一緒に聞くことのできない幸せ

ガシュマラ

第1話一緒に聞くことのできない幸せ

 何も聞こえない。

 縦へ横へ結ばれた糸の隙間に、新たな糸を通す。目は手元に固定され、鼻は息が止まったように動かず、口はきつく結ばれている。他のことに意識を割く必要が無い。ただ一心に、ひたすらに没頭して同じ作業を繰り返す。


 トントン。


 不意に叩かれた肩を跳ねさせ、俺は振り返る。差し込んだ光にすっと目を窄めた。


「兄ちゃん、そこの神社でお祭りやってるよ。見に行かない?」


 立ったまま肩に手をかけた少年が、開け放った窓の向こうを指差す。まだ眩しい外の景色は、斜めの視野でも分かるほど活気付いていた。

 走り回る子供。遠目で見守りながら少し送れて駐車場に姿を現す夫婦。舗装のされていない道を通り過ぎる軽自動車とトラック。道に沿い整然と背丈を合わせて風に揺れる木々。その奥から瞳を照らし付ける一点の光。

 それらは薄暗い部屋の中に視線を戻しても変わらず、視野の端っこで動き続ける。花の香りと排気ガスの匂いと、瞼に焼き付いた輝きはもちろん、編み物を置いて掲げた手を滑る風の冷たさも消えずに残る。俺の中に確かな感覚として漂い、留まり、包み込み、絡み付く──絡み付いても。


『もう、ご飯?』


 俺には、何も聞こえない。


『お祭りだよ、魔法の』


 手の動きがそう伝えるのを目で捉えながら、ああ、と思い出す。


 ──魔法。

 曰く、どんな傷をも癒す理屈殺しの超能力。

 曰く、王の血族が古より神から賜った恩寵。


 魔法といえばどこぞの神話やら御伽噺やらでも馴染み深いが、その実、現代に至ってなお確信の下に語られてもいる。都市伝説などの類ではなく、空想のものとは別途の概念として一般社会に溶け込んだ神秘の技術。

 この国の頂点に座した統治者に与えられる特典。あるいは絶大な支持を得た偉人の恩返し。

 前者の場合、戴冠を果たした王は各地を回り祭儀を行う。時代の流れにつれ多方面の便宜を図った結果、場所は大仰な神殿から神社へ、貴族の居住区から病院の近所へと変化があった。しかし、ただ一つ魔法の本質だけは変わらない。


 外の空気は暖かく心地よかった。

 緑溢れる森林に人の賑わいが満ちる。住宅地から入り口を繋ぎ、そのまま神社まで引かれた一本道。そこをうねるように流れる人波は熱を運び、徐々に活気が巡っていく。


「見て見て! あそこが王座かなぁ」


 言いつつ笑顔を向ける少年。俺は小さく頷き、整然と並ぶ屋台の先を見上げる。空を覆う屋根の隙間に見える幅広い階段、そこを上りきればすぐだ。

 歳、性別、障碍や前科に至るまでの一切合財を問わず、国民である以上は誰であろうとも王への謁見が許されている。そして待ち受けるのは神の啓示の代行。頂いた一言がその人の未来を左右する占いとされており、人々が表向きでなく真に王を信仰する第一の理由でもある。

 時にそれは不治の病をなくし、時に然るべき天誅をもたらす。あらゆる意味での治癒、あるいは浄化──それがこの国に根付いた魔法だ。


「ほら、もしかしたら兄ちゃんのこと治してくれるかもよ」


 夜が空の色調を落とすより少し前に、王の魔法は始まった。

 優先的に並ぶ入院患者の前列で、俺は弟に手を引かれ自分の番を待っている。一歩、また一歩と、短いような長いような間隔で近づく。薄暗い中で心なしか輝いて見える王座。前にいた看護師が車椅子を押して段差の無い道に折り返すと、遮るものが無くなる。跪く最中に、自然のものとは違う光が直で顔に当たった。ぼーっとしていた意識が引き戻され、つと見上げる。


