2-5

「蹄鉄を打たれる馬の気分ね」

メアリーは椅子に座ってぼくを見下ろした。彼女の前でぼくが跪いているのは、靴を履かせるため。四対の金属板に別れた胴を組み合わせ、最後に靴底をはめる。作業には専用の工具が必要で、今のところはこれを設計したぼくにしか組み立てられない。

「それだけ速く走れるようになればいいんだけど……」

「もう」ってメアリーは笑った。「冗談を真に受けないでよ」

「……これからのことがかかっているんだぞ」

 心が求めたものを形にすることが、発展を推し進める。そう信じるルクレツィア王女の立案で、コークストンでは二年に一度、広い分野を対象に研究者のための助成審査が行われていた。王立の兵器工廠へ推薦されたり、大学に研究室を用意されたり。助成の仕組みは色々あったけれど、ぼくたちに必要だったのは金だ。研究を続けるための費用。途方もない額というと大袈裟だけど、庶民が道徳的に働いていたんじゃ稼げないような資金が欠かせなかった。

「大丈夫だよ」ってメアリーは言う。「頑張ってくれてたの、ちゃんと見てたから」

 幾度かの事前審査を通ったぼくたちは他の通過者共々王城に招かれ、ルクレツィア王女直々の挨拶のあと、審査員の前で実演するよう仰せつかった。

「呑気だな。今日が駄目なら、今までのことがまた無駄になるっていうのに」

 ぼくとメアリーの挑戦は、これが初めてではない。前回の助成審査では落選……というか、望んだ結果にならなかった。技術博覧会の出展権。余興がしたくて研究しているんじゃないんだぞって腹を立てたぼくは、招待状を破り捨てたかったけれど、人形作家だったメアリーは自分の作品を披露するいい機会だって喜んでいた。

 一度目の失敗から、二年待った。ここでまた失敗を重ねると、次の機会まで更に二年待たされる。一日の食事を減らさなくちゃ本や資材も揃えられない経済状況だったから、援助なしに研究を進めることは困難だった。二年間、人生が停滞していた。無為に過ぎた時間。金さえあれば押し進められたプラン。遠ざかった成功。足踏み。足踏み。同じところで、同じことを繰り返すのは、もううんざりだ。

「次の者、審査官の前へ」名簿を手にした兵士が言った。

自分の研究を披露し終えたら、結果は追って連絡っていう段取りだ。発表する方は事務作業なんだろうが、待ってる方は、一週間くらいの地獄を味わう。

「頑張ろう!」とメアリー。

「昨日のぼくに言ってくれ」ぼくはメアリーが乗った車椅子を押す。

 これは、事故をきっかけに足が動かなくなってしまったメアリーが、もう一度自分の力で歩くための挑戦だ。メアリーは膝に乗せた手を硬く握った。彼女だって怖い。大丈夫だって言えなかった。言ったところで自信にはならない。ぼくはこれまで何度も同じ言葉を口にして、その度に失敗を重ねたから。

 座席に踏ん反り返った審査員たちの前で、ぼくはメアリーから離れる。軍服を着た女性、外交員を示す襟章をつけた男。所属する大学のバッジを胸につけた老人。メアリーに注目する者たちの中には、メルツェルの姿もあった。

 ぼくはメアリーの後姿を眺めながら、昨晩、徹夜で頭に叩き込んだ文章を捻り出す。

「被験者は足に重度の後遺症を抱えています」審査員が重視するのは公益性に適うかどうかってこと。親しくしてたら私欲が目につく。これは前回からの反省点だ。「肉体が喪失した能力。〈外殻義肢〉は装着者が失った力を肩代わりする、いわば新しい身体です」

 反応は冷ややかだ。まあ、無理もない。前回も同じものを出展しているし、何よりぼくの研究は地味だ。触手なんて生えちゃいないし、空飛ぶ乗り物ってわけでもない。ちょっと武骨で重そうな義足だ。

