上に片足を突っ込んだ。これ以上先には進めないってこと。だけど、〈タロス〉が突っ込んだ足の手前に脇道がある。ぼくは波に煽られて傾いた船を旋回させた。その拍子にメルツェルが水面に落ちて……っていう都合のいい展開を少しだけ期待したが、まあ、そう上手くはいかない。
支流は暗渠になっており、工業地帯の地下を網目状に通っている。この流れを把握している銀行家がどれだけいるのかは知らないし、融資の審査にどれだけ影響するのかなんて想像もつかないけれど、頭取の事務室に下水道台帳が常備されているとは思えない。
覚悟はしていたものの、油や薬品、加えてそれらを餌に集まった得体の知れない何かの匂いで、下水道はこの世とは思えない匂いがした。同乗しているくせにメルツェルは不快な思いをせずに済んでいるし、ルクレツィアはまだ目を覚まさない(起きても困るんだけど)。ぼくだけが鼻を摘まんで頭を痛めている。暗闇の中、等間隔に設置された格子から差し込む地上からの灯りを辿っていると、本当にこのまま別世界の入口に迷い込んでしまうんじゃないかって気になってきた。ぼくだけがこんなところに追いやられている。あんまりじゃないかって訴えたところで聞いてくれる人もいない。腐臭とねずみの鳴き声。地響きと波の音。ぼくは自分を惑わせるものを無視して、船の進路に集中する。下水の整備作業員が業務中に自前の光源を失くしたときのことを考えて、暗渠の分岐点は格子の下にくるよう設計されているそうで、その格子には下流の向きが刻まれているらしい。全速力で壁に突っ込むような無茶をしなければ灯りが無くても脱出は難無く行えるってことだ。
しばらく進むと遠くに出口が見えた。もう二度と立ち入ることはないだろうからといって、それを惜しんだり、後でここを懐かしむことはないと断言できる。
船は揚々と川の流れに身を任せている。
「止まれ」って声が暗渠に反響した。「観念するんだな」船が出口に差しかかってすぐのことだ。
アンソニーは下水路なんて把握していないはず。だけど、犯罪者を取り締まる立場のロバートは? 全体図までは覚えていないにしろ、脱走に使えそうな出口くらいは頭に叩き込んでいたに違いない。暗渠に追い込んで下流を監視しておけば、ぼくたちは袋のネズミ。
馬車の上で焦っていたのは演技だったということか。やるじゃないか、ロバート。
成す術なく、船は待ち構えていた兵士たちに包囲された。
……されているんだろう。
どうあれ、船に注目が集まってくれているのなら、それで構わない。
だって、ぼくたちは既に暗渠の途中で下船したんだから。
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