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ルクレツィアの後をついてやってきたのは、バリー宮殿から少し王城の方へ行ったところにある、大きな時計塔だ。いつもなら、その周辺は市民の憩いの場になっているけれど、一昨日くらいから博覧会に集まる観光客を目当てに、近所の商店や外務省の承認を受けた外国の商人が出店の設営準備をしている。
「忙しくしてる人たちなら、もう見飽きたわ」
「もうちょっと我慢してついて来て」
時計塔の根元付近は仮設の鉄柵で囲われており、数人の憲兵により監視されていた。鉄柵の向こうには、憲兵の倍くらいの人数がいて、手元の書類や時計塔の天辺を見上げたりしながら打ち合わせをしている。服装こそ各人の役割に合わせてバラバラだけど、どれも庁舎内で見かけたことがあるデザインだった。
「お疲れ様」
ルクレツィアは王女なんて肩書きがないみたいに、憲兵に声をかけた。憲兵の方も、礼節を保ちながらも、緊張感はない。憲兵は挨拶をしてから、「鍵は開いていますよ」とルクレツィアに告げた。
ルクレツィアに続こうとすると、憲兵は通りすがるわたしの頭を撫でた。出鼻を挫かれたわたしは憲兵にお辞儀をして、逃げるようにルクレツィアを追った。
ルクレツィアが通りかかった作業員に塔の戸を開けてくれって頼むと、作業員は開閉を管理している別の作業員に合図を送った。
「気をつけてくださいね。上階は増設作業中ですから」
「ええ。邪魔をしないように注意する」
普段からこの時計塔は一般開放されていて、見学料を払えば誰でも中腹までなら上ることができる。内壁に沿って螺旋を描く階段ではなく、塔の中央にある昇降機を使った。
「増設って、もっと大きくするってこと?」
ルクレツィアは立入禁止と書かれた看板が貼られた戸を開けた。
「いいえ。設備を増やすの。船を停めるための設備を作っているの」
何を言ってんだ、この王女様は。
「船と言っても、川や海を浮かぶ船じゃないけどね。ここに停める船は、空を浮かぶの」
何を言ってんだ、この王女様は。
「気嚢っていう袋に、空気よりも軽い気体を詰め込んで、船体を浮かべる船。今回の博覧会の目玉にしたくてね」
この場に集まっている作業員たちは、船を固定するための器具と、空気より軽い気体を気嚢に送り込むための配管を時計塔に撮りつけているらしい。
「わたしに見せたいのって、その船のこと?」
「残念だけど、船はまだここにないの。博覧会初日のセレモニーに合わせて、山の向こうからババーンって現れる……っていう演出を予定しているから。ねえ――」ルクレツィアに声をかけられた作業員が振り返った。「点検用通用口は開いてる?」
「はい。この時間は担当の班も休憩中だと思います」
通用口の戸を開けると、風が吹き込んだ。わたしは巻き上がるスカートの裾や髪を抑えたりしたけれど、ルクレツィアはそういうことに無関心だった。外に出ると、そこは時計の針の根元の真下。作業員の記憶は間違っていて、一人の作業員が工具を手に、妙な機材を背負って、時計の保守作業をしている。
「どう? この眺め。素敵でしょう?」
ルクレツィアがわたしに見せたがっていたものは、コークストンの広大な街並みだった。
「いつか彼女が自分の力で歩けるようになったら、見せてあげるって約束した景色なの」ルクレツィアは笑った。「ここ、父上の部屋よりも高いところにあるのよ」
「メアリーとはどんな関係だったの?」
「わたしに聞きたいことって、彼女のこと? もっと詳しい人があなたの周りにいるんじゃない?」
「あなたから見た、メアリーがどんな人だったのかを知りたいの」
「わたしが知っているのは、メアリーのほんの一部だけよ」ルクレツィアは手摺りに肘を付いて町を見下ろした。「交流のほとんどは、文通だったの。お互い、都合を合わせ辛い事情があってね。メアリーの脚の話、聞いてる?」
「ええ。事故の後遺症で、自分では動かせなかったって」
「わたしの方も、友達に会いに行くくらいの理由じゃ、城からは出られないから。会えたのは科学博覧会みたいな特別な日だけ。近況とかは手紙でやりとりしていたの」
ルクレツィアはこっちを向いた。
「あなたのことも、その手紙を通じて知ったの。完成はまだまだ先だけど、楽しみにしている計画があるって。ロバートの報告を聞いて、あなたのことだってすぐに解ったわ。だから、確かめたいって思った」