「肩代わりするというのは、どういうことかね」

「肉体とは、つまり魂の容器。わたしやあなたという形を持たない精神が、現実世界に実効的な影響を与えるためにまとった衣なのです」

 ぼくは審査員たちの気を集中させるために一間置いて続けた。

「身体は我々が思うことを成すために欠かせない道具であり、手段ではあるものの、時として変えれば魂の束縛にもなる。例えば、病。例えば、事故。例えば、老い。肉体は実体あるものですから、現実の影響を避けられない。衰え行く身体に留まる限り、我々の魂は現実への影響力を次第に失っていく。だから、わたしは考えました。肉体の衰退という拘束から、魂を解き放つ方法を。その秘訣は、わたしたちの魂と肉体を結ぶものにあった」

「それは?」 口を開いたのはメルツェルだ。彼の見た目は審査員たちの中で最も老齢で、発言力もそれなりにあるのだろうと思わせた。

「血液です。この身体を巡る血は、意思の媒介となり、魂が身体を操る助けをしている。血管はいわば、意思伝達のための通信網なのです」

 メアリー、とぼくは呼ぶ。メアリーは車椅子の手すりを支えに上体を起こす。

「〈外殻義肢〉はその血液と血管を利用する。装着者の血管と義肢内の配管を直結させて、肉体と義肢を循環する血流を構築するのです」

〈外殻義肢〉が装甲板を軋ませながら、メアリーの上体を持ち上げて、彼女を立たせた。

「意思。つまり、魂による脚への指令は義肢に伝達されて、指令を受け取った義肢は、魂の考えた通りに歩き、走り、跳ぶ」

 メアリーは〈外殻義肢〉に引っ張られるように数歩進んだ。考えた通りに進む。ぼくは審査員にそう説明した。だが、彼女の歩みは、暴れ回る犬の手綱に引っ張られる子供のようだ。勝手に歩く足に身体が追いつかず、やがてメアリーは転んでしまった。

「前に進むと言っても、踏み込むときに姿勢を維持したり、思った速度を維持したり。その工程は驚くほど沢山あって、実に細かい」ぼくは急いでメアリーを起こす。「わたしたちはあまり意識せずに行っておりますが」

 メアリーは「ごめんね」と呟いた。何がごめんだ。転ばせてしまったのはぼくなのに。調整が不十分だったんだ。普段なら、歩き方はぎこちなくても、転んだりはしなかったはず。しかし、今のメアリーは緊張している。気分は高揚していて、身体中が強張っている。〈外殻義肢〉はそういう異常を読み取って、暴走を起こしたに違いない。

「調整には試行回数を重ねる必要があります。そのための時間と……予算も」

 後悔を頭から消す。ぼくはメアリーを椅子に座らせる。焦りを消す。動揺を紛らわせる。

「……ですが、研究が進めば、生まれもって与えられたこの身体に対する、不満のいくつかを解消できる」ぼくはこのとき、事前に用意してきた言葉をすっかり忘れてしまった。「我慢してきたことが解決するのです。運命だと押し付けられてきた先天的な欠損も、老いによる肉体の衰弱も。だから――」

