第3話

「おそらく過労でしょう。一か月はお休みください」

 医師の言葉はあまりにも冷酷で率直だった。

「そんなに休むんですか?私はマエストロですよ!一日休むことも怠惰だと思っているんです」

「仕事を続けたいのでしょう」

 医者はウィリアムをなだめるように言った。

「……わかりました。失礼します」

 ウィリアムは診察室を出た。待合室で待つザクセンの横に腰を下ろすと、ウィリアムは大きくため息をついた。

「どうか、なされましたか」

 主人の心配をするザクセンの声が、遠くに聞こえる。

「しばらく君に休暇を与えることになるだろう。ウェンツ候のもとに戻りたまえ。私の送迎は今日でしばらくだ」

 ウィリアムはそういい、病院を後にした。

ザクセンはもともとウェンツ候のもとで働いていたのだ。今できるウィリアムなりの気遣いだった。しかし、ウィリアムは帰宅までザクセンとは目を合わせなかった。

  帰宅すると、マリーが心配そうに出迎えてくれた。今にも泣きそうな顔をしている。

「パパ、なんかへんだよ?」

 幼い子の観察力は目を見張るものがある。ウィリアムは無理に笑って見せた。

 家族四人で囲う食卓は、あの日以来誰もが口を重くしていた。

「あなた、お医者様のところに行ったみたいだけど、どうだったの?」

 沈黙に耐えられなかったのか、グレイシアは気遣うそぶりを示した。

「うん。過労だそうだ。一か月は休めと言われた」

「そう」

 グレイシアの声が、宙で落ちた。ウィリアムの目には、彼女の表情すらわからなかった。一昨日まで感じ取れた期待、不満、あらゆる感情が言葉から消えてしまった。

「しばらく家でゆっくりするよ。シグマの演奏も聞いてあげられる」

 ウィリアムは気を使ったつもりだった。

「いい。別にお父さんに聞いてもらわなくたって、ベスと練習するから」

 シグマは冷たく言い放って、いち早く食べ終わった食器を片づけて自分の部屋に帰ってしまった。キッチンでは、メイドのベスがもうすでに食器の片付けを始めていた。

 レコード盤に針をかけ、音が出てくるのを静かに待った。きれいに整頓された棚から、ぼろぼろになった手書きの楽譜が落ちてきた。

 それは昔、ウィリアムが作曲した“英雄”だった。音楽大学時代、友人たちと争うように創り上げた作品の一つだ。大学を卒業してもう二十年以上たったが、この楽譜だけは大切に残していた。

 今流れているはずの音楽は、その大学時代に友達と録音した“英雄”だ。ヴァイオリンとフルート、ホルンだけの小さな楽団の活動は、大学の中では大きな影響力はなかったが、彼自身にとってはこの仕事を今でも続けている原動力となった。

 けれど今、その楽譜を見ても頭にメロディーはわき出ず、スピーカーから出てくる音は“不調和音”でしかなかった。ウィリアムは荒々しくレコード盤を取り出し、楽譜をテーブルに投げ置くと、そのまま崩れるようにソファに倒れ込んだ。


「あなた、起きて。もう八時よ」

 ウィリアムは跳ね上がるように起き上がった。目の前には驚いた様子のグレイシアが立っていた。いつのまにか寝てしまったらしい。もはや自分が自分でないように感じる。

「子どもたちは?」

「シグマは学校に行ったわ。マリーはリビングで遊んでる」

「そうか。ベスは、どこにいる?」

「ベスは裏で洗濯物を干しているわ」

「すまないが、それが終わったら来るように言ってくれないか」

「ええ」

 グレイシアはウィリアムと顔を合わそうとしなかった。グレイシアが部屋を出た後、ウィリアムは膝にタオルケットがかかっているのに気がついた。テーブルには昨日投げ置いた楽譜は整頓され、その横には盆の上に乗ったサンドウィッチと大きな氷が入ったオレンジジュースが置かれていた。

 グレイシアとは大学を卒業したあと、二十五の時に出会った。今の楽団にヴァイオリニストとして入団し、初めて出演させてもらった公演のパーティーで、ウィリアムは彼女にであったのだ。十八だった彼女は子爵家の次女で、デビューしたてのウィリアムとは全くの身分違い。才能も評価されていない新人は、子爵家の令嬢にはまったく相手にされなかった。

