愛のために蘇った男たち

@sumochi

一章 どいつもこいつも死んでいる

1-1 

 大事なものはみんな失くなった。大切な人はみんな亡くなった。だからってわけじゃないけど、ぼくたちは死者の集まりの真っ只中にいる。

 始まって、終わる。逆行なんてない。今日という日も、命という炎もそういうものだ。灯されて、消える。流れゆくままに。そうして物事は取り返しのつかない事態に陥る。

 理解しているつもりだった。大事な人が死ぬのを目の当たりにするまでは。

 霊安室に置かれていた死体が動き出したのを見るまでは。

 ぼくは現実を少し疑う。そう、少しだけ。正しいのはいつだって現実の方だ。不思議に思うことの大半は認識のズレが原因で、現実はいつだって正しい。

「つまり?」と少女の声。

 壁一面の合金製の引き出しが一斉に開き、中に収められていた死体たちが上体を起こす。

 つまり、死体は動いているけど、死人が蘇ったわけじゃないってこと。

「どうして動いているのかって聞いたつもりなんだけど」

 見当はついてる。でも――。「でも?」一から説明できるほどの時間はなさそうだ。

 死体は床に雪崩れると、這って少女に迫った。磁石に群がる砂鉄を思い起こす。この場合は、生への執着だろうか。救済の祈り。ともすれば、命乞い。自分を救ってくれ。全てを終わらせてくれ。どれも勘違いだ。そう見るから、そう見えるっていうだけ。焼かれた死体が懺悔するみたいにうずくまるのは、死に際まで熱から身を守ろうとするからじゃない。焼かれた筋線維が収縮して、関節を曲げる。動く死体の現実は、身体の外から送られた信号が筋肉を伸び縮みさせているってだけ。

 蹴散らせるか? アンジェリカ。

「無理」少女は即答した。「血が足りない」

 アンジェリカは陶器みたいになめらかな歯で食いしばる。ガラスのように透き通った瞳で獲物の首筋を見据えた。だけど、跳びかかって噛みつくような真似はしない。そんなことをするのは野蛮な奴だけだってさ。異論はない。

 アンジェリカは自分にしがみ付く死体を押し退けてる。死体は彼女に噛みつこうと、歯を剥き出しにして首を振った。空腹か? 食べたってあまり美味しくはないと思うけど。

「独り言なら、わたしに聞こえないように言ってよ。エワルド」

 そこに死体を動かしている奴は?

「いないみたい。でもね、奥にもまだ部屋がある」

 奥に部屋? アンジェリカがいるのは、病院の霊安室だ。そんなところに篭もってやるようなことっていうのはそう多くない。

「調理場じゃないことを願うわ」

 同感だ。血液のストックは?

 アンジェリカは腰のポーチを開いて中を見た。

「あと三本」アンジェリカはポーチから一本の長い注射器を出した。「あと二本」注射針を自分の手首の内側に突き刺すと、充填されていた血液が彼女の身体に浸透していく。

 背後から忍び寄った死体が、アンジェリカの腕に噛みついた。しかし、死体の歯は彼女の腕に食い込まずに自分の歯茎に埋まって、付け根から黒ずんだ血を滲ませた。彼女の肌は人間が噛み千切れるほどヤワじゃない。

「節約したいところだけど、そうも言ってられないよね」

 アンジェリカは自分に噛みついていた死体を振り解くと、一度の跳躍で死体の群れの頭上を飛び越えた。今日だけは多少の行儀の悪さにも目を瞑ってやる。

「はいはい。ありがと」

 アンジェリカは鉄製の重厚なドアを蹴飛ばした。頑丈な鍵で施錠されていたみたいで、びくともしない。アンジェリカの蹴りに耐えたことは感心するけれど、蝶番が外れちゃあ、あまり意味はない。

 アンジェリカは自分が蹴飛ばしたドアを抱え上げ、死体の群れに放った。投げられたドアはその勢いと重みに死体を巻き込んで、壁にめり込んだ。辺りは薄暗いけれど、目を凝らして様子を確かめたりはしない方がいいと思う。食事時にその光景を思い起こすようなことがあれば、きっと喉を詰まらせる。ぼくはきっと数か月は粗びき肉を口にできない。

