1-3

 ガラスが割れた窓の向こうで、紅葉した森に分厚い雲が重く圧しかかっていた。ガラスに反射する猫背のぼくは浮かない顔をしている。当然だろう。ヨハン・メルツェルに繋がる何かがあると、期待を胸に乗り込み勇んでみたものの、そこにあったのは死体、死体、死体、死体の山。メルツェルの痕跡は確かにあったが、掴んだものは何もなく、何もないどころか打ちのめされて逃げ帰ってきたとなれば、気も滅入る。

 アンジェリカがぶっ壊されたあと、ロバートの部下が「正式な手続き」を以てベイカー精神病院を捜査して、動く死体の山はロバートたち――国家諜報機関管轄の特務部隊――とやらの拠点として徴用したこの廃墟に運び込まれた。

「外に何かあった?」

 アンジェリカの声に振り返る。枯葉や砂埃が隅に積もった通路に立つ少女。彼女は霊安室の奥で死体に壊されたあのアンジェリカであり、手酷い仕打ちを受けても平然としているわけと、頭身が半分くらいに縮んだわけについては、おいおい話す機会があるかもしれない。

「引越しって、今日だったか?」

 アンジェリカは窓から外を見下ろした。

「ああ、業者が来たのね。現地当局とのミーティングが終わり次第、ここを引き払うって昨日の夜に説明があったじゃない」

「夜。夜か」

 アンジェリカの方を振り返ると、「うわっ」と悲鳴を挙げられた。

「なんだよ」

「酷い顔!」ぶん殴ってやろうか。「……もしかして、眠れてない?」

 移動式ベッドに拘束された動く死体が、白衣姿の研究員の手で移送されるのとすれ違う。確か、コークストン(首都)にある専門機関にサンプルとしてあの病院から押収したものを運び出す手筈らしい。……この話も、聞いたのは確か、昨晩のことか。

「解らない」

「解からない?」

 腹に響くような呻き声が遠ざかっていく。といっても、遠ざかったのは一つ分の声だけで、そこら中の部屋から似たような声が漏れ聞こえているし、さっきの死体が曲がり角の向こうに運ばれたと思ったら、すぐに別の死体をどこかへ運び出そうとしている他の研究員と鉢合わせした。

「もう大分ずっと前から起き続けているような気がするし、眠ってる気もする」

「うわあ……」アンジェリカはぼくの顔を覗き込んだ。「もう末期みたいね」

 そして彼女は、上着のポケットから注射器を取り出した。

「使ってみる? これ」

 注射器の中には血……ではなく、黄色の液体が入っている。薬品……。

「栄養剤か?」思わず溜め息が漏れる。「まだ過労死はできない」

「逆だよ、逆。睡眠薬。昔、どこぞの村の猟師が開発したものらしいんだけど、五感を奪って指先一つ動かせなくさせるって話。大袈裟なキャッチコピーね」

「麻酔薬だろう、それ。……というか、どうしてそんなものを持ってる?」

「研究員の人に相談したの。エワルドの寝つきが悪いのをどうしたらいいかって」

「そうしたら、それを?」

「ええ。快く分けてくれた。『こんなもので良ければ』って」

 こんなものだと思うなら、渡さないでくれ。

「死体を沈静化させるために使おうと用意したらしいんだけど、役に立たなかったって」

 ぼくたちが進む通路の左右にはいくつも部屋があって、中では工具や調理器具みたいな道具で大勢の人が作業している。大型の冷房装置が唸り、それに負けじと作業員が叫ぶ。

 死体。動く死体。

「あれを生きたまま? ……機能したまま検査しようとしたみたい」

「効かなかった?」

「だから、在庫を抱えて大変なんだって。どうにか、捌かないと始末書もので――って」

 ぼくは排水溝じゃないぞ。

「生きていれば、効き目はばっちり! 熊の意識もぶっ飛ばすとか」

「還ってこられるのか? それ」

「使った人から、目を覚ませなくなったってクレームはないみたいだよ」

 不安を煽っているだけだろう。それ。

 途中で出迎えに現れた兵士に案内されたぼくたちは、会議室に通された。廃墟になる以前から用途が変わっていない、数少ない部屋だ。室内にはテーブルと椅子が雑多に並べられ、先客たちが席に着いていた。白衣に軍服、作業着姿と多彩だが、ロバートが引き連れる部下はそう多くない(少数精鋭、だそうだ)から、ほとんどは顔見知りだ。しかし、今日は見慣れぬ顔もちらほらある。その大半は軍服だ。まあ、ぼくからは新顔に見えるというだけで、ロバートからしたら、彼らの方が見知った仲なんだろうけども。

