厩戸王子のいやがらせ

CHARLIE

第1話

 初めに一つ、お断りをしておく。

 わたしはアマチュアとはいえ一応小説家を自称しているので、これまで発表してきた、これまた自称「わたくしファンタジー」についても、幾分かのフィクションが混ざり込んでいる。

 しかし今回書こうとしていることは、紛れもない実体験である。

 が、いざ書こうとして考えてみると、これまでに自分がお粗末な想像力で創り出したファンタジーよりも、この現実のほうが読む人にとってはよほどファンタジー、不思議ばなしなのではないか、と思い、蛇足になることを承知で、この「お断り」を書いている。

 先日亡くなられた眉村卓先生もよく、

「現実は小説より奇なり」

 と言われていた。わたしが初めて先生がそうおっしゃられるのを伺ったのは、わたしの大学時代、四回生のとき、地下鉄サリン事件についてのことだった。「あんなことを小説にしてみてごらんなさい。『そんなことあるかいな』いうて、誰も読んでくれませんよ」

 おっと。

 また追想に走ってしまった。でも、ま、きっとフィクションとノンフィクションなんてものは、案外そういうもんなんだろうというのは、仰せのとおりだと思うのである。


 話はその、大学時代から始まる。

 わたしは一九九二年から一九九六年までの四年間、大阪芸術大学というところに在籍をした。ちゃんと卒業もした。

 大阪芸術大学という学校は、国公立ではなく――頭に「大阪」と付くだけで府立ではないかと想像してしまうのは、単純なわたしだけかもしれないが――私立の大学だ。大阪府の南東部、南河内郡河南町という場所にある。アクセスは――って、ホームページでもつくるんかい、という気になるが――大体、JR大阪環状線を天王寺駅で降り、そこから近鉄阿部野橋駅へ向かい、近鉄南大阪線に乗る。大阪市内から南へ延びている路線である。わたしが在籍していたころは、その沿線に藤井寺球場があり、近鉄バッファローズの本拠地だった。野球観戦へ行く機会は何度かあったが、なんでだか、果たせなかった。キヨハラを見ておけば良かった。

 近鉄線は、古市(ふるいち)という駅で、橿原神宮前行と、河内長野行とに分かれる。河内長野方面へ一駅行った喜志(きし)駅が、PL学園(わたしは今でもこの学校の校歌を歌うことができる)と、大阪芸大の最寄り駅になる。PL学園は駅の西、芸大は東である。

 芸大へ行くには、喜志駅を東へ降り、通称「芸バス」と呼ばれる薄緑色の金剛バスに乗り、さらに東方、金剛山のふもとまで行かなければならない。

 途中で橋を渡る。かなり下方に河川敷だけがやたらと広い、細い川が流れている。それが、PL学園の校歌のなかで、

「若人(わこうど)の夢 羽曳野(はびきの)の 清流清く育みて」

 と歌われているであろう、石川である。

 電車で芸大へ通う学生は、そのルートで通学をしていた。

 わたしは一人暮らしをしていた。当時でさえ築二十年は経過していた古い文化住宅で、ちょうど、古市駅と喜志駅との中間くらいにあった。大学に入ってすぐのころは、自転車で古市駅まで行き、電車で通学していたが、所要時間を合計したら、それこそ石川に沿って自転車で通うのとあまり時間が違わないことを、同じ文化住宅へ、同時に入った友人が発見した。それ以来、よほど強い雨でも降らない限り、自転車で通学するようになった。

 石川から外れて、金剛山へ向かう途中、南河内郡太子町という場所を通過することになる。

「太子町」

 という名は、聖徳太子にちなんで付けられていて、わたしが通り過ぎる道の、大学へ行くのとは別の山の斜面を登れば、聖徳太子の墓であるとされている、叡福寺(えいふくじ)があるとの看板も、毎日のように意識して眺めていた。

 太子町は聖徳太子にゆかりのある土地柄だからだろう、マンホールのふたに、

「和をもって尊しとなす」

 と描かれていた。聖徳太子が制定したとされる、十七条憲法の第一条である。

 わたしはそれを、恐れ多くて自転車のタイヤで踏むことができないと友人に話すと、ばかにされた。

 ちなみに太子町の道端に立っている、交通安全を促す板でできた人形は、聖徳太子らしきイラストでできている。わたしはその写真を、ブログなんかのプロフィール写真にしている。そうでもしておかないと、あの兄さんはまたわたしにいやがらせをしそうに思えるからだ。