「釜戸や調味料は無さそう」

 そりゃあ、朗報だ。

「生きてる人はどこにもいないみたい。あなたが探している人も、モノも、どこにも」

 少女は部屋の中へと進む。足音に水が弾ける音が混じる。開いたドアから白い冷気が逃げていき、視界が徐々に澄んでいった。「嘘。撤回」足元を見ながらアンジェリカは言った。血液の溶けた水が、床の排水溝に流れている。

「あれ、手がかりになると思う?」少女は作業台の上を指した。リネンがきつく巻きつけられた何か。何かというか、輪郭は人そのものなわけだけど。

「だけど?」

 あのコスチュームは、生きている奴に相応しくない。

「ファッションチェックなんてしている場合?」

 リネンの中身は死体だろう。だけど、死体ならそこら中にある。なのにどうして、あの死体だけがラッピングされているんだ?

「あの変なの、起き上がったんだけど」起き上がるなんて、死体にだってできる。たった今見たばかりじゃないか。「麻布を引き千切って手を出した」動けばいいって問題じゃない。その動作が何を意味するかが重要なんだ。「武器を持った」武器?

「机の上に、手術器具かな。鋏とかメスとか置いてある。鋸みたいなのを持ってる」

 だとしたら、それは殺意だ。

「でしょうね」

 アンジェリカは身を屈めた。鋸を構えた死体が彼女のすぐ真上を高速で通り過ぎた。

 翻ったアンジェリカは反撃の態勢を整える。しかし、相手の方が一手早い。床を蹴って突っ込もうとするアンジェリカに、リネンをまとった死体は人差し指を向ける。警戒したアンジェリカは突撃するのを思い留まった。

「正体は解っている」

 死体の声……じゃない。ぼくはこの声を聞いたことがある。

「動く人形なんてものを作れるのは、エワルド。君だけだ」

 アンジェリカの瞳の奥の、ぼくの眼を見据えたみたいに、死体は瞼を大きく開けた。濁った瞳の虹彩が絞られる。そんな繊細な筋肉の動きにも生き物らしさはない。

 死体は歯茎を剥き出しにして笑った。「何をしに来た?」

 あんたを殺すのさ、メルツェル。手段は問わない。お前が苦しむ姿を見たいんだ。

 アンジェリカの瞳越しに、ぼくは死体の眼球の奥に潜む者を睨みつける。

「それは残念だったな」

 アンジェリカが跳ぶ。死体はリネンを脱ぎ捨て、こちらを見上げる。死体の首筋が露出して、そこに縄で絞められたような跡があるのをぼくは見逃さなかった。

「誰を殺そうにも、そこで生きている者は、もう一人もいない」

「わたしを勘定に入れないなんて、随分ね」

 死体はアンジェリカの渾身の蹴りを片手で受け留め、そのまま彼女を放り投げた。

「老いも死も感じることはないくせに、一人前に生きているつもりとはな」

 壁に叩きつけられたアンジェリカは、死体を睨み付けて歯軋りした。

 一旦、引くべきだ。

「馬鹿にされたのに?」

 アンジェリカはぼくの制止を無視して、血液の入った注射器を全て使った。

「人形の力がその程度なのはな、作り手が人間をその程度にしか理解していないということだ」死体は笑う。「認知の埒外にあることは真似ようがないのだからな」アンジェリカを。そして、ぼくを笑う。「エワルド。君は死体を使うべきだった。より優れた人形を作りたいのならな」

 死体は自分の肉体を自慢するように両手を広げた。

「各所の内臓と筋肉の精巧な連動によって機能する肉体は、何千、何万という世代交代を重ねる中で体系化されたいわば自然の叡智だ」死体は拳を作り、肘を曲げ、腕の筋肉を隆起させた。「それを一人の人間が、たった一生分の時間だけで模倣しようというのが、そもそもおこがましいことなのさ」