 目は瞬かなかった。

 網膜に冷やかな光彩が滲む、ストレプトカーパスの薄口の匂い、舌の上には芳しい渇求、頬を睥睨する涼風。

 王の顔が、コマ送りに迫ってくる。前屈みになりさらりと垂れた前髪の隙間から覗く虹彩。彼女の視線に宿った熱量が視神経を伝い、脳に染み渡った。

 そして耳へと抜けた途端にそれは弾けた。一拍の後、弟に聞こえない声が耳元で囁かれていた。


 玲瓏たる彼女の声音が──


「君の音を聞かせて」


 ──確かに、この耳に刻まれた。


「……そ、」顔が離れてから我に返り、遅れて意味が浸透すると同時に俺は絞り出す。「それ、ば」


 しかし、聞き慣れない声と発し慣れない音に言葉がつっかえた。格好つかず、まともに形を取ってすらいなかった俺に、王は変わらず威風堂々と見つめる。


 変わらず。


 混乱と動揺が渦巻く頭の隅で思う。虎落笛が響き、数え切れないほどの色彩が一緒くたになって駆け巡り、目まぐるしく思考を塗り潰す中でひたすらに考える。胴鳴りが止んだ挙句に、直面している状況とはまったく無関係な疑問──それが衣擦れの音を伴って紐解かれる音がした。


 俺はいつから彼女に釘付けになっていただろう。

 病院の窓から彼女の輝きを目にした、まさにその時からだ。


 †


 気付けば、いつもの天井と布団の温もりに迎えられて目が覚めた。

 明るい。蛍光灯ではない太陽の光。しばらく外の風景を見つめ、はっとして額に手を当てる。


「……あだま、あ、た……頭が、いたい、うるさい…………」


 音が脳内で騒ぎ立てている。塞ぐにも塞ぎようのない酔い。四方から、壁や床の向こうからも見えない波が押し寄せてくる。絶えず意識の片隅で存在を主張するその違和感の中、ふと気配を感じた。


 病室に入ってきた弟の姿を、開いた扉の音で察して眺める。目が合うや「起きてたんだ」と微笑む彼に軽く手を上げて挨拶する。花瓶の水を入れ替えてもらうと、ストレプトカーパスの控えめな芳香が鼻の先をくすぐった。

 それが引き金だった。靄がかかっていた記憶が刺激され、俺は気を失う直前のことを思い返す。異物が交ざり、感覚が混ざり、あべこべになっていた数秒のこと。


 音が聞こえた瞬間。

 王が、一言を発した瞬間だ。


 ──君の音を聞かせて。


 あれから俺の耳は音を拾うようになった。なんとも信じがたいことに、王の魔法とやらは本当だったようだ。殊更に疑っていた訳でもないが、正直な所、これほどまでに即効性のあるものだとも思っていなかった。

 俺はその話をたどたどしい声で弟に伝えた。おおよそ予想と同様の驚愕が返って来、状況を整理した後に様子見を行うことにした。なにせ生まれてこの方数十年間欠けていた感覚だ。無くて当然だった身体機能がある日急に復元されたといっても、すんなりとは受け入れられない。


 まずは音に慣れること。自分の息遣いから始まり他人の生活音、窓に吹き付ける風切り音に病院のそこここで鳴る電子音、時折響く叫び声や怒鳴り声に至るまで──発生源も頻度も音量も全てが異なる雑音の氾濫に常に意識の一部が侵され、過度な反応を反射的に行ってしまう。俺にとって聴覚との馴れ初めは嬉しさより怖さの方が勝っていた。

 数週間が経過し、暇々に挟んだ発声練習も様になってきた頃、弟があるものを俺にくれた。俺は敷地内のベンチに座り、それをやや緊張した手付きで握って息を吐く。


 軽やかな音を先端から出すのはリコーダーだ。

 王の言っていた『君の音』。それがなんなのかを確かめるために、身近な楽器を手に取ってみた。リコーダーの次はハーモニカ、その次はピアニカ。毎度同じ木の枝に止まる小鳥の眼下で音階を覚え、これまで縁の無かった楽譜を睨む日々。

 時たま病院で開かれる演奏会へ足を運んでは、色んな楽器の音を聴いたり、学生ボランティア/プロの演奏者を問わず話しかけたりと、少しずつ知識を増やしていった。

 両親が俺の回復と将来の目標に肯定的だったのが幸いし、やがて退院した後、知り合った音楽家の下で練習とアルバイトをこなしながら一人でも何とか生活はできていた。


 だいぶ長い道を駆け足で来たと思う。王のお告げから早十年、俺は自分の成人式と弟の高校卒業式を五感で以て見届け、今や十重二十重の拍手が降りかかる広闊な音楽堂の舞台に立っていた。