「わたしのこと?」
「あなたがどんな風に育ったのか」
「随分、親身になってくれるのね。メアリーはもういないのに」
「メアリーとわたしが友達だったからというのは勿論だけど……なによりね。あなたの存在そのものが、わたしの目指すところなの」
ルクレツィアは町に視線を戻してから続けた。
「技術博覧会を開いたのもそう。わたしは人々の熱意から生まれるものが、今のこの国に必要なんだって思っているの。今のボードエルは、時代に置き去りにされているから」
「置き去り? 時間は誰にだって平等に流れるものでしょう」
「心が置き去りになっているの。ヴェルダがわたしたちを裏切るつもりだって街頭で騒ぎ立てる人も、手に入れた地位に固執して変わっていくことを拒むお偉方もそう。口にするのは起こったことばかり。苦難の時代に囚われているの。わたしたちが平和の時代を取り戻したんだ。そう言う人も軍にはいる。感謝はするわ。敬意も持つ。だけど、これからを生きるのは、今から何かを成し遂げようとする人たちでしょう? なのに、議会の話題や資金が投入される事業はどれも既に行われていることの繰り返し。軍隊の活動を救難主体に転換していこうって訴えた議員がいたけれど、兵器工廠や鍛冶組合の口添えで無視された。港をもっと拓いて強固な経済関係を他国と結ぼうとした経営者の計画は、金融連合の働きかけで潰された。今やっていることをどれだけ継続できるかを大事にしている人が、他人から未来を奪っているの」
ルクレツィアは溜め息を吐いた。
「地位を護ろうとする人たちのために市民がその下支えにされているのを放っておいたら、その先に待つのは国の破滅よ。延命したって死は避けられないのと同じ。どれだけ今が愛おしくても、今日に縋るっていうのは、ゆっくり少しずつ苦しむことなんだから」
わたしもルクレツィアの隣で町を見下ろした。お祭り前でみんなそわそわしているけれど、それ以外は普段と大きく変わらない日常が過ぎていく。不満だらけの毎日でも、諦めてしまった今日という日でも。人々は着実に死へと向かっていて、逆行は有り得ない。
「このお祭り騒ぎは、あなたの言う、未来を見ている人を後押しするもの?」
「そういう流れを生むきっかけになればって思った。メアリーと会ったのも博覧会が初めてでね。彼女はどうしたら自分は幸せになれるか解っていた。他人から押し付けられた価値観じゃなくて、自分の心の声を聞き逃さないっていうのかな。人生を賭ける価値があるって確信できるものを彼女は持っていたの」
「それが、人形作り?」
「そう言っていた。作っている人形に個性を与えるとき、彼女はもしも自分の人形が生きていたらってことを想像するんだって。どんな家族の下で育って、どんな人と出会って、どんなところで何をして暮らすのか。そういうことを考えながら顔や手足の造詣を整えて、服を縫うと、人形が出来上がったときには、自分とは別の一生を生き抜いた心地になるらしいわ」
「それならきっと、わたしはメアリーの生きがいにはなれなかったでしょうね」
「どうして?」
「わたしはわたしの一生を勝手に生きているだけだから」
「メアリーがあなたに望んでいたのは、自分の思い通りを演じることじゃなかった」
わたしはルクレツィアを見た。彼女もこっちを見てる。不意に目が合ったせいで、わたしは少し驚いた。
「あなたがあなたの意思で生きてきたのなら、それはメアリーの期待通りよ」
ルクレツィアは続けた。
「メアリーがあなたに望んでいたのはね。彼女が思いもよらなかったような体験をあなたが味わうこと」
「メアリーの思いもよらないこと?」
「人一人にできることは限られているって解かってたの。視野の広さも、行けるところも、話せる言葉も。メアリーはわたしに色んな人形を見せてくれたし、わたしが見たものだけでも、本当に沢山の表情をした人形があったけれど、彼女にしてみればどれも自分の想像の範疇でしかなかったってことが不満だったみたい」
「自分を超えたものが欲しいって、なんだか欲張りね」
自分の身体に不満を抱えて〈タロス〉になることを選んだ人たちのことを思い出す。想像以上のものを求めるっていうのは、つまり身に余るものを抱えるってことで、その先で待つのは、あの人たちみたいな自己破綻だったんじゃないか。