 言いながら、酷い有様だって思ってた。これでは、説得しているんじゃない。懇願だ。ぼくはできる。やってみせる。同じヘマはしない。だから。だから、見棄てないでくれ。

「冒涜だ!」審査員の一人が立ち上がった。「授かった身体に手を加えようなど言語道断」

 メルツェルに次いで老齢の聖職者の男だ。

「ですが、これが最善なんです」メアリーが再び自由を手にするために最善だと思うことを、ぼくはやってきた。「……最善だと、思ったんです」

 神父は納得しない。くそっ。何が神だ。歩けなくなった人一人救えないくせに。

「救いの手を伸ばそうとすることが、あなたの信じる教義に反するというのかね」

 怒り狂った神父を制したのは、メルツェルだった。だけど、神父が引く様子はない。

「手段が神の教えに背くと言っておるのです」

 メルツェルは嘆息した。

「弁えていただきたいのは、ここが正義を説く場ではないということだ。マクレガー神父」

「あなたも神を愚弄するのか!」

「そういう神父は王女の志を愚弄するつもりか? 審査会は軍人法定や宗教裁判ではない。明日を築こうとする者たちの意思を汲み取る場だ」

 他の審査員たちの視線が自分に集まったのに狼狽えた神父は、渋々腰を下ろした。

「質問してもいいかな?」メルツェルはぼくに言った。「君の義肢は足だけかね」

「当面のところは、そうです。ですが、血流を制御する配管と身体機能を真似る装置の精度を上げることができれば、様々なことに応用が効く。消化器は難しいですが、腕や心臓といったものなら――」

 先ほどの醜態の分を取り戻したいって焦っていたぼくは、思いついた言葉を捲し立てた。メアリーがぼくの袖を引く。それで我に返ったぼくは、審査員たちが失笑しているのに気づいた。ただ一人、メルツェルを除いて。

「結果は追って連絡しよう」審査員の一人が笑った。「道に気をつけて帰りたまえ」

 最低な冗談で送り返されたぼくたちに届いたのは、採用見送りの通知文と、科学技術博覧会の招待状。メアリーは喜んでいたが、ぼくは彼女のいない所で頭を抱えていた。

 何が悪かったのか。どうすれば良かったのか。試さなくちゃならないことは山ほどあるっていうのに、何一つ実行できやしない。ぼくたちのやろうとしてることが、誰かの利益にならないっていうそれだけの理由で足止めだ。ぼくは焦っていたし、何でもいいから縋りたい気分だった。そこに声をかけてきたのが、ヨハン・メルツェルだ。

「我々が望むものを作れるのなら、この王立兵器工廠が君の後押しをしたいと考えている」

 これはチャンスだってぼくは思った。

「わたしは反対」 興奮するぼくに対して、メアリーは否定的だった。「兵器工廠の仕事ってことは、エワルドの研究が人殺しの道具にされちゃうかも知れないってことでしょう? そんなの、わたしは嫌」

「医療目的だよ。戦争がなくても、事故の後遺症に悩んでいる人はいる。平和だってずっと続くとは限らない。軍にとって争いがない間は、もしものときに備えておく時期なんだ」

「エワルドはそうやって説得されたの?」

「いいか、メアリー。このチャンスはぼくたちが育ててきたものの結実なんだ。種を撒いて、水をやってきたんだから、ぼくたちはこの実りを受け取る権利がある」

「〈外殻義肢〉が人を救うために使われるっていうのが本当なら、どうしてあなたに声をかけてきたのが軍人なの? 軍医を紹介されたって言われたらまだ解かる。だけど、技術工廠っていうのは、武器を作っているところなんでしょう? しかも、この国とびっきりの大きさの施設だって言うじゃない。そんな大きくて、沢山の人が働いている施設で、エワルドの技術だけが特別扱いされるなんて思えない」

 それが何だって言うんだ。技術に罪はない。起こったことに責任を持つべきは使った奴だ。道具が誰の手に渡るのか。そんなことを懸念して、チャンスを不意にするなんて馬鹿げてる。心配があるなら、予防を講じればいい。

「わたしたちが焦っていること、あの人は見抜いてる」

「そりゃそうだ。何度も審議会に同じものを持ち込んで、その度に断られているんだから」

 おまけに、この間の失態だ。そう言いかけたのをぼくは堪えた。

「メルツェルにどんな思惑があるにせよ、状況を変えられる。兵器工廠の資金と設備があれば、ぼくたちは前進できるんだよ」

「メルツェルって人の思い通りにね」

「利用されるのが気に入らないのか?」分からず屋め。苛立ったぼくは思わず声を荒げた。

「ええ、そうね」メアリーは表情一つ変えなかった。「気に入らない」

「だからまた同じことを繰り返すのか? 二年も。去年や一昨年みたいに」

「道を踏み外すことを前進とは言わないでしょう?」

 ぼくは一度深呼吸する。

「……君は何度も落胆させられてきたから、またぼくが失敗するって思ってるんだろう?」

 審査会だけではない。ぼくが良かれと思ってやってきたことはことごとくが失敗だった。例えば、メアリーの脚を治すと約束したこと。それから、都会なら新しい治療法があるかも知れないと言って、地元から連れ出したこと。これから良くなる。そう期待させるだけで、彼女に言ってきたことは一つも実現できていない。

