第4話
「おお、ウィリアム君。よく来てくれたね。入りたまえ」
ウェンツ候はウィリアムを玄関まで出迎えに来た。ウェンツ候の心配は相当だったらしい。すぐに書斎に通された。
「だいぶ、調子が悪いおようじゃないか」
ウェンツ候はウィリアムをソファに座らせると、自身はデスクの椅子に座った。
「すぐに治ります。医者からは一か月も休めば大丈夫だと」
しばらくの間、沈黙が続いた。ウェンツ候は目の前に運ばれた紅茶を一口すると、息を吐いた。
「君、音感がダメになってしまったそうじゃないか。楽団員から聞いたぞ」
「加えて、時間感覚もパーです」
ウィリアムは観念したように、肩をすくめて言った。
「リズムすら取れん、と言うのか」
「ええ」
ウィリアムの告白に、ウェンツ候は大きく息をついた。しばらく沈黙した後、ウェンツ候はゆっくりと口を開いた。
「君、どうしてベートーヴェンは三番を『エロイカ』にしたか知っているかね」
ウィリアムは答えなかった。
「誰もが知る有名な話だ。フランス革命時、ベートーヴェンはフランス市民の英雄であるボナパルトを称えて交響曲三番『ボナパルト』を書き下ろした。彼はこの曲を愛していた。しかしその英雄はベートーヴェンが一番憎んでいた、市民の最大の敵である皇位についてしまった。彼は激怒の余り楽譜に書かれた『ボナパルト』の文字を塗りつぶしたそうだ。
セントヘレナ島でナポレオンが死んだとき、ベートーヴェンが彼におくった言葉を知っているかね」
ウェンツ候はまっすぐウィリアムを見つめた。
「こう言ったのだよ。『あなたの死に送る鎮魂歌は、あなたの生きている時に書き終えてある』とね」
ウェンツ候はさらに続けた。
「フランスで無敵と言われたナポレオンが戦争に負けるようになったのは、皇位についてからだという。
まだ彼が“一市民”だった時は戦の才能が彼の身を助けた。しかしその才能におぼれ、皇位についた途端、彼は自らの才能を失ったのだよ」
ウィリアムは何も言えなかった。
「私が言いたいことはわかるね、ウィリアム」
やさしい口調だった。理解できないほど、ウィリアムは矜持を捨てていなかった。
「お世話になりました」
ウィリアムは深く頭を下げ、ウェンツ候の前をさった。
自身の始まる原点となった『英雄』。それに影響をうけて大学時代に書き下ろした“英雄”は、『エロイカ』の力強さとやさしさ、ところどころにちりばめられた英雄の姿を表現したものだった。楽団に入団してからも引き続けた『英雄』は、市民の味方である『エロイカ』まさにそれだった。
それが、いつから『ボナパルト』となってしまったのだろう。薄汚い欲で汚れてしまった『英雄』は、“マエストロ”そのものだったに違いない。私はそんなことも知らず、“マエストロ”と呼ばれるたびに酔い、自らが才能におぼれてしまった。
「ザクセン、今日までありがとう」
車の前で待つザクセンに、ウィリアムはそう言った。ザクセンは何も言わず、眼を伏して頭を下げた。ウィリアムはひとり、頼りなく歩みを進めた。
ロンドン市内をねじれるように流れるテムズ川の川辺を、ウィリアムは一人歩いた。西に傾いた夕日が、闇夜の来襲を知らせている。この道を歩いたのはいつ以来だろう。大学時代は友人とよく歩いた。確か、最後に歩いたのはシグマがまだ小さかった頃だったと思う。ウィリアムの横を、小さな女の子を連れた老人がすれ違って行った。
「ねえ、おじいちゃん。向こうの方でおんがくがながれてるよ」
女の子の言葉にウィリアムは足を止めた。振り返ると、老人に手を引かれた女の子は、対岸の方を指さしていた。ウィリアムは目を見開いて、その先を見つめた。
繊麗な少女の後ろ姿が、街灯に照らされ浮き上がって見えた。
ウィリアムは一番近くにかかる橋に向かって走り出した。橋の真ん中を過ぎるころから、聞き覚えのあるメロディーが耳に入り始めた。優しく、柔らかいメロディー。しかしそれは力強く、かつもろく崩れそうな弱さをはらんでいる。それは人間らしく、市民のために立ち上がった“英雄”――。
息は上がり、足はもつれそうだった。それでもウィリアムは走り続けた。音が大きくなるに連れて、揺れ動く人影が近づいてくる。頬を滴が横に流れていく。徐々に近づいてくる人影、大きくなるメロディー。ああ、私が忘れてしまった“英雄”――。
少女ははそっちに向かって走るウィリアムの姿に気づくことなくメロディーを奏で続けた。父が母のために演奏した曲。父が私に初めて聞かせてくれた曲――。どこかで聞いてくれているのだろうか。音楽にいつしか取りつかれてしまった父が、まだ青年だったころに書き下ろしたこの曲を。
そうしてテムズ川の川辺に響き渡るメロディーは、終盤を迎えようとしていた。力強い音調が立て続けに生み出される。そして最後はゆっくりとやさしく、ヴァイオリンの弓は引かれた。
「シグマ!」
自らの演奏の余韻に浸ろうとしたシグマは、突然の声に驚いた。見れば、家で虚ろになっているはずの父が、息を荒くしてこちらを見つめている。
「お父……さん?」
今まで見たことがないウィリアムの表情に、シグマは驚いた。ウィリアムは涙を流していた。
「シグマ……、今まですまない。まともな父でいてやれなかった。私は、家族のことなど顧みず、自らの才能におぼれてしまっていた。
おまえに聞かせてやった“英雄”などとうの昔に忘れてしまっていた。許してくれ、シグマ……」
ウィリアムは崩れるように倒れ込んだ。シグマは抱きしめるようにウィリアムを支えた。ウィリアムは声をあげて涙を流した。
男の声がこだまする。
あたたかさを残した夕陽に包まれた、“英雄”の姿がそこにはあった。
(終わり)
英雄 河原四郎 @kappa04
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