 死体は背を向け、両方の肩甲骨を寄せるように腕を逸らす。

「だから、死体で飯事なんかやってるの? 嫌な趣味ね」

 背を見せた死体に、アンジェリカが跳びかかる。今度は、より速く、より力強く。

 死体は姿勢を変えぬまま、首をぐるりと真後ろに回して、アンジェリカに笑みを向けた。

「勘違いするな」

 死体の拳がアンジェリカの顔目がけて飛ぶ。砂嵐のようなノイズが視界を奔った。一筋、二筋とノイズは数を増やし、太くなる。

「しょせん、これは人が人を超越するためのステップの一つに過ぎない」

 視界一面が砂嵐と化しぼくは茫然とした。この光景をどうにかできないか。アンジェリカの声を再現するスピーカーから、砂利を擦るような音がする。彼女の周囲から音を拾う別のスピーカーが、陶器を叩き割ったような音を発した。

 アンジェリカ、聞こえるか? 何が見えるか言ってくれ。応答はない。何かが割れる音と死体の笑い声だけが響く。

「何か言ってくれ、アンジェリカ」

 ぼくには語りかけることしかできない。……ここからでは、どうにもならない。

「わたしは次に行く」返事をしたのは、死体の声だった。「エワルド、君はどうする?」

「お前を殺す。どんな手段を使ってでもだ」

「それは楽しみだ」

 死体のその言葉を最後に、視界は消灯し、スピーカーは完全に沈黙した。


 真暗な中、ぼくは手探りでボタンを押す。油圧ジャッキが動いて、アンジェリカが見たものをぼくに見せていたモニタと、モニタと一体化した蓋が開き、視界が広がる。

 ぼくは、右手の傍にあるレバーを降ろした。すると、ぼくの首筋に突き刺さっていたチューブの付いた注射針が引き抜かれる。それから、左手付近のボタンをいくつか押す。ぼくの首を背もたれに、両脚を椅子に固定していた拘束具が外れた。

 立ち上がろうとしたぼくは、床に倒れ込んだ。貧血だ。それがアンジェリカを演じるための代償。それに眠い。朦朧とする意識。幻覚。幻痛。

 うつ伏せに倒れたぼくは、転がって仰向けになった。見上げると棺桶みたいな黒い箱が蓋を開けたまま立っている。みたいな、というか、ぼくはそのまま〈棺桶〉って呼んでるけど。箱の中身はぼくが腰掛ける椅子と、アンジェリカの脳とぼくの知覚を繋ぐ無数のチューブ。そして、モニタとスピーカーだ。

 元は牢屋だったこの部屋の、錆びたドアが軋む音。担架を部屋に押し入れる数人の白衣姿と、軍服の男。ぼくは白衣の手で担架に乗せられ、軍服がぼくを見下ろす。

 気の利いた言葉を聞きたかった。特に、手痛い失敗をしたあとは。

 これは前から思っていたことだけど、解り切ったことを言い直す奴はクソだと思う。

「その様子だと、また失敗したらしいな」

 だから、ロバート特務大尉はクソ野郎だ。証明、おわり。

「失敗じゃない。死体の出所を突き止めただろう」

「お前じゃなく、嬢ちゃんがな」

「……好きに言ってくれ」

 三脚に吊り下げられた輸血パックが持ち込まれ、チューブの先端についた針がぼくの腕に差し込まれる。作業の間、白衣の者たちが蓋が半開きになったままの〈棺桶〉から、板状の記録装置を抜き出しているのを眺めていると、空の〈棺桶〉の中から真白な腕が伸びて、長髪の女が顔を出した。髪の隙間から覗く血走った瞳。呪いの眼差し。

「悔しいか?」

 一瞬、ロバートの声に気を取られて、すぐに〈棺桶〉に視線を戻すと、そこに見えていた女の姿は、何時の間にか消えていた。

 ああ、解ってる。ぼくは自分に言い聞かせる。女なんて〈棺桶〉の中には初めからいなかった。解ってる。ぼくの勘違いだ。

 全ては、そう見るから、そう見えるってだけ。

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