英雄

河原四郎

第1話

 その音楽は、自由と平等を芽吹かせ、古臭い貴族社会を過去のものにした「英雄」の姿。「英雄」は彼を支持する民衆の代表であり、彼なしには偉大なる革命さえも成功しえない――。

ベートーヴェン交響曲三番変ホ長調『エロイカ』は、ベートーヴェン自身がある英雄のために送った曲であり、それまでの交響曲の常識を変えた革命的な、始まりの曲。

そして、この曲は私にとっても、始まりの曲だ。

ウィリアムの全身の動きによって調和されるメロディは、大軍を率い先頭に立つ「英雄」の姿をステージ上に出現させる。躍進するメロディーはそのまま、旧体制の激しい戦いを勝ち抜こうとする「英雄」の孤高な姿へと変化していく――はずだった。

ビン、と間延びした音が一瞬響いた。それとともに一瞬にしてメロディから「英雄」の姿が霧のように消え去った。

「やめたまえ」

ウィリアムはいつも以上に激しく指揮棒を楽譜台に撃ちつけた。指揮棒から生み出された硬くまっすぐな音は、スタジオ中を飽和していた様々な楽器の音を貫き、殺していく。そうさせた原因は、はっきりとわかっている。

「アルバート!」

「あっ、はい!」

ウィリアムの声に反射するように、ヴァイオリン弾きの青年が跳ねるように立ち上った。彼は今回の演奏団の中で一番若い。これで何度目だ。ウィリアムは次第に深くなる眉間のしわの数を頭の上で数えながら、弦のようにまっすぐ伸びるアルバートをにらみつけた。

「貴様、私の指揮で存在してはならない音を響かせるなど何事だ! ウェンツ候の誕生日記念演奏は来週に迫っているんだぞ!」

「はい、すみません「マエストロ」!」

 何度もウィリアムの逆鱗に触れているアルバートは、悲鳴に近い声を上げた。目には少しばかり涙がたまっているように見える。これ以上叱っても、たいした改善は得られないだろう。

「もういい。座りたまえ」

ウィリアムはあきらめるようにため息をつくと、もう一度指揮棒を構えた。

ウェンツ侯爵がパトロンをつとめるロンドン楽団で、ウィリアムは指揮者として活動をしている。

イングランドでは指揮者のことを「マスター」と敬意をもって呼ぶ。が、ウィリアムだけが“マエストロ”と呼ばれていた。それは、彼が単に指揮者として有能だからではない。彼の矜持と容赦ない言動――それは彼が崇高するフランス革命の英雄のような姿――に畏怖をこめてのことだ。

練習を終えると、ウィリアムはいつものようにウェンツ候のもとにあいさつに出向く。ウェンツ候は音楽に深く通じ、自らの誕生日記念演奏のためにわざわざ自分の屋敷を貸し与えるほどであった。

「どうだね、練習のほどは」

「はい、侯爵。誕生日パーティーには良い演奏をできるかと」

「期待しているよ。マエストロ」

ウェンツ候は笑顔を見せた。期待で満ち溢れた顔はこちらの心配などみじんも感じ取れないらしい。

普段なら気にもならないはずの不安を心に抱えたまま、ウィリアムは迎えの車へと歩みを進めた。

「おかえりなさいませ、旦那さま」

ザクセンは、ウェンツ候より紹介されたウィリアムの執事だ。彼はウィリアムの姿を目にすると後部座席に回り扉を開けていた。ウィリアムは何も言わずに乗り込む。ザクセンは運転席に乗るとエンジンをふかせた。

ロンドン郊外の家に着くと、ウィリアムはザクセンの開けた扉から出て、玄関前の階段をゆっくりと上がった。

扉の奥から音を立てて走ってくるのが聞こえる。おそらくは、末娘のマリーだろう。今年で四歳になる。勢いよく開けられる扉にぶつからないように、ウィリアムは扉から一歩下がった。

「おかえりなさい、パパ!」

マリーは扉から勢いよく飛び出し、ウィリアムに飛びついた。

「パパ、きょうのばんごはんはマリーのだいすきなシチューなんだよ」

「そうか。お姉ちゃんはどうした?」

ウィリアムはマリーを抱き上げてリビングの中に入ると、今年で十六になるシグマの姿がないことに気がついた。

「おねえちゃんはねえ、ばいおりんのれんしゅうしてるんだって」

椅子におろされたマリーは台所に向かうウィリアムを目で追って行った。

「おかえりなさい、あなた。もうすぐできるからね」

グレイシアはウィリアムの姿を確認して言った。

「うん。今日もいい香りが立っているね」

ウィリアムは壁にもたれかかって、グレイシアを見つめていた。せめて家の中では、“やさしい“父でいたかった。

「そう言えば、シグマの姿が見えないが」

ウィリアムは何も知らない風に言った。

「あの子は河川敷でヴァイオリンを弾いているわ」

「全く。年頃の女の子が一人でそんな危ない所に」

「ちゃんとベスを連れて行っているわ。それよりあなた、忘れてしまったの?」

「何かあったか?」

「来週の土曜日よ。シグマのヴァイオリン演奏会」

「土曜日?来週はウェンツ候の誕生日記念演奏が入ってるんだが……」

「演奏はお昼でしょ?シグマの演奏は夕方の六時だし、場所もここでやるから侯爵家ともそんなに遠くないでしょ?」

「確かに演奏は昼間だが……。夜は侯爵家のパーティーに出席しなくてはならん」

「どうしても出席しないといけないの?」

グレイシアは鍋をかきまぜる手を止めてウィリアムを見つめた。

「今の仕事があるのは侯爵のおかげだ。侯爵の期待を裏切るわけにはいかんのだよ」

「そうやっていつもあの子の演奏会に行ってあげないじゃない」

ただいま、という声が聞こえ、二人の会話はそこで途切れた。

食事は静かだった。あれほどはしゃいでいたマリーも、何かを察してか、あまり手を動かさなかった。ウィリアムはそっとグレイシアの顔色をうかがってみたが、目が合ってしまい慌て目線をそらした。シチューの一口一口が重たかった。

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