「遅刻したくせに、悪びれる気もないとは、いいご身分だな」

「ぼくは軍人でもなければ、あんたの部下でもないからな」

 ぼくは席には着かず、ドアの側の壁にもたれかかって、室内を見渡した。会議の参加者たちが身体を向けている壁は、部屋の中央にある映写機から照射された光を受けている。壁を背に立ちこちらに視線を向けたロバートの眉間には、皺が寄っていた。眩しいからってわけじゃないだろうな。

「それで」口を開いたのは見知らぬ顔。軍服だ。後方の座席で背もたれに体重を預けて、この部屋のボスを気取っているみたいだ。「これまでに何が解かった?」

「まず一点。ベイカー精神病院から押収した証拠品並びに調査員の証言から、アーサー・グリーンを殺害し、死体を自律駆動させた者はヨハン・メルツェル技術局長で間違いないと思われます。調査員が実際に接触したのはヨハンが操る死体であり、当時被疑者が現場に居たのかは定かではありませんが、後日の捜査で滞在していた痕跡を確認しました」

 白衣の男が映写機にフィルムを差し込む。壁面に映し出されたのは、ロバートが痕跡と呼んだ遺留品だ。潜伏に使っていたと思しき部屋。フィルムが切り替わり、細部がクローズアップされる。日用品に紛れて、王立技術工廠の判がある資料の束や、メルツェルの職員証なんかが散乱してる。フィルムが更に切り替わる。卓に並べられた衣服。アーサーが生前にこれと同じものを着ている写真があると白衣の男が補足した。フィルムが切り替わる。件の写真だ。郊外研修の自由時間に撮られた集合写真で、皆が一様に笑顔を浮かべているが、アーサーの表情には、どこか影がある。

「死体の方はどうなんだ?」と態度のでかい軍服。

 ロバートはぼくを見た。

「既に死んでるってことが解ってる」

 溜め息を吐いたロバートは、端の席に座っていた白衣を壁の前に立たせた。

「血流を媒介に意思を駆動機構に伝達させる〈血流網式意思伝達装置〉」

 白衣が話し始めると壁面の画像が切り替わった。工廠で設計された図版。人に装着する装置の設計図だ。次に映し出されたのは、不鮮明な映像だ。腰に巻いた機器と連動した両脚を覆う装置を身につけた男性が中央に立たされている。彼は〈外殻義肢〉の被験者であり、装置が正常稼働した、最初の事例。研究員に見守られながら、男はたどたどしい足取りで前に進む。

「被験者は建築作業中の事故で半身不随になった三十代の男性です」

 ぼくは思わず顔を背ける。

「通常は外科手術により血管と〈外殻義肢〉の受容体(レセプター)を直結させて、血流を義肢の回路へと経由させることで、装着者の意思と駆動機構を連携させますが、ベイカー精神病棟の入院患者には、駆動機構が関節周辺に埋め込まれており、消化器を取り除いて設置された発信装置は発する単純な命令を受け取って稼働していました」

 壁に解剖作業中に撮影された写真が映し出された。関節周りの肉を削ぐと、骨を覆うように取りつけられた銀色の補助器具が見える。

 アンジェリカが挙手をした。「あのマッチョはどうなったの?」

「見つかっておりません。おそらくは回収されたものと思われます」

 椅子が引きずられ、嘔吐く声。振り向けば、態度がでかいあの軍服だ。投射された解剖写真を見たその顔は次第に青白くなり、口元を押さえながら会議室を退出した。何しに来たんだ、あいつ。

