第10話 聖女様は庶民とふれ合います

 慰問から帰ってきたココは、フラフラ歩いて辿り着いたベッドにぶっ倒れた。

「くはー……今日は遠かった……」

「そうですね……日が出てすぐに出発したのに、着いたの昼前でしたものね」

 今日ばかりはナタリアも、着替えず寝そべったココを咎めない。

 訪問先の教会が隣の州で、移動時間がとにかく長すぎた。

 ココだけでなくてナタリアも当然疲れ切っている。それでも休む前にのろのろした手つきでココの着替えを準備し始めるあたり、お付きのかがみと言えるかもしれない。

「朝ごはんはお弁当にしてもらって良かったですね。普通に食べて行っちゃったら、馬車に酔って戻していたかも」

 つまり食べてない。枕に顔を押し付けているココも、くぐもった声で同意した。

「全くだな。今日のは、とても日帰りの距離じゃないだろ……」

「ですよねぇー……」

 往復で考えたら半日は馬車に揺られていた。滞在時間より移動時間の方が長い。まだ身体が縦に揺れている気がする。

「またあそこに行くなら、今度から泊まりにしてもらいましょうか」

「そうしよう……あ! ナッツ、着替えはいい」

 ナタリアが出してきた着替えの室内着を断って、ココは寝間着の方を手に取った。

「今日はもうダメだ……寝る!」

「でも、晩御飯と夕方の礼拝は……」

「眠くてとても起きてられない。今日は休ませてもらおう」

 普通だったら修行の一環である日課をサボるなんて許されないけれど……。

「そうですね……判りました。シスター・ベロニカに伝えておきます」

 同行したのだからナタリアも気持ちはよく判る。というかナタリアだってもう寝たい。今日の訪問はそれぐらいきつかった。

 さっそくベッドに潜り込んだココがナイトキャップを被りながらナタリアに注文を付けた。

「明日の朝まで起こさないでくれ。とにかく一心不乱に寝たい」

「判りました」

 熟語の使い方が少しおかしいが、ナタリアは特に気にもせずに頷いた。ナタリア自身、今はツッコめるほど頭が回っていない。

 ココが布団をかぶるのを見ながら、ナタリアはそっと扉を閉める。

(今日は私も課業を免除してもらおう……)

 そんなことを思いながら、ナタリアは修道院長の執務室を目指して歩き出した。


 浮浪児時代、見回りの気配を窺いながら倉庫に盗みに入っていたココの耳はかなり鋭敏だ。扉越しに聞こえていたナタリアの足音が完全に消えたのを確認し、

「なーんちゃって」

 グッタリしていた筈のココは勢いよく跳ね起きた。


 疲れているのは本当だけど、若いココの体力はそれを補えるほどに旺盛だ。酷く疲れた様子を見せていたのは、この後のスケジュールをサボるため。それはなぜかと言えば……。

 手持ちの服の中から一番ぼろいワンピースを取り出しながら、ココは邪気に溢れた笑みを見せた。

「そろそろ出歩きたいと思っていたんだよなぁ」



 

 王子がピロシキを買って来させた時、ココはどこのが美味いとウンチクを語っていた。

 ナタリアは違和感に気が付かなかったけれど、よくよく考えればおかしくはないだろうか?

 ココがピロシキを前に食べたのは拾われる六歳より前の話だ。

 少なくともナタリアがお付きになった八歳より後には食べていないはず。

 それが何故、今どきのピロシキ屋の様子を知っているのか?


 ……ココは修道院とりかごから時々抜け出して、街へ遊びに行っているということだ。




 早寝にかこつけて、上手く他人の目から解放されることができた。

 ココはさっきまでの疲れた様子なんか微塵もなく、手早く寝間着からこっそり抜け出すための貧民ぽいワンピースに着替え、長ズボンも履く。

 窓からそっと外を眺めて人影が無いのを確認すると、聖女様は窓のすぐ外に伸びている木の枝に飛び移った。

 人に見られやすい屋根の頂点を動くようなドジは踏まない。

 修道院や大聖堂のレイアウトも熟知しているので、人が少ない区域を駆け抜ける。

 連なる屋根を走り、塀へ飛び移り、木を伝って地上へ降り……正門近くの壁と壁の間に降り立つまではあっという間だった。

「よいしょっと」

 ゴール間近まで来たココは一旦停まり、物陰に隠してあった器を手に取った。


 まず粉にした暖炉の灰を手にまぶし、それで銀糸のようなプラチナブロンドの髪を手櫛で梳いた。ココの髪はみるみる輝きを失って行き、ぱっと見にはくすんだ灰色の手入れの悪い髪になる。