 深呼吸をして一礼。椅子に浅く腰掛ける。振り仰いだ先の照明に目を眇め、両手をゆっくり前へ伸ばした。


 ──しん、と。

 指し示したように静かになった会場。あらゆる音が消え、肌にひりつく静謐さは室内温度を下げている気さえする。呼吸音も息を潜めるこの瞬間ばかりは、懐かしくもあるし苦手だ。いつもあの顔を思い浮かべて緊張するから。


 細い指で押した鍵盤が、ピアノ全体を震わす。振動は張り詰めた会場いっぱいに乱反射し、観客の鼓膜を叩く。そうやってこの場が再び音で満ちていく気がする。

 冷めた空気を暖め直す感覚。俺はそれを頼りに自分の音を沢山の人に聞かせてきた。元聴覚障碍者のピアニストという肩書きを抜きにしても、華々しい成功を果たした音楽家だという自負がある。


 ただ心に残るのは、全ての切っ掛けとなったあの人に届いているかどうかだ。

 彼女は今の俺を知っているのだろうか。俺の演奏を聞いてくれているのだろうか。


 出来ればいつか王の前でこの音を奏でたい。

 十分な収益を得、生活に余裕がある俺が言っても贅沢な言葉に聞こえるかも知れない。成功者の言葉は安定した場所にいるからこそ言えるものだと、昔から皮肉混じりに捉えていた。今となっては自虐だが、それでも、ずっと気になって仕方が無かったのだ。


 せめて、一小節でもいいから届きますように。

 その願いは、公演終了後に現れた王の使いを名乗る女により叶うこととなる。


 †


 幼い頃、毎日のように見舞いに来てくれていた弟はこんな気持ちだったのだろうか。そぞろに顧みつつ、俺は花瓶の水を入れ替えた。

 透き通った水にストレプトカーパスを挿してそっと置き、慣れた手つきで鍵盤蓋を開ける。一息吐きながら椅子に座り、楽譜をめくる。適当に選んだものを何曲か弾いてみた。


 それなりのコンディションで奏でた音楽が、二人きりの部屋に響く。最初目にした時は触れるのも躊躇われた豪奢なグランドピアノも今は指によく馴染んでいる。失敗の許されない一度限りの本番とは違い、練習感覚で何度も弾き直せるから精神的な負担も無い。

 反応する声も、また同様に。


「今日はこれくらいにしましょうか」


 本当に、清々しいほど何も無い演奏だった。最高級のピアノから流れる音楽は僅かに開いた窓の隙間へ逃げていく。

 どれだけ熱心に弾いても、この部屋は静かで薄ら寒い。冷気は、演奏の熱など意に介す素振りもなく居座っている。だから冬場でもないというのに手がかじむ。


 それに比べて、彼女の顔はとても活発だ。

 終了の合図を投げ掛けてちらと横を見る。グランドピアノと共に部屋の大部分を占めた巨大なベッド、そこに一人の女性が座って俺を眺めている。

 演奏している間、俺の調子に合わせて様々な感情が瞳に浮かんでいた。完璧に音を運んでいれば見守ってくれるが、少し間違えると残念そうに笑みを浮かべたり、諦めかけると怒った風に睨んだりもする。

 彼女の反応は演奏者として非常に嬉しく、やり甲斐を感じさせてくれる。あの日から十年経っても変わっていない視線が俺を絡め取って離さない。

 俺の音を聞かせてくれと、あの時と同じように訴えかける目。炯々と燃える衝動を俺に移す。


 ──聞こえないくせに。


 音が耳をすり抜ける王に毎日演奏を聞かせるようになって、もうそろそろ一ヶ月だ。公演がある日も空いた時間に訪れ、余裕が無かったらノートパソコンの画面越しにピアノを弾く。十分でも五時間でも構わないからとにかく毎日だ。

 もしかしてと思い感想を求めるが、決まって返事は無い。俺が顔を向けて終わったとアピールするか、手話で伝えると、ようやっと反応をくれる。最高だったと相好を崩して。


 ──聞こえないくせに。


 約一ヶ月前の公演を終えた際に接触してきた女は、王に直属する使用人だった。もっとも国の頂点である王にとっては殆どの人間が命令可能な使用人だろうが、その話はどうでもいい。

