第2話
この日のスタンディングオベーションはあまり気持ちのいいものではなかった。ウィリアムはなるべく聴衆と目を合わせないようにした。聞いている方は何も感じなかっただろう。しかし“マエストロ”は自分自身を責めたてた。こんな音楽は音楽ではない――。
四時を過ぎたころからパーティーが始まった。招待客には各界大御所や著名人など、そうそうたる顔ぶれだ。その一人一人から好評を受け、あいさつに回る。社交界の中では常識の行為だ。やっと一息つけたのは五時を回ってからだった。
「どうしたんだね、マエストロ。元気がないじゃないか」
壁際で一人休んでいるウィリアムを見つけたウェンツ候が声をかけてきた。
「いえ、さすがの私も今日は緊張いたしました」
「何を言うかね。女王陛下の突然のご鑑賞にも全く動じなかった君が緊張とは」
ウィリアムは笑うことしかできなかった。
「やはり、娘のことが気になるかね」
ウィリアムは一瞬脈が止まる思いがした。
「何をおっしゃいますか。子供の演奏はいつでも聞けます。それよりも侯爵のお誕生日に演奏させていただけることの方が演奏家としては幸せです」
「それはそうと、今日の演奏は『英雄』だったね。君もその貪欲なまでの音楽の志のために『ボナパルト』のようにならないことを願うよ」
その皮肉のような言葉が、ウィリアムの心に大きく刺さった。深読みせざるを得なかった。
ベートーヴェン交響曲三番『英雄』。それは当初『ボナパルト』と呼ばれ、今は『エロイカ』と呼ばれる曲――。
※
「あなた、起きて。あなた」
ウィリアムは朝から妙だった。いつもなら六時にセットされた目覚まし時計のアラームで起きるはずだった。使って十年になるアラームが今までならなかったことはなかったし、寝過したこともなかったはずだ。とうとう壊れたか?と思い、起こしてくれたグレイシアに聞いてみた。
「アラームはちゃんと鳴ってたわよ。あなた、疲れてたんじゃないかしら」
「いま、何時だ?」
「今はもう六時半だわ」
ウィリアムはぞっとした。前に一度か風邪を引いたことがあったが、その時でさえ時間通りに起きることができたのだ。いったい、今日はどうしたのだろうか。
いくら三十分遅く起きたからと言っても、普段のとおりに生活しなくてはならない。三十分でいかに効率よく動けるか瞬時に計画し、行動する。それは一音狂わず奏でられるメロディーと同じだ。
しかし実際は全く計画通りに進まなかった。時間の感覚がまったくつかめない。気づけば外でザクセンが退屈そうに待っているありさまだった。ウィリアムはせかされたように、朝食もとらず慌てて出て行った。
「お疲れのようですね、旦那さま」
ザクセンはウィリアムを気遣って言った。
「ああ。どうやらそうらしい。帰りに医者によってくれるか」
「わかりました。旦那さま」
黒塗りのベンツはやがてウェンツ候の屋敷に入った。昨日の演奏を受けてウェンツ候が屋敷に専用スタジオを提供してくれたのだ。これまで窮屈だったスタジオとも、お別れできる。
「ではみな、昨日の演奏をもう一度やってみよう」
ウィリアムは、演奏会後に反省の意味をこめて演奏会と同じ曲を演奏させることを習慣にしていた。特に昨日の演奏があまりに不満であった。朝からの体調の悪さは、そのせいではなかろうか。しかしウィリアムは、ほかのオーケストラに体調の不良を気付かれることの内容に“マエストロ”として指揮台に立った。
「それでは」
ウィリアムは指揮棒をふった。だが耳に入るのはすべてが“不調和音”だった。
「やめ、やめたまえ」
ウィリアムは指揮を中断した。
「みんなどうした。何があった」
その言葉に奏者たちはどよめいた。
「いったい、どうしたんですか?“マエストロ”」
声を上げたのはアルバートだった。
「指揮が乱れているのは“マエストロ”の方ですよ」
それはウィリアムにとって衝撃的な言葉だった。朝のことといい、時間感覚や音感がまったく狂っている。ウィリアムはめまいがした。いったい自分の身に何が起きているというのだろうか。
「昨日の疲れが出たのだろう。みな、すまないが今日はじっくり休んでくれ」
ウィリアムはそう言い残して逃げるようにスタジオを飛び出した。
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