 大学生のころは、古墳や遺跡や寺社への関心はあったのに、まだ今ほどひねくれていなかったせいか、一人であちこちへ出向く度胸もなかった。だから、というのもヘンだが、結局、叡福寺へは一度も行かなかった。叡福寺の前を通って、その坂道を登った先にある工場(こうば)へ三か月ほどアルバイトに通っていた時期もあったが、通り過ぎただけだった。

 そうしてわたしはなぜか、天王寺が好きだった。若いころから横着だったわたしは、近鉄線一本で行くことのできる天王寺――近鉄阿部野橋駅、今ならあべのハルカスのある駅と、環状線の天王寺駅とは、南北に隣接しているのである――を便利だと感じていたし、大学時代に付き合ったなかで、いちばん惚れていた彼氏と、よくデートなるものをした場所でもあったからかもしれない。同じ文化住宅で下宿していた友だちは、

「天王寺は通過点」

 と断言し、彼女は難波や心斎橋を好んでいた。

 それでもなんでだか、わたしは天王寺がとても好きで。わりと要領良く単位を取っていたおかげで、ほとんど学校へ行かずに済んだ大学四回生の年には、毎週のように、当時天王寺の「あべ地下」と呼ばれていた一画にあった、いわゆる「名画座」で、少し古い映画を、定価の半額くらいで鑑賞しに通った。そのころからか、付き合うオトコがいなくなり、単独行動のほうが性に合っていると気づき始めたのは。好きな喫茶店も見つけた。映画を観たあとは、一人でその店に入り、たばこを吸ってから古市へ帰った。

 天王寺には、聖徳太子が、日本で初めて建てたとされる仏教寺院である、四天王寺がある。日本史の知識としては当時から知っていたが、足を運んでみようとは、そのことは思いもしなかった。


 一九九六年三月で大阪芸術大学を卒業し、一年間実家で過ごしただけで、わたしはまた一九九七年四月から、大阪に戻った。今度は大阪市内の、仕事先の寮で暮らし始めた。

 そこも、四年間勤めただけで退職し、二〇〇一年四月から、今、二〇一九年に至るまで、わたしは播磨の国にある実家で暮らしているわけである。

 寮にいた四年間は、仕事と執筆との両立に必死で、年に何度か友人と旅行する程度で、あまり遊ぶ余裕はできなかった。

 しかし、かなりの蓄えを残して退職したおかげで、退職後の二年ほどは、四年間の我慢が爆発したみたいに、あちこちへ出かけた。

 そのなかに、叡福寺があった。芸大のそば、太子町にある、聖徳太子の墓とされている寺だ。

 寮を出ることが決まってから親しくなった人が、聖徳太子のことがとても好きだと知った。そうしてその人と、叡福寺へ行くことになった。

 わたしは播磨の国から大阪市内まで車で行き、スーパーの駐車場に車を停めてその人と落ち合い、大阪外環状線を南下して、叡福寺へと走った。

 梅雨の前の五月だっただろうか。真夏を思わせるほどに気温は高いのに、陽射しはためらうような切なさを帯びた、不思議な季節。

 駐車場から寺の敷地へ向かう。

 境内が見える。

 と。

 背すじが冷たくなった。

 歩みを進めたら、良くないことが起きそうな予感がする。

「うわあ。気持ちがシャンとするわぁ」

 連れのその人が言うから、わたしは自分が感じている恐怖を口にできない。

 その人はずっと喜び、心が清められる感じがすると言い、興奮していた。

 その人が気を悪くしてはいけないと思い、わたしはずっとその人のことばを黙って聴いていた。

 その次の年だったろうか。

 大学時代、難波や心斎橋が好きで、天王寺は通過点だと言った友人とも、叡福寺を訪れた。わたしから誘った。寮の人と行ったときの感覚が、勘違いだったのだと確かめたかったからだ。彼女は深緑色のミッション車、ジムニーを走らせてくれた。

 寮の人のときと同じ駐車場で車を降りる。同じ道を通って境内へ向かう。

 友人は、

「ここ好きやねん」

 と言う。無口なヤツだった。

 だからわたしもしゃべらなかった。

 やはり、背中に冷気を感じた。


 思い出した。

 初めて四天王寺へ行ったのは、大阪市内で暮らし始めてすぐのことだった。やはり梅雨入りの前の、その日は太陽がぎらぎらと輝いて、とても暑かった。

 わたしの勤め先というのは郵便局だった。郵便物の集配をおこなわない、特定郵便局だったから、同期とはいっても、職場は同じではない。その代わり「連絡会」という地域ごとの集まりがあって、同じときに同じ連絡会で採用された四十人ほどが、三か月に一度くらい研修を受けていた。採用された年だけで、その研修も終わったのだけれど。

 同じ連絡会の同期の女の子に、ヒロミちゃんという、顔が小さくて瞳がきらきらして、いつも笑っている可愛い子がいた。男子どもはヒロミちゃんにメロメロだった。なかでも積極的にヒロミちゃんを追いかけ回していたのが、タカハシくんとナイトウというのだった。で、ヤツらはわたしに、

「ヒロミちゃんと今度どこそこ行くけど、ヨシダくんもついでに来るか」

 と、「ついでに」誘うのだった。なんの扱いや!