「戦争なんてない時代じゃないもの」とアンジェリカ。「デスクワークが中心で役職に座れる人がいても、不思議じゃないでしょう?」

 ロバートは咳払いをして、映写機の側の白衣を見た。映写機の白衣はフィルムを外し、説明役を務めていた方の白衣も自分の席に戻った。

「当座の目的は二つ。一つは――」

 ロバートが言いかけてたところに、部屋の隅にある呼び鈴が鳴る。無視を決め込もうとしたようだが、何時まで経っても止まない呼び出しに、ロバートは渋々通話のスイッチを入れた。「会議中だ」

「それが……」スピーカーを通して聞こえたその声は、酷く不鮮明だった。建物の外から話してるのか? 「大型の荷物を積み込もうとしているところなんですが……車軸が耐えられるか不安だから、中身を確認したいと運転手が文句を言っておりまして」

「ダメダメ」アンジェリカが声を荒げた。「守秘義務、守秘義務!」

 ああ、そういえば、引越の荷物の中にはアンジェリカの予備の身体も入っていたな。それくらい別に見られたって……困るのか。素っ裸もある意味で機密事項だろうから。

「ちょっと話しつけてくる!」アンジェリカは大慌てで部屋を出て行った。「絶対! 開けさせないで!」

「……というわけだ」

「……はあ」

 ロバートは通信を切り、映写機の白衣に合図を送る。壁に映し出されたのは、メルツェルの写真。それから、アーサーの写真が隣に差し込まれた。どちらも、職員証に刷られたものが使われてる。ロバートは胸元のポケットからペンを取り出し、メルツェルから アーサーに向かう矢印を、壁に直接書き込んだ。それから、アーサーの顔に「×」印を刻む。そして、アーサーから伸びる矢印。

「動く死体を何に使うつもりなのか。現時点で頼りになるのは、アーサーの死体が遺した言葉だけだ」

 ――次はお前だ。

「『次』が誰や何を指しているのかっていうのは、つまりだ。アーサーは『本当は何者なのか』という疑問に繋がる」

 ロバートの言い分に異論はない。次の誰かとアーサーには、何らかの接点があるはずだ。そうでなければ、名指ししないと死体の伝言は相手に伝わらない。

「アーサーが『本当は何者だったのか』を知るために、まずは何が狙いでヨハンに接触したのかを知る必要がある」

「職場の人間同士が顔を合わせるのが不思議なことですか?」

 ぼくと歳が変わらないくらいの兵士が言った。

「メルツェルは以前から失踪中」とぼくが答えを引き受ける。

「お前が追い駆け回したせいでな」とロバートが口を挟む。うるさい。

「アーサーの方は長期休暇を申請していたらしい。……こっちはぼくのせいじゃない」

「その長期休暇が、人知れずヨハンと接触するために取られたものだとするのなら、アーサーは兵器工廠の職員とは異なる立場を奴に見せたはずだ。だから――」

「大変だあ!」先ほど出て行った偉そうな軍服が、大慌てで戻ってきた。

「今度は何だ」ロバートは苛立たしげに頭を掻く。

「歌だ。歌が……そこら中で……」

「解るように説明してください」

「それが――」

 今度は通信機の呼び鈴が鳴った。気が動転して話にならない軍服のことを一先ず置いて、ロバートは回線を繋げた。

「なんだ。まだ揉めてるのか」

「リーダーがまともなら、もっと上手く回るんじゃないか」

 ロバートはぼくを睨んでからマイクに向かった。「どうした」

「ちょっと妙なことになっていて……」通信機から聞こえたのはアンジェリカの声だった。「輸送隊がもう一組やって来たの」

 ロバートの眉間に皺が寄る。

「今度は発注ミスか?」

「そんなわけあるか」ロバートは通信機のマイクを掴んだ。「……おい――」

 ロバートが通信機に呼びかけたそのとき、室内のスピーカーから、甲高いノイズが響いた。思わずしかめっ面になるほどの音量だ。ノイズが静まり、ロバートがもう一度口を開くと、今度は爆発音がして、その途中で音声が途絶えた。