 彼女によると、王は十年前から聴覚に原因不明の異常をきたしており、音が聞こえない状態だったという。王族の短命はさほど珍しくないとばかりの口振りで、高名な医師たちも揃って頭を振ったために技術的治療は断念され、王のご意向で私を呼んで演奏させてもらうことにしたらしい。


 つまるところ、魔法の出番だ。

 王の権能により施される神聖的な魔法と異なり、幅広く名を馳せた芸能人やアーティストが人々を熱狂させ、時たま魔法に類似した効果を発揮する魔法──いわば模倣。

 真似事に過ぎないとはいっても、大勢の心理を動かすその魔法は話題を集める性質上注目されやすい。効果が皆無とも言い切れないのだとか。


 しかしながら、俺は誰もが知っているような有名人ではない。業界内ならまだしも一般人にまで広く浸透している名前では決してないのだ。

 要は王の指名が全て。俺を含めて他の誰も納得していないが、王が俺を選んだから俺がいる。それだけのこと。


 事実として、俺の音は全く意味を成さなかった。王の聴覚は一向に改善する余地が見られず、それどころか更なる病魔の報告が上がり状況は絶望の極致に至った。余命はもってあと一年。運が悪ければ数ヶ月だそうだ。

 周囲は王の弟を次代の統治者に祭り上げるための準備に取り掛かっている。というのも弟はすでに病床に伏した王の代理として事務をこなしており、権威を継承する段取りが着実と整えられているのだ。当然ながら俺は期待されてなどいない。


 どうでもいいことだ。期待されていようがいまいが、彼女を治せないのならどうだっていい。俺は俺の音を探す。聞かせてと頼まれたのだから、本人に聞かせるまで諦め切れない。

 幸い俺も彼女も手話が使えるため、意思疎通にさしたる支障は無かった。だから俺は出来るだけ話をした。演奏と関係ない、彼女個人について根掘り葉掘り聞いた。自分のこともあるだけ話した。


 更に一ヶ月が過ぎた。

 王の病状は悪化する一方だった。


 もう一ヶ月が過ぎた。

 俺は彼女の好き嫌いや物事の考え方について、家族と同等なまでに知り尽くしていた。


 いつの間にか半年が過ぎた。

 手話や筆談など、まともな疎通が出来なくなった。


「恐らくはあと一週間が限界です」


 定期診断のために訪れたかかりつけ医が、ついこの前そう言っていた。


 そして今日が、最後の七日目だ。

 いつものように王の部屋に入ろうとしたら、もはや顔なじみである使用人の女が扉の前にいた。何事かと思い、近付いて会釈する。すると小さな手紙を渡された。

 王位継承を目前に控えた、あの弟からだった。


 いま読むか置いておくかしばし悩んだ挙句、家族絡みで面倒なことになっても困ると判断して封を切った。一枚の簡素な紙が入っており、丁寧な楷書体でしたためられていた。


 読み終えるのに大して時間はかからなかった。すぐに懐に仕舞い、気を改めてノックをする。いつもよりやや固めの扉を開ると、見慣れたベッドに見慣れたくなかった彼女が横たわっていた。

 ストレプトカーパスの水換えをしてやり、習慣じみた足取りでピアノへ。天井を向いた彼女とは自然と顔を合わせずに演奏が始まる。この日の選曲は自作の有名曲にした。


 朝日は気付かない内に昇り、昼食の時間が訪れる。休憩を取ってから再度ピアノと向き合い鍵盤を叩く。叩く。叩く。

 何の会話もないまま日が傾き、外は暮れなずんで淡い朱色を浴びる。やがてそれも黒に塗り潰され、食事を挟み、叩く。


 午前零時。医師の言っていた限界が過ぎた。

 今更になって塵ほどの奇跡でも起きたのか、彼女はまだ息をしていた。顔色を伺いもしなかったが、多分そうだろうと思った。寝ているのか起きているのかも分からない。でも、あと少しはこの時間が許されるはずだ。

 最後の演奏を始めた。


 夜を籠めて、俺は俺の音を奏でる。


 何も聞こえない。聞こえる。いいや、聞こえない。あまりに静かで耳を塞ぎたくなるほどに、俺の体を中心に膜が張られているかのように、音がこもって淀んでいる。あるいは水の中にいるみたいだ。