 タカハシくんは独特のセンスをしていて――というのはナイトウの受け売りで、わたしにはファッションやらセンスなどのことはとんとわからない――、タカハシくんは古着の着こなしがかっこいいのだそうだった。

 それで、タカハシくんが、四天王寺で土曜日だか日曜日だかにおこなわれている「よんてんさん」とかいうフリーマーケットに誘ってくれた。もちろんわたしはついでだ。わたしはそこで、三島由紀夫が自衛隊の駐屯地で自決したことを報じた雑誌が並べられているのを見つけ、一人で興奮して購入したものの、結局いまだに読んでもいない。昔からでたらめだ。

 フリーマーケットなんてものへいったのは、あとにも先にもあれ一度きりだったが、人が多かったわりにはやかましくもなく、知らない人とぶつかりそうにもならず、不思議と群衆の調和が取れているのを心地良く感じたことを、今でもよく覚えている。


 それ以来、播磨の国でも寺社巡りが好きな友だちができたら、必ず四天王寺を訪れた。

 真夏でも、真冬でも、正月でも。その場所はおだやかで、おおらかで――自分を解き放ってくれるように感じられた。


 ある職場で、好きな寺社の話題になった、と書いてみて、「どんな職場やねん」と失笑してしまったが、これもまた事実なのである。

 そのときわたしは、

「苦手なお寺が叡福寺、好きなお寺が四天王寺」

 ととっさに口にし、聖徳太子が共通していることに、初めて気づいた。


 ところで。

 スピリチュアルカウンセラーという職業がある。

 わたしはそういうお仕事をしている男性と、出版社のパーティで知り合った、と書くとカッコいいが、大阪市内で自費出版を主に請け負っておられる、けっして大きいとは言えないが、親切で、良心的な出版社の、設立二十周年の記念パーティで、である。

 そのカウンセラーの男性は、クライアントさんの前世――魂の軌跡――が見えるそうだ。何度かセッションを受けたことがある。

 そのときにふと、聖徳太子と自分とが、過去世で関わりがあったのではないだろうかと、ことばが出た。

 するとその男性は、いつもするように、わたしの頭の後ろの空間に目を据えて、口のなかでもぞもぞぶつぶつと、何かを唱えていた。

「お仕えしていたみたいです。『蓋』という文字が見えました。飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)のことでしょう。ともかくあなたは飛鳥へ行けば、閃きを得られます」


 単純なわたしは、すぐ実行に移した。

 橘寺(たちばなでら)。聖徳太子が生まれたとされる場所。

 向かおうとして田んぼのなかの畔道に立ったとき、突然空が灰色の雲に覆われ、冷たい風が吹いた。三月の終わり、朝は暖かで春もののコートを肘に掛けていたのだけれど、思わずその場でコートを羽織った。

「やっと来たな」

 空を覆う雲から、低い波動が轟いた気がした。

 飛鳥、明日香の土地は、レンタサイクルで巡る観光客のために、道がおおむねアスファルトで整備されてある。アスファルトごしにも、わたしの足の裏は、多くの人々の血を吸いこんでなお、力強くおだやかさとしたたかさを兼ね備え、毅然としているその土地の波長を、とても心地良く感じる。それは四天王寺で感じるものとは比べものにならないほどに、強い。四天王寺に漂うものは空気だけで、土地からの波長ではない、と、お粗末な霊感のようなもので、わたしは感じている。

 ついでに書くと。飛鳥と似て、おだやかでいながら、力強い波長を足の裏に感じた土地はもう一つあって、それは台湾の北投(ペイトウ)温泉だ。

 橘寺で二面石(にめんせき)に触れ、寺を出る。

 石舞台古墳へ向かう。

 頭が大きな人形をつくり損なって寝かせたような、独特の巨石が見えて来る。

「父上……!」

 心のなかで誰かが叫び声を上げる。

「父上?」

「わたし」は考える。

 ここへ埋葬されているとされているのは、蘇我馬子。馬子を「父上」と呼ぶのは、歴史の教科書が正しければ、蘇我蝦夷(えみし)か、蝦夷の兄弟姉妹の誰かか? でも聖徳太子にお仕えしていたとして、板蓋宮と関連しているとすると……板蓋宮、乙巳(いっし)の変(俗にいう「大化の改新」)で殺された蘇我入鹿(いるか)は馬子の孫に当たるから、違う。ならばやはり蝦夷か……?