 そんな時にウィリアムの肩を持ってくれたのがウェンツ候だった。ウェンツ候はウィリアムの才能を早くから見抜き、音楽家デビューの後押しをしてくれた本人だ。ことあるごとに公衆の前で演奏する機会をウィリアムに与え続けた。ウィリアムは次第に、自分の技術と表現に自信をつけていった。はじめは緊張していた貴族や識者とのコミュニケーションも、胸を張って滑らかに取ることができるようになった。

 はじめ乗り気でなかったグレイシアも、ウィリアムの厚いアプローチに次第に心を傾けてくれるようになった。

 ウィリアムからのプロポーズは、彼が二十八の時、初めて行ったソロ演奏の舞台でだった。

 それからウェンツ候の仲人で結婚し、シグマが生まれる頃にはウィリアムは指揮者としての人生を歩み始めていた。

 それからは順調なまでの人生だった。お忍びでご鑑賞に来られた女王陛下はウィリアムの指揮に見せられて、彼に“ナイト”の称号をお与えになったほどだ。

それが、彼のプライドを膨れ上がらせた。

それから彼は楽団員たちに“マエストロ”と呼ばれるようになった。彼の指揮も変わった。何かに取りつかれたように演奏にどん欲になった。常に完璧主義を通すようになり、これまで以上に演奏に対して厳しくなった。私生活においてもそうだった。マリーが生まれてからは家庭では“やさしい父”を演じてきたが、楽団では相変わらずだ。

「失礼します、旦那さま」

 グレイシアに呼ばれたベスが書斎の戸を叩いた。入れ、とだけ言って、ウィリアムは握りしめていたグラスをテーブルに戻した。

「毎日シグマに付き添って、河川敷に行っているそうじゃないか」

「はい。シグマお譲様お一人では危ないので」

 ベスは震えるように言った。一度だけ、ウェンツ候から頂いた食器を割ってしまったベスを思い切り叱りつけたことがあった。それ以来、ベスはウィリアムに声をかけられるたびに怖がるようになった。

「シグマは、何を演奏しているんだ?」

 ウィリアムはやさしく言ったつもりだった。ベスは一つ一つ、確認するように言った。

「お譲様は、『英雄』だとおっしゃっていました。お譲様がお小さい頃、まだ旦那様が、“ナイト”の称号を授かる前のころに聞かせてもらった、と」

「どんな曲調だった?」

「はい。優しくて、それでも力強く、魅了されるような美しい曲でした。お譲様は、『どんな曲よりも、この“英雄”が好きなんだ』と仰っていました」

「そうか。“英雄”をか」

 ウィリアムはため息交じりに言った。ベスを下がらせると、ウィリアムは再び物思いにふけった。

 もう、何年も前だっただろうか。確かエリーが生まれる前後だったと思う。シグマも大きくなり、これからも演奏ができるようにと、新しいヴァイオリンをシグマに買い与えた日だった。ヴァイオリンの音を確かめるつもりもあったが、折角の機会だから“英雄”をシグマに聞かせてやった。

 その時のシグマの表情は今でもはっきりと覚えている。目をキラキラさせて私の演奏する姿を見ていたシグマ。それ以来今まで彼女がヴァイオリンを弾き続けるきっかけとなった“英雄”。おそらくは私のいない間に書斎に忍び込み、必死に練習していたに違いない。今まで書斎から“英雄”の楽譜は見なくなったことはないから、おそらくは書き写したのだろう。

 そう言えば、最近はシグマの演奏を聴いたことがない。どれだけ成長したのだろうか。まともに聞いたのは、“ナイト”の称号を授かる少し前だったか。そんな昔のことなのだな、とふと視線を落とした先に、ウィリアムはほこりにまみれたヴァイオリンケースを見つけた。