「そうじゃない」

「だったら、信じてくれよ。今度こそ、ぼくはやり遂げられるって」

 ぼくは自分の口から出た言葉に、心底呆れた。信じろって何を根拠に? 周りを見てみろよ。メアリーは移動するのに車椅子が欠かせなくて、生活は家に電気を引く余裕すらないし、食物だって切り詰めなくちゃならない。切り詰めた金だって、何の成果も挙がらない研究に消えた。徒労だけ。これから何かが生まれるなんて期待はどこにもない。

「あなたは自分を追い詰めてる」 メアリーは間を置いた。言葉を捜す間じゃない。決心するための重苦しい時間。ぼくは俯いたり、窓を見て気を紛らわせる。

「……わたしがそうさせているなら、一緒にいない方がいいのかも知れない」

「かも知れない? そんな誤魔化し方をするな。愛想が尽きたなら、そう言えよ」

 返事がないから、ぼくは渋々メアリーの顔を見た。そこでやっと、ぼくは感極まっていることに気づいた。どちらが、じゃない。お互いに、泣き出す寸前だった。ぼくは涙が零れ出す前に、自分の部屋に逃げた。一人になったぼくは、何をやっている

んだって自分に腹を立てた。メアリーを泣かせたこともそうだけど、基はと言えば、失敗ばかりなのもメアリーにあんなことを言わせたのもぼくのせいだって解かっているのに、それなのに泣いている自分が許せなかった。

 言葉はもう通用しない。メアリーの信用を取り戻すためには、結果を出すしかなかった。日中は家具の修理や工場の機械を整備しながら、ぼくの事業の出資者を募って回る。これは以前からの日課だ。ぼくは資金集めに出かける振りをして、王立兵器工廠との雇用契約書に判を押した。メアリーの言うように手段を選んでいては、一向に先へは進めない。

 鉄格子に囲まれた広大な敷地。入口の看守に社員証を見せると、門が開いた。平らに刈られた芝生。石畳が敷かれた道は、巨大な赤レンガの建物へと続いている。世界が進んでいるのに自分だけが立ち止まっているなんていう惨めな思いからの脱却だ。

 本当のことを知ったらメアリーは怒鳴るくらいじゃすまないだろう。だけど、彼女の行動範囲の狭さが幸いして、ここに通っているところを見つかる心配はない。

 王立兵器工廠に勤めた数か月。ぼくの生活は嘘塗れだった。ぼくの研究が兵器に転用されることがないよう、職場では義務付けられていた報告書について、研究の、真に迫るところをはぐらかし、メアリーの前では、普段通りのぼくを演じる。重労働と僅かばかりの賃金のやりくりに生活を潰される貧困者。工廠の中では、能力査定で現職に留まり続ける程度の評価を確保するために、同僚の研究の手伝いに励んだら、雑用係なんてあだ名がついた。評判はどん底だけど、汚名は気にするなと自分に言い聞かせた。停滞していた毎日を思い出せ。人生が立ち行かなくなっていたあの頃よりは、今の方がマシだろう?

 嘘に染まった生活も、地に落ちた評判も、結局は思い通りにならない現実を誤魔化すためのその場凌ぎに過ぎなかった。嘘も我慢も、ぼくが気付かぬ内に、どこかで綻び始めた。

 メルツェルはぼくの嘘を見抜いていた。 ぼくが隠していた研究成果を手に入れるため、メルツェルは手っ取り早く、最も効果的な手を使った。〈外殻義肢〉の試作品の調整に没頭したせいで帰りが遅くなったある日のこと。メアリーが待っている家に戻ると、そこは火の海と化していて、兵士を連れたメルツェルが、ぼくを待ち構えていた。

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