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大きな窓ガラスがある廃墟の一室。天井の電気は落とされ、置かれた計器の電灯や卓上ランプ。窓の向こう電気だけが明るい。建物自体は元々警察署として使われていたもので、ガラスを隔てた向こう側は取調室だったそうだ。大きなガラス窓を背に立ち、ロバート特務大尉は十数枚の写真をぼくに見せた。二週間前の話だ。
「死んだ奴には、死んだ奴の居場所がある。なのに、どういうわけか、死んでもまだこちら側に居座っている奴がいる」
窓の向こうに佇んでいる奴のことを言っているんだろう。身体中に刻まれた切開と縫合の跡。乾いてひび割れた肌。ぼくは写真に目を通しながらロバートの話の続きを聞く。
「アーサー・グリーン。歳は二十五で、王立兵器工廠の技術主任だった」
川岸を高所から見下ろした写真。その周辺と思しき風景。木製の橋も写り込んでいる。川原に降りて撮られたものが一枚。地面がクローズアップされた写真が幾枚。
「よく個人を特定できたもんだ」
公共機関の職員だったなら、素性の詳細は記録にあるんだろうが、照合するのに足りないものがある。
「検査課の課員が文字通り、首から爪先まで調べ抜いた結果だ」
取調室で佇むアーサーには、頭がない。
「バーギン川の岸辺に打ち揚げられていたこいつは、近くの町に駐在していた警邏部隊によって回収され、安置所へ輸送するその道中――」
釣竿を抱えた男や停めた自転車の脇に立つ男の写真なんかが続いたあとに、死体を輸送するのに使った幌馬車の写真があった。アーカイブと記された看板には番号と警邏隊の所属を示す判が押されている。タイヤ周りが泥跳ねで汚れていたり水垢が目立つ。お世辞にも手入れが行き届いているとは言えない。
「突如、起き上がった」
「起き上がった? 死体が?」
「そして、荷台に同席していた兵士を二人殺した。首を一捻りだ」
二枚目は身分証と衣服。軍人の軽装だ。血溜まりにうつ伏せで発見されたということなのだろうか。正面だけが生地より濃く染まっている。
「荷台で起こったことに運転手が気づいたのは、安置所に着いた直後のことだ」
「それまで死体は何を?」
「撮ってある」
馬車の外観を撮影した写真を四、五枚捲り、そこでぼくは思わず手を止めた。荷台の様子を収めた写真だ。「これをあの死体が書いたのか?」
模様。……いや、文字か? 掠れて、写真も不鮮明で何を書いてあるのかは読めないけれど、床に。壁に。至るところに、同じ言葉が敷き詰められている。
「死んだ兵士の血だ」
そこから更に、四枚目、五枚目と文字に接近した写真が続く。乾いて剥がれ落ちた血。辿々しい線。字数と輪郭の繰り返しが続いてる。小さな文字で幌を埋め尽くすように、座席と荷台を隔てる壁には一際大きな文字で。不気味な文字の行列に、荷卸をしようとした運転手は青ざめたに違いない。
「打ち上げられたと言っていたな。上流には何がある?」
「ベイカー精神病院。病院とは名ばかりの……掃き溜めさ。他で匙を投げられたり、他所の入院費を払えず路頭に迷っていた患者を、慈善事業と称して集めて回っていたが――」
ロバートは事務机に歩み寄り、積み上げられていた書類から何枚か選んで、ぼくに見せた。「こちらで把握している収容患者と、役所に提出された建築許可申請書に載っている図案だ。退院記録と死亡届が出された分を差し引いても、設置可能な病床数より遙かに多くの患者を受け入れてることになる」
「どうして、誰も気づかなかった?」
「掃き溜めだって言ったわけがそれだ。あそこの患者は見捨てられた人ってことさ」
「アーサーは違うんだろう?」
ロバートは頷いた。
「業務態度に問題はなかったそうだ。死体になって見つかる一週間前に長期休暇の申請が出されてる。まあ、元々職場での影は薄かったそうだが」
疑問はもう一つある。
「それで?」とぼく。「アーサーは何を書いた?」
ロバートは卓上にあった受話器を取り「準備を始めろ」と相手に話したあと、ぼくに向き直った。「まあ、見てろ」
サイレンが鳴り、首なし死体が収容されている部屋に、武装した兵士たちとバケツを抱えた研究員が現れた。熊手のような武器で兵士が死体を拘束している内に研究員がバケツを置く。作業を終えると研究員も兵士も足早に部屋を出て行った。
部屋に誰もいなくなると、死体はバケツに近寄り両腕を突っ込んだ。
「あいつは血の匂いを嗅ぎ取ると動きが変わる」
首なしアーサーは両腕から血を滴らせながら歩き出し、壁際に立つと指で壁面をなぞった。指の軌跡。次はお前だ。アーサーの指を伝って、血が壁面を染めていく。次はお前だ。文字が声になった気がした。次はお前だ。そのときぼくが聞いたのは、なぜか女の声だった。次はお前だ。アーサーの死体は止まらない。次はお前だ。アーサーはただひたすら、同じ言葉を連ねていった。壁が、床が、窓ガラスが同じ文字で染められていく。
次はお前だ。
「……誰のことを言ってる?」
手の届くところを文字で埋めたアーサーは、余白を求めるみたいに部屋を徘徊してる。
アーサーが右へと歩くと、その影から女が現れた。まるで初めからそこにいたみたいに女は壁際に立ち、通り過ぎてくアーサーを眺める。ぼくは女の視線を追った。丁度、アーサーが壁を前に立ち止まり、振り返ったところだった。
アーサーが左へゆらりゆらりと無気力に部屋を横切っていく。ぼくと女の間をアーサーが通り過ぎた瞬間、女は部屋の中央まで場所を移していた。
「それを突き止めるために、まずはアーサーの死体がどこで誰に魂を吹き込まれたのかを確かめる」
「ぼくは便利屋じゃない。いいか、あんたに手を貸してるのは――」
「自分とは無関係だと言い張る前に」ロバートは顎でぼくの手元を指した。「渡した資料をもう一度読み返せ」
患者のリストに見知った名前はない。目を通した書類を卓上に戻していくと、最後に残ったのは建築許可証の書類一式だった。承認者の欄に、ぼくは眉をひそめた。
「当時、あいつは産業開発課の課長だった」
ヨハン・メルツェル。ぼくから全てを奪った男の名前が、そこにあった。家を焼く炎。炭や灰と化した生活。惨状が蘇り、ぼくの周囲に広がっていく。書類を掴む手に思わず力がこもった。
「次はお前だ」
その声にぼくは顔を上げた。
目と鼻の先。そこにあったのは、髪で顔を覆われた女の頭。無造作になびく髪の隙間からぼくを睨む瞳。見つめ合っていると、深く、深く、二度と這い上がれない深淵に落ちていく。目頭を揉む。再び瞼を開くと、女の姿は消えていた。
「あんたはぼくたちに何をさせたい?」
ロバートは言った。「踏み込む前に、確証が欲しい。ベイカー精神病院。そこで何かが行われているっていう確証だ」
肩書きを守りたかったら、何をするにも手続きを省けない。上に申請を届け、上が更に上の者にその概要を伝え、議会で審議が行われ、参加者の合意の下に実行を許可される。もしもの際に誰も責任を負わずに済むためのプロセスだ。お偉いさんたちが上手く責任の所在を誤魔化している間に、ベイカー精神病棟の職員たちも、自分たちが何に関与していたのかを誤魔化すだろう。
鈍間な上官を急かすためには、もしもが起こらないっていう物証が、ロバートには必要だったんだ。
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