 ほこりをかぶったそれは、まるで姿を隠しているかのようにひっそりと置かれていた。それに手をのばして、ウィリアムはきれいに収まるヴァイオリンを取り出した。

 思えば何年もこのヴァイオリンはしまわれたままだったような気がする。音楽大学入学の記念として、貧しいながらも父から貰ったもの。これまでの「私」をそばで見守ってきたもの。しばらく眠りについていたのにもかかわらず、表板は独特の光を失ってはいなかった。ウィリアムはそっと目を閉じ、弓をゆっくりと引いてみた。

 しかしやはり、聞こえてくるのは奇妙なまでの“不調和音”でしかない。ウィリアムは眉間にしわを寄せつつも、もう一度弓を引いてみた。だが何度繰り返しても結果は同じだった。もはや私は、音楽家としても生命を断たれたのではないか――。

 こんな父の姿を見たら、シグマはどう思うだろうか。父親として何もやってあげられなかったが、それでも音楽家として尊敬してくれていたシグマ。「私」の背中を追っていた彼女からすれば、今の姿は見るに堪えないものだろう。

 ウィリアムはそれきり書斎に閉じこもってしまった。部屋を出るときと言ったら、必要最低限の生活行動をとるのみで、部屋にいるときは何もせず、ただソファに座りこみ、じっと眼を閉じて動かない。夜は明かりもつけず、気がつけば次の日が来る。そんな日を何日も過ごした。

「旦那さま、ウェンツ候からの手紙でございます」

 扉の向こうで、ザクセンの声がしている。彼はウェンツ候のもとに返らせたのではなかったか。拍子抜けするウィリアムを前に、返事を待たず彼の横に立った彼は肩をすくめた。

「私の主人は旦那様なのですから」

 ウィリアムはソファから動こうとはしなかった。動く気になれなかった。

聞けば、書斎にこもって、五日が経っていた。

「どうぞ。」

 ザクセンはペーパーナイフを添えて渡してきた。ウィリアムはおもむろに手紙を開けた。

手紙は、タイプライターなどで描かれたものでなく、ウェンツ候直筆のものだった。

 そこには、ウィリアムの病状を案ずる言葉とともに、会いたいとの旨が書かれていた。ウィリアムは手紙をザクセンに渡し戻すと、重い足を引きずってバスルームへ向かった。ウェンツ候と会うためだった。

 バスルームの鏡に映った自分の変わり果てた姿を見てウィリアムは、はっとなって我を見つめた。油気をなくした髪はあらゆる方向に乱れ、伸びた無精髭は顔から生気を失わせている。眼に出来た大きな隈は、さながら眼をくぼませ、この世のものでないような人相を作り上げている。

 ああ、私はそれほどまで病んでいるのか。その時だけは妙な冷静さで、自分自身がおかしかった。髪や無精髭の処理はなんとかできたが、眼の隈だけはどうしようもなかった。アイロンのかかったシャツは、グレイシアが察してくれて、ウィリアムがシャワーを浴びている間に用意しておいてくれたものだ。ウィリアムが着替え終わったのに気がつくと、グレイシアは玄関まで見送りに来てくれた。

「ありがとう、グレイシア」

 その言葉にグレイシアは一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに笑顔を見せてくれた。

「グレイシア、愛しているよ。行ってくる」

 最後の言葉のように、か細い声だった。グレイシアはそっと抱きしめてくれた。外ではすでに、ザクセンが車の準備を終えていた。

「あなた、いってらっしゃい」

 ザクセンが開けて待っていた後部座席に乗ろうとしたとき、玄関から姿を見せたグレイシアが、そう言った。グレイシアが玄関の外まで見送りに来てくれたのは、“マエストロ”と呼ばれるようになって以来、久しぶりだと気付いた。ウィリアムは、頬に一筋の滴が流れ落ちるのを感じた。

「ザクセン、急にすまないな。いつもお前に迷惑をかけている」

 ウェンツ候の屋敷へ向かう途中、運転するザクセンに声をかけた。

「何をおっしゃいますか旦那さま。私は旦那さまのことをこれっぽっちも迷惑などと考えたことなどございません。私は旦那さまのもとで働けることが幸せなのです」

「そうか……」

 ウィリアムはかすれた声で応えた。シートに身を任せ、ウェンツ候の屋敷につくまで静かに目を閉じた。

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