 次にきめの細かい土に灯火の煙脂を混ぜて練った、特製ファンデーションで顔を塗る。透けるような白い肌に塗りつけてごく薄くなるまで引き延ばすと、違和感なくそこそこ日焼けした肌色に見えるようになった。

 ワンピースの裾も部屋を出る前に長ズボントラウザースの中に押し込んである。長い髪は無造作に一本に束ね、手拭いをバンダナ代わりに頭に巻いた。

 後は野菜の納品にでも来たみたいな空の木箱を担げば、もう下町を走り回っている下働きの童児にしか見えない。

「よし!」

 ココはにへらっと笑うと、緊張感のない衛兵が立っている門から御用聞きの振りをして堂々と出て行った。



   ◆



 日が暮れかけているけれど、市場はまだまだ活気に溢れている。正直なことを言えば、ココは生活感にあふれる街角の方が静謐に満ちたいんきな修道院の雰囲気より好きだ。

「喰わせてもらってる分際で、そんな贅沢は口に出せないけどな」

 ココでもできる程度の仕事で好待遇で雇ってもらっているのだから、文句を言えた立場じゃない。それはわきまえているけど、任期が終わったらやはり修道院あそこに居残るよりも街へ出たいなと思う。

 まあそれはまだまだ先の話だ。今はそれよりも……。

 賑わう街角で、ココは期待を隠し切れない顔で屋台の並ぶ通りを不敵に睨んだ。

「炙り肉とピロシキ……一緒は無理かな」

 今日はよく働いた。

 ほとんど馬車に揺られていただけだけど、それでも仕事で疲れている事には変わりない。こんな日ぐらい街に繰り出して、修道院じゃ食べられない庶民料理で塩と脂を堪能したい。修道院の上品な貴族風の食事より、塩気の強い労働食こそココにとっては「母の味」だった。


「ピロシキはこのあいだセシルの土産で食ったから我慢するか」

 しまり屋のココはたまの贅沢と言っても、予算は厳しく一日分の日当・銅貨八枚までと決めている。炙り肉とピロシキを同時に買うにはちょっと厳しい。

 炙り肉は鶏のレッグ一本で銅貨五枚くらい。ピロシキは三枚。だけど丸パンにすれば一枚で済むから、浮いた分で柑橘水を買ってもいい。

 日によって美味しい店は変わるから、前と同じ店がいいとは限らない。こういう時こそココがかっぱらいで鍛えた嗅覚が役に立つ。

「久しぶりの御馳走だし、慎重に選ばないとな!」

 庶民派聖女様は一人そう呟くと、ウキウキしながら雑踏の中へまぎれて行った。




 空が暗くなり始めた街路を歩きながら、ココは大満足で肉汁のついた指を舐めた。

「まさか値引きで半身が食べられるなんてな……」

 肉を出す店を何件か見て廻ってアタリをつけた店に戻ったら、ちょうど大盤振る舞いで安売りを始めたところだった。捌いた鶏を夕方になっても使い切れなかったので、閉店までに捌き切れないと見極めをつけたらしい。

 投げ売りに近かったので、モモ肉一本の値段でなんと半身を買えた。おかげで予定の倍ぐらい食べることができて、しかも塩加減がココ好みだった。

「こういう事があるから街歩きは止められないんだよなあ……あそこ、次抜け出した時もまた見に行こう」

 ナタリアに訊かれたら卒倒されそうな事をのたまうと、ココはしゃぶっていた鶏の骨をドブ川に投げ捨てた。伸びをする。

「さて」

 腹も十分膨れたし、市場の活気も楽しんだ。昼間の疲れも残っている。ココもそろそろ楽しい無断外出を切り上げて帰って寝たいところだけど……。

「まさか連れて帰るわけにもいかないしなあ」

 さっきから後ろをついて来ている怪しい男たちをどうしようか。

 ココは眉をしかめると、コリコリとこめかみを掻いた。

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