「どうした?」ロバートの呼びかけに反応はない。「どうした!」

 不穏な空気を察した兵士たちが立ち上がる。「状況を確認してこい」とロバート。兵士たちが駆け足で部屋を出て行く。ぼくは偉そうな軍服を一瞥した。その面は既に真っ青だ。

「歌ってなんのことだ?」

 軍服が口を開く。だけど、ぼくは寸前でそれを制止した。そして、通信機に声をかけ続けるロバートや、近場の者と話始めた白衣たちに言う。

「あんたたちも、ちょっと黙ってくれ」ロバートがぼくを睨む。「邪魔したいわけじゃないが、ほら、何か聞こえないか?」

 壁にもたれかかっていたぼくの背に、振動が伝わってきたんだ。他の者も異変を感じ取って、耳をそばだてる。また揺れた。今度は物音……銃声だ。ぼく以外にもその音は聞こえたようで、近場の者と顔を見合わせたりしている。今度は一際大きな――室内全体を揺らすほどの振動がして……室内にいた全員が、批難するような目でぼくを見る。

「なんでもぼくのせいにするな――」

 ぼくの文句を掻き消すように、轟音が響き、壁が吹き飛んだ。瓦礫が転がり、塵が舞う。爆発だ。間近にいたぼくは吹き飛ばされて床を転がる。意識は……保てている。だけど、視界が歪んでる。それに、音。誰かの怒声。駆けつけてきた兵士たちの足音。警報。全ての音がくぐもったように聞こえた。研究者たちが部屋の隅で怯えてる。態度のでかい軍服は、床で引っ繰り返っていた。ロバートは……ロバートは駆けつけた兵士に何かを指示しながら、懐から取り出した銃を構えてる。狙っているのは……壁に開いた大穴だ。漂う塵の隙間から、こちらの様子をうかがう人影と目が合った。ぼくは側のテーブルを蹴飛ばして、その影に身を潜めた。

「何か見えたか」とロバート。

「作業服。屋外作業のツナギだ。灰色で、胸元に牛の顔を刺繍した部下に心当たりは?」

「部下じゃない。……運送業者の制服だ」

「業者って――」

「業者の服を着た身内だ。解るだろう? 被疑者は軍属。大勢の民間人が被害者だ」

 軍部の体裁を保つために、この件に関する全ては――自分たちの組織内でさえも、事態の全貌を掴むまでは、公にはできない。ぼくがロバートの捜査に加わることになった一因でもある。念頭にあるのは、特務部隊とやらの実態やメルツェルの犯行が明るみに曝されるのを避けるってこと。そのために、正式な手続きは悉く無視されて、ロバートは関係者を信用できる相手か……ぼくみたいにいつでも切り捨てられる奴に絞ってきた。

人を野菜か工芸品みたいに選別してきたくせに。それが、このザマか。

「どこで情報が漏れた?」

「考えるのはあとだ!」

 壁の穴の向こうから銃声が聞こえた。くそっ。まずは、自分の身の安全か。ぼくの脇を兵士が駆けていき、同時にロバートが大穴の向こうに突っ込んだ。銃声。銃声。また銃声だ。銃声の度に、自分の聴力が少しずつ回復していくのを実感する。銃声、更にもう一発。それを最後に、近場から銃声は鳴らなくなった。恐る恐る机の影から様子をうかがうと、壁の大穴からロバートが見えた。顎で外を指している。一先ず外に出ようってことなんだろうが、その顔は真っ青だ。怪我を負ったようには見えないが。

「聞いてみろ」とロバート。

「何を?」と聞いてみたものの、答えを待つまでもない。ロバートの言葉と表情の意味は部屋の外にあった。「歌……?」

 歌だ。歌が聞こえる。建物のいたるところから、歌声が響いてる。呻き声のような低い声で、牧歌的なメロディを歌ってる。誰が。

 歌声と共に、足音が近づいてくる。一つや二つじゃない。通路から、隣の部屋から。階段から。窓の外から。


「彼らは街から追い出した この地を愛する人たちを

この地の人は消え去った 幸せ謳う人たちの 足元で今は嘆いてる」


 引きずるような足取り。虚空を見つめる瞳。現世の全てを恨むような声。死体たちだ。ベッドに拘束されていたはずの死体たちだ。ベイカー精神病院から運び出された……とにかく、死体だ。

 死体。

 死体の大群が、歌いながらぼくたちに迫っていた。

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