「欲求は前進するための活力よ。願いがあるから自分に足りないものがあるって気付く。目標があるから成長を続けられる。時代に取り残されないためには欲求の力が必要なの。メアリーの瞳や言葉には、わたしが出会った人の中でも一際活力があって、わたしはそれに惹かれた……のかも」
今の自分じゃ納得できないって気持ち。人がそういう焦燥に憑りつかれるものだっていうのは、エワルドからも感じてる。ルクレツィアの話から想像するものとはちょっと違うけれど。
「あなたには健やかに育ってほしいって思っているわ。あなたの幸せのためにも、この国の人の希望のためにも。それから……メアリーが目指していたものは意義のあることだったんだって証明するためにも」
「わたしが幸せだと、みんな幸せ?」
「その通り」ルクレツィアは朗らかに笑った。なんだかちょっとくすぐったい。
「なんだか、わたし、知らない内に沢山背負わされているのね」
「気負うことはないわ。正しいことをしようとしなくていい。間違ってもいい。自分に正直でいることと、他人を敬うことを忘れなければね」
それから、とルクレツィアは言った。
「わたしからも聞かせて。どうしてあなたはメアリーのことが気になるの?」
「迷子になったら、来た道を戻れって教わったから。白状するとね。今のわたしは、自分の力だけで何でもできるって思い込んで、実家を飛び出して現実に直面した女の子の気分なの。右も左も解からない町にやってきて、寝る場所さえ見つけられない……みたいな」
ルクレツィアは笑う。「度胸があっていいじゃない」
「わたしのやっていることって正しいのかなって。……大事な人に喜んで欲しかっただけなのに、わたしがやったことで彼のこと、余計に苦しませてるみたいに思えるの。状況を良くするためには、多分、わたしもエワルドも変わらなくちゃいけない。……やり方も、進む道も」
ルクレツィアは頷くことも否定することもしなかったから、わたしは続けた。
「エワルドの苦痛も、わたしが生まれたきっかけも、全てはメアリーを失ったことから始まった。だから、正しく知っておく必要があると思ったの」
「エワルドは教えてくれなかったの?」
「聞いた。聞いたけれど、益々解からなくなった」
「解からなくなった?」
「自分はメアリーに愛想を尽かされていたって言ってた。自分がメアリーの助けになるんだなんて息巻いていたくせに、できたことは自分が役立たずだってことを証明しただけだったから……って」
「……そう」ルクレツィアは悲しそうな目をして俯いた。
「一緒にいたのが自分じゃなければ、メアリーはもっといい人生だったはずだって言うの。そこまで打ちのめされていたのに、エワルドはメアリーと居続けたばかりか、彼女が死んでからも囚われ続けている。苦しみしか生まない関係なのに、終わらせないなんて不思議でしょう? だから確かめたくて。メアリーは本当にエワルドの言うようなことを思っていたのかなって」
「メアリーの手紙には、エワルドのことも書いてあった」
メアリーの真実の声が聞ける。そう思っただけで、わたしの胸は高鳴った。
「どんな風に?」
エワルドと過ごした日々をメアリーはどう感じていたのか。わたしが最も知りたかった話を知る機会だったのに、それは思いも寄らない横やりで有耶無耶になってしまった。
ルクレツィアが振り返ると、女の人が立っていた。長髪の女性。いいや。違った。違う。錯覚みたいだ。瞬きに合わせたように像が移り変わって、長髪の女性がいたはずのところには時計の針の回路を弄っていたはずの作業員が立っていた。
「えっ?」
今度はルクレツィアだ。作業員が付き出した腕。その先はルクレツィアがいたはず。なのに、ルクレツィアは、手すりの向こう。落ちる。それはもう、どうしたって避けられない事態だった。
わたしの隣を影が過ぎった。ルクレツィアを突き落とした作業員だ。作業員は防塵マスクを外しながら、手すりを跳び越えた。
わたしはその横顔をはっきりと視た。
手すりから飛び降りた作業員は、ルクレツィアに追い着くと、背負っていた機材のスイッチを押して、鳥のような翼を展開した。
ルクレツィアを抱えて飛び去るその背中に、わたしは叫んだ。
「待って! エワルド!」
しかし、わたしの声は彼に届かず、ほどなくして町には非常用のサイレンが響いた。
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