 閉ざされた視界と呼吸。鎖された音。

 ほんの少し力を入れれば音は膜を、幕を破って弾け出る。旋律が空気を染め上げる。寂として透き通った夜空に、諧調が浸透していく。あの時みたいに、窓から流れていく。

 ああ、勿体無い。逃げるな、恐れるな、目を背けるな。


 聞こえない。聞こえない。俺には何も聞こえない。

 聞こえなくてもいい。全ての音が彼女にのみ聞こえるようにしろ。

 暖まらなくてもいい。全ての熱が彼女にのみ寄り添うようにしろ。

 俺に残った音楽も温もりも全部彼女に捧げてしまえ。

 悲しみも喜びも不要なものは捨ててしまえ。

 演出のための小道具など要るものか。

 安っぽい感情は聞かせるな。

 これで終わりだ。

 終わらせろ。


 終わった。


「いい音だった」


 彼女の唇が動いて、そう言った気がした。

 公演終了のアラームも、やはり聞こえなかった。


 †


『兄さん、元気だった?』

『いいから、早く入れ』


 どうせ知っているくせに、悪戯に問う弟を玄関で出迎える。今日は正月だ。

 盛大に執り行われた国葬と同じ日に引退宣言を出した俺は両親の実家に帰り、貯金を崩して日々世話をしている。介護なんてごめんだと突っ撥ねる二人を手話で宥め、なんとか相互扶助だと認めさせた。


 久しぶりに集まった四人で楽しく食卓を囲む。両親は目立った病気も無く、弟の交際相手について質問攻めにしている。来年の正月には五人になっているかも知れない。

 俺は席を外して自分の部屋に入る。物を取りに来たとか、家族団らんの空気が気まずかった訳ではない。引き出しから、一つの封筒を出した。


 あの時にもらった手紙だ。ふと思い出す度にこうして読み返している。

 最初の挨拶は飛ばし、本題の部分だけ。彼女について書かれた文章だけ目を通す。


『姉は優しい人です。王の座に至ってからも生来の優しさを絶やさない人でした。

 重責に嫌な顔一つせず、喜んでその運命を引き受けました。結果的にあなたに出会えたので僥倖といえるでしょうか。

 

 王族の魔法を、あなたは知っていますか? 万人を癒し、罰する聖なる魔法を。

 人類の理解できる範疇を超えた奇跡、それは間違いありません。神の啓示は確かに多くの人々を幸せにして国を豊かにしてくれた。こんな言い方をするとまるで王自身には啓示が無かったように聞こえるでしょうか。安心して下さい。私はまだ受け取ったことが無いので断言できませんが、少なくとも姉は一番最初に啓示を賜ったと言っていました。恐らく姉は、魔法を行使することを告げられたのだと思います。

 

 魔法は言い換えれば自身の譲渡。身体の一部を、言葉を通して他者に伝えるものです。

 善人には幸せを。悪人には裁きを。人より何倍もの命数を持つ王は、自らの運や気持ちといった目に見えない何かを民に分けてあげます。しかしそれでは均衡が保たれませんよね。悪人よりは善人の方が多いでしょう。絶望よりは希望を望む者が多いでしょう。

 それは良いことです。先ほどは譲渡と記しましたが、実はほんの少しだけ返って来るものもあります。例えば感謝。例えば愛情です。恩恵をもらった人が王に感謝すれば、いくらかの幸せが返還され循環します。気持ちの程度によっては丸ごと返る場合もあるそうです。だから姉は惜しみなく自身の一部を人々に分け与えたのでしょう。


 姉があなたに聴覚を譲渡したと知らされた時はそれはもう驚きました。

 普通はささやかな幸運の欠片、広大な海からコップ一杯分の水を汲んだ程度に過ぎません。しかし五感の一つを譲ってしまうとは……一目惚れというものを間近で見た身としては、空恐ろしいばかりです。あれこれ追及しても、貸す耳など無いと言ってまるで聞きませんでした。


 長くなりました。説明以上の言葉をあなたに伝えるのは無粋なので、最後に質問を、一つだけしようと思います。でも、答える必要は無いです。あなたの中にだけ仕舞っておいて下さい。


 あなたは彼女に、どれくらいの気持ちを返してあげられましたか?』


 読み終えたそれを、俺は笑って引き出しに仕舞った。

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