「綺麗だと思ったものをただ眺めているか、その美しさを確かめに飛び込んでみるか。……君はどうする。――たそがれ君」

 崖先で手を差し伸ばした君に、真夏の太陽が降り注いでいる。強烈な光の中、世界のコントラストが色濃くなっていくのに、君の存在だけが光に溶け込むようにして薄くなっていくように感じた。日差しにいじめられていたとは思えないほど白い彼女の肌が、まるで白飛びした写真のように映るのだ。その儚げな存在から、全てを見透かしたような質問が僕に投げかけられている。それが意味するところがどれほどに残酷なことなのを、彼女の瞳を見て瞬時に理解させられた。抽象的なのに核心をついている。これは僕の人間性を問うているのだ。――お前は見ているだけの人間か、と。

 これまでの僕はどうだった? 東京での日々は、いや、そもそもその前から僕はどういう人間だったのか。走馬灯というには相応しくないかもしれないが、これまでの日々がものすごいスピードで頭の中を駆け巡った。スライドショーというには出来が悪い、一枚一枚の思い出を視認できないくせに、その時の想いばかりがごちゃまぜにせり上がってくる。整理出来ない感情の本流が目眩と吐き気をせり上げてきて、思わず眉間を抑えた。


 だから、見逃した。

 人が崖から落ちていく瞬間を、僕の瞳は捉えていたはずだった。


 陽子の体が遠景に溶け込んだかと思えば、何かから開放されていくように、ふっと視界の底へと吸い込まれていったのだ。僕の意識がしっかりと引き戻された頃には、その景色に彼女の姿だけが無くなっていた。

「陽子!」

 崖下を覗き込んだ時には既に水柱が噴き上がっていた。そこに一つの命が落下したのだ。やがて白波が消えて再び紺色に染まる海に、しかし彼女の姿が無い。まるでその深淵に飲み込まれてしまったかのようだったのだ。彼女はどこに行ってしまったのだろう。いくら目を凝らしてもどこにも見当たらない。まるで最初からいなかったかのように、その存在がすっかりと消え失せているようにすら感じた。

 そして直後に、それは自分がそう思いたいだけなのだと首を振った。今目前で起きた現実から目を逸らしたい。人が一人落下し、いなくなる。それに関わりたくない――。そんな自己中心的な自衛本能がそうさせているのだ、と。そう思い当たった直後に、僕の頭の中に、その言葉が鳴り響いた。

 彼女と過ごしたわずかな時間が、しかし幻想なはずがなかった。彼女の声、やわらかな体、そして僕に与えたすべてが、嘘な訳がない。彼女は間違いなくそこにいて、そして今、目前の崖の下、深淵にも近い海の底にいるはずなのだ。そして再びその声が脳内に鳴り響いた。それは魂の声だった。


 ――お前は見ているだけの人間か。


「――そんな訳ないだろ!!」

 叫び声とともに僕の肉体が奮い立つ。膝が跳ね上がり、しかし広がる大海を目前に怯み縺れる足を精神力で振り抜いた。


 ――君はどうする?


「僕は――」


 ――たそがれ君。


「――海斗、だぁぁ!」


 直後、僕の体は宙に浮いた。


 重力という枷から開放され、肉体がその地から離れていく。上空へと吸い上げられるものは、己を構成する物質と希望や夢といった美しいものだけ。纏わりついた悪意や疲れ、醜い感情や忘れたいこととか、そういう悪いものは地表に置き去りにしていく。

 そして再び重力の支配下に置かれた体が落下していく。頭から真っ逆さまに、吸い込まれるように海面に衝突する。鼓膜を襲う破裂音が遥か遠くに行ったあと、目をこじ開ければ、光が届かなくなりそうなほど深い穴が紺碧に染まっていた。その奥深くに彼女がいないだろうことを悟って周囲を見回しても、透ける太陽光で浮き彫りになった岸壁と、その隙間から除く向こう側に、白い世界があるだけだった。僕は反射的に天を仰いだ。

「陽子」

 海中から見上げた海面。いたずらに揺らめく鏡の世界の向こう側、光のプリズムの中に、たしかに彼女の姿があったのだ。不安げにこちらを見つめる彼女の姿に、たしかに僕は、見蕩みとれたのだ。

 海面へ顔を出せば、岩礁のちょっとした出っ張りに体育座りをする彼女の姿があった。いつのまにそこに上がったのかはわからないが、しかし乱れた髪と滴る海水、何事もなかったように手を差し伸べる彼女を見て、確かにそこに彼女がいるのだと思ったし、生きていることも、たしかに飛び込んでそして無事だったことを実感した。それを知れば、僕を駆り立てていた焦燥感やら何やらが一瞬の内に消え失せ、同時に半端ではない倦怠感が僕の体を襲った。彼女の手を取って身を寄せ合うようにして座る。油断すれば再び穴の中に落っこちてしまいそうだったが、彼女が僕の腰へと手を回し、そして僕も腰へ手を回した。そしてしばらくは何も言わずに、岩礁の隙間から広がる無限の水平線を、ただ黙ってずっと見つめていた。

「見た?」

 ふいに彼女が言った。それが何を示すのか、僕に説明は必要なかった。

「見たよ」

 僕はたしかに見た。彼女が一番見せたくて、本当は見せなくなかったもの。誰も見ることがないことが一番良かったはずのこと。

「白かった」

 岩礁から見切れた白い世界。それは、死んだ珊瑚の世界だった。

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