うっかり発してしまった言葉を最後に、二人に会話はなかった。彼女はただ凪いだ波に漂うように天を仰いでいて、僕は傍らで彼女の横顔を見つめていた。

 浮かれていたんだ――。普段なら絶対に口にしないような事を、よりによって本人に言ってしまった。女性に向かって「きれい」だなんて。そんな言葉を巧く扱えるほど僕の器量は立派ではなかった。もしそうだったなら、気が利いたことの一つでも言えたなら、僕の学校生活はもっと充実したものになっているはずだ。僕という人間がいったいどれ程のものなのか、この短い期間で彼女にも知れたことだろう。不器用な僕が可愛そうで、うじうじとうつむいている男の子が不憫で仕方がなくて。それは彼女にとっては取るに取らない善意だったのかもしれないが、少年はそれを喜んで受け入れてしまった。そんな少年が発した言葉が、本心で無いなんてことはありえないのだから。

 沈黙の時ですらその目は彼女から離れようとはしない。彼女の瞳はいったいこの大空のどこを見つめているのだろう。虹彩が波に揺れ、それは海と一体になる喜びを感じているようでいて、そして嘆いているようにも見えた。

「もう、すっかり泳げるようになったんだね」

 体はすっかりと海水に馴染み、特に意識をせずとも海面から顔を出し続けることが出来ていた。神経を首から下に送っても疲労感は返って来ない。それは彼女の助けが不要であるという意味で、彼女を必要とする理由も無いということだった。珊瑚を見に行くという目的も達した今、僕と彼女を結びつけていたものが失われてしまったのだ。僕は結局俯くことしか出来ず、それが肯定の意思表示に酷似している事実に後で気づいて、愕然とした。

「じゃあ、泳いでいけるね」

 これは、別れの言葉なのだ。それを証明するように、ゆっくりと泳ぎだした彼女が僕の脇を通り抜けて行く。 

 考えれば、彼女と僕の間には何もない。ただただ鬱憤うっぷんを持て余した少年が面倒見の良い女性と出会い、そして偶然に目的を共有しただけに過ぎないのだった。もっと彼女のことを聞いておけば良かったと思う一方で、それが無駄なことなのだと直ぐに思い知る。名前を知ったからと言って何になる訳でもなく、年齢も正体もわからない彼女と僕の人生が今後交錯することはないのだろう。僕がすべきことは振り返って声をかけることではない。唯一出来るとすれば、彼女が岸まで辿り着きそして視界から消えてゆくまで、この沖で浮かび続けることだけだ。

 しかし次の瞬間、水が弾ける音がしたかと思えば、温かい何かが僕の両肩に覆いかぶさった。暖かで弾力のあるものが押し付けられると、それが彼女の体の一部であることは直ぐに分かった。おぶさる形でしがみついた彼女の柔らかな頬が、僕の頬をかすめる。

「別のおすすめの場所があるって言った話、覚えてる? あっちの方なんだけどさ」

 視界の彼方から伸ばされた指先には、巨人浜と海の境目があった。わずかに隆起した漆黒の丘陵が海へと消えていくそこは、街の誰もが近づかないような場所だ。

「行こう、海斗」

 首元に両腕が絡んでいく。どうやら、泳いで私を連れて行けということらしかった。僕はやれやれ仕方がないと言った様子でため息をついた。本当は彼女との時間が終わらなかったことがたまらなく嬉しいのだが、それをうっかりまた言葉に出せば、どんな結果になるかわからない。僕は振り返らずに、ただひたすらに水を掻いた。何年ぶりかに海に入ったというのに、体は海での泳ぎ方を覚えていたらしい。恐怖はそれを凌駕する感覚なのだということを、改めて実感した。

 彼女は僕の背中をビート板にでも仕立てように、穏やかに鼻歌を口ずさんでいる。波のいたずらは二人の体をときに遠ざけ、ときに密着させた。そのたびに彼女の暖かで柔らかい感触が背中から伝わってくる。彼女がそこにいるという事実が、視覚以上のリアリティを持って脳に送られてくる。

 陽子。

 彼女は一体何者なのだろうか。こんなにもたやすく人の心に踏み込んでくることが、果たして普通の人間にできるのだろうか。彼女が特別でなかったのならば、僕が過ごした都会での日々は一体なんだったのだろうか。ただ一つ判明していることは、こうして彼女と触れ合うことが僕の心をひどく落ち着かせるということだった。ヒリヒリとした感覚が均され、今この瞬間をどこまでも深く味わうことができる。それは読書をしたり教室から飛行機を眺めることよりもどうしようもないほど多幸感に溢れているのだ。この時間がもっと続けばいい。水平線がどこまでも続いているように、見ることすらかなわないその向こう側まで。せめて、僕が無為にしてしまった時間を取り戻すまでは。

 しかし現実の距離は非情なのはいつでも同じで、海はどんどん浅くなっていって、ついには目的の岩礁までたどり着いてしまった。足の置き場を慎重に選び、岩礁にしがみつく。

「ありがと」

 背中から離れた彼女はすうと泳いで、岩礁を軽やかに登った。水を吸った水着が臀部を艶かしく浮き彫りにする。差し出された手を取り、僕も陸にあがると、倦怠感が体を襲った。ふらつきかけた僕の体に、彼女が身を寄せる。

「大丈夫?」

「うん」

 顔が近かった。よくわからない間の後、彼女は「こっち」と言って獣道を登っていく。二人の手は繋がれたままだ。

「珊瑚がきれいな理由はね、生きてるからなんだよ」

 前を行く彼女が振り向かずに言う。

「珊瑚はね、成長するだけじゃない。プランクトンを捕まえて食べたり、産卵もするの。私達と一緒なんだよ」

「そう、なんだ。てっきり植物かなにかだと思っていたよ」

「意外と知られてないのよね。そして、傷つきやすいってところも、人間と一緒」

 背を越えるほど高く伸びた草花達が、焼けるような日光にさらされて岩や砂利に濃密なコントラストを作っている。影を踏まないように歩く彼女に手を引かれ、奥へと進んでいく。こんな所、地元の人間でも来ることはない。よく知った世界の、全く知らない場所を、昨日知り合ったばかりの女の子と一緒にいるということが不思議だった。

「そして、傷つけた側がそれに気づかないっていうのも、一緒。いつだって傷つく側が一方的に傷つけられていく。それって不公平だと思わない? 反省する機会もなく延々と繰り返されて、だから気づいた時には事態は深刻になってる」

 彼女の話がいつのまにか人間関係の話になっているような気がした。

「でも、加害者側を糾弾するだけじゃ、だめなんだよね。被害者側も守ってあげないと。……手遅れになる前に」

 最後の一言と同時に、視界が開けた。


 海があった。海しかなかった。


「綺麗でしょう」

 遠景は水平線がどこまでも続き、確かな青を放つ海が広がっている。その他には何もなかった。足元を見れば、岩礁が波に削られている。まるでくり抜かれたように円錐に抉れたその中心で、一際深い青の海があった。透明度が高いはずなのに、その最奥まで光が届いていないらしい。吸い込まれそうな青というのは、まさしくこの事を言うのだと思った。

「でも、それは表の姿。遠目からじゃあ、わからない。本当の姿って言うのは、飛び込んでみないとわからない」

 崖縁に立った彼女がこちらに振り向く。眩しそうに細めた瞳が悲しそうに見えた。

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