 板蓋宮跡へも足を向けた。

 あまり広くはない。柵も塀も壁も、垣根もない。ただの白んだ土がでこぼこしただけの、遺跡。

 適当に、地べたへ腰を下ろす。

 もの悲しい。ただ、ただ、悲しみが湧いて来る。

 それはきっと蝦夷の悲しみだったのだろう、と解釈をした。暗殺されなければならないようなことをした、入鹿、自分の息子への悲しみなのではないか、と。


 その次の日。薬師寺へいこうとして、西ノ京という駅で降りた。白から濃紅への梅が、グラデーションを為している美しい季節。雨が降っていて、その湿り気が梅の香りを一層鼻腔へ強く届けた。

 薬師寺に入る前だけでも、わたしは何枚もの写真を撮った。スマートフォンで撮影をしていた。梅の花をアップで撮ったり、遠景から写したり。お寺へ入るまでにずい分何度もシャッターを押した。

 薬師寺の入り口へ立つ。門がまた立派で、シャッターボタンに人差し指を当てる。

 が、反応がない。

 雨に濡れたせいかと思い、タオルハンカチで拭いてみるが、シャッターボタンは反応しない。

 その日に限ってデジカメも、フィルムのカメラも持って来ておらず、撮影機材はスマホしかない。

 慌ててアプリストアでカメラ機能のついた無料のアプリをインストールする。

 立ち止まっていると、寒くなって来た。

 インストールが終わり、いざ薬師寺へ入ろうとする、が、……。

 脚が震えるのだ。

 入口へ、脚が入ろうとしないのだ。

「そうか……」

 こじつけるように、薬師寺の歴史を掘り起こす。

 天武天皇が、妻の持統天皇の病治癒を祈願して建てたのが、薬師寺だったはず。持統天皇には藤原氏の影響が強い。藤原氏の始祖は、乙巳の変で入鹿を暗殺したとされる、中臣鎌足だ。持統天皇には蘇我氏の血も流れていたはずだが、もしかすると、ヒトラーが、自分に流れるユダヤ人の血を否定しようとしたように、持統天皇も、自分に流れる蘇我の血が、気にくわなかったのかもしれない。だから、「自分が蘇我だ」とわかって(?)しまったわたしの侵入を、許してはくれないんじゃないだろうか? 持統天皇ってのは、コワい女だなぁ。ヤだなぁ。

 薬師寺には、鑑真大和尚が建立した唐招提寺が隣接している。そこをお参りして、奈良をあとにした……。


 そのあと。

 なんでだか喜んで、精神科の医師に、自分が蘇我蝦夷の生まれ変わりなんですよと話したら、統合失調症の診断を受けた残念な話は置いておいて……。

 一人、電車を乗り継いで、叡福寺を訪れた。

 以前感じた恐怖は何だったのだろう?

 初めてそこへ来たとき一緒にいた、寮の人が言ったみたいに、神聖な空気がそこには満ちていた。

「やっと思い出したか」

 厩戸(うまやどの)王子が、意地悪くからかっていたのだなと痛感した。

 史実がどうかは知らないし、歴史家の解釈がどうなのかもわからないけれど、石舞台古墳は蘇我馬子の墓で、叡福寺には厩戸王子が眠っている。わたしの魂はそれを知っている。


 ことしはすでに三度、天王寺へ行った。これまでの二回は、連れがあったり、ほかの予定があったりして、四天王寺を訪ねることができなかった。

 先週の金曜日、また天王寺で用事があった。四天王寺まで行くと目的地を通り過ぎてしまうことはわかっていたのだけれど、

「三回もムシしたら、絶対あの兄さん、またいやがらせして来るからな」

 少し苦々しい、でもどこか懐かしく、なぜだか嬉しく感じながら、四天王寺に入り、本堂にだけお参りをして、お寺の敷地を通り抜けた。

 お寺から目的地まで戻りながら、

「厩戸の兄さん。見てるんやったらいやがらせばっかりせんと、なんか手助けしてくれたらええのに」

 と、心のなかでグチをこぼす。

 見たこともない厩戸王子が、舌を出してからかっているのが、想像できるような気がした。


(四百字詰め原稿用紙 21枚+1行)

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