凶暴なまでの夏の日差しは早朝から全開だった。都会で休めた柔肌を太陽光線が遠慮なく焼いていく。昨晩の内に急ごしらえで用意した格安海パンは、ここに来るまでの間にその輪郭をうっすらと太ももに残していた。幸い肌を焦がすのは遺伝子的にも育った環境からも慣れている。あっという間に茶色く染まり火傷から身を守ってくれるだろう。そしてそれはクラス内での面倒事の起爆剤になり得る訳で、それだけが唯一憂鬱きゆうなことだった。孤独な生徒が一人夏の海に出向く理由など思いつくはずもなく、本当の事を懇切こんせつ丁寧に説明すれば、それは事実から遠ざかっていくのだ。

 巨人浜は相変わらず凪いでいる。付近の複雑な地形と遠浅な海底がそれを実現しているのだろう。浜から海に向かって、白、緑、そして銀に染まる遠景はなかなかに美しい。思い返せば、幼い頃から当たり前にあったこの景色を「ありがたい」だなんて思ったことは一度もなかった。人は生まれながらにして持つ物を大切だと理解するのは苦手なのだそうだが、それはきっと本当のことだろう。こんな海水浴日和にも関わらず、巨人浜は無人だった。今はただ偶然に訪れたこの幸運を感謝しようと思った。それは遠くから駆けて来る彼女の姿を見たことで、より一層強くなった。

「おはよ。いー天気」

 手をかざして太陽を見る、眩しさに細めるその瞳が愛らしい。彼女はクラスの女子の誰よりも快活だし、素敵に思えた。大人になるということがどういうことかも判らずに大人ぶっている彼らより、素直な少女のような彼女の方が何倍も大人だった。

「水着、用意したんだ。いいね、似合ってるよ」

 僕の下腹部を指差して笑う君。肩がけのかばんを脱ぎ捨てると、真夏の砂が苦しそうに音を立てた。両手を組んで伸びる君の影が波打ち際に手を伸ばす。振り返った彼女は、まるで誰かに見せびらかすかのように羽織っていた白いパーカーを放り投げた。

「水着」

 纏うホルターネックビキニの海よりも鮮烈な青が、健康的な彼女の肌を魅惑的にしていた。僕が指差すと、引き締まった腰に手をあてて、軽く首を傾げた。

「まぁね。見せる相手がいるとなればね。どうよ」

「似合ってる」

「ありがと」

 半眼した彼女は僕の手を取ると、「行こう」と言って砂浜を駆け出した。僕の体は抗いもせず、引き込まれていく。サンダルを走りながら脱ぎ捨てて、わーと声を出しながら、そのまま膝くらいまで跳ねるようにして入っていく。まるで待ちきれない子供みたいな僕らだった。

 海水は昨日よりも幾分冷たく、一歩一歩と進むたび、足の指の間をすり抜ける砂が心地よかった。それは随分懐かしい感覚に思えた。たった一年離れただけで、人はこうも簡単に忘れてしまうのだろうか。忘れることが重要なことだとは理解していても、この瞬間だけは忘れたくない。その方法を誰かが教えてくれるなら、僕はきっと何処までも行くだろう。

「さて、じゃあ行こっか」

 優しく手を取る彼女が、徐々に水に浸っていく。両手を引かれながら、彼女だけを見た。そして彼女も僕だけを見ていた。

「……泳げないわけじゃないんだ」

「うん」

 試練は既に開始されていた。水の抵抗を感じながら一歩一歩と踏み出し、太腿のあたりまで浸かった。恐怖心はここまでなら自制できる。だが何かを喋っていないとそれを維持することはできないように思われた。それが恐怖心によるものなのか、彼女の魔法なのかはわからない。僕が纏っていた心の要壁は波に削られるように溶け出し、誰にも話したことのない本心が次々と溢れ出していった。

「ただ水の中に入ると思っちゃうんだ」

 股下が濡れる。本能は肩の筋肉を収縮させ、それは気道を細めていく。浅い呼吸音もやがて聞こえなくなっていく。波の音が近い。彼女の声が遠い。――怖い。

「誰も僕を助けてくれないんじゃないかって」

 腰が浸かった。腹が浸かった。体が波に合わせて揺れ始めた。意識だけは揺れまいと彼女を見つめれば、海面が反射したブルーの瞳に僕が写っていた。

「気づかないようにしてきたことに、気づいてしまうんじゃないかって」

 もう足が動かなかった。浮力が体の自由を奪っていく。恐怖で棒のようになった足がその場に取り残された。揺れる海面の先に足が見えない。それは自分の足が恐ろしいほど遠くに行ってしまったように思えた。このまま自分はこの水の世界の向こう側に吸い込まれてしまうのではないだろうか。

「僕は、」

 前を見る。彼女はもう肩まで浸かっている。

「本当は一人なんじゃないかって思うんだよ――」

 波がすぐそこまで来ていた。このまま僕は溺れる――

 一人は、嫌だ。


「あたしがいる」


 その瞬間、僕の体が浮いた。

「あたしがいるよ」

 紛れもなくそれは事実だった。両手を引かれ、顔が海面から出て、時折僅かな波が耳や口に入っても、それでも体は浮いていた。確かに今僕は、海上に浮いているのだ。

「ねぇ、君の前には誰がいる?」

 僕の前には、君がいた。

「君がいる」

 彼女は決して目を離さなかった。波が頭上を超えて顔にかかろうとも、拭うことさえせずに変わらぬ笑顔を向けていた。水面が作り出す太陽のプリズムが、彼女を眩しく輝かせている。気がつけば、僕の足は無意識に交互に動き推進力を得ていた。僕は、泳いでいたのだ。

「そして、あたしの前には君がいる。ひとりじゃない、ひとりじゃないんだよ」

 これは一体どんな魔法なのだろうか。世界が一瞬で別の形相になる瞬間を、僕は体験したのだ。先程まで体の自由を奪っていた恐怖心は何処かへと消え去り、代わりに満たしていたのは好奇心だった。この魔法の正体が知りたい。泳いだ向こう側に何があるのか知りたい。君が見た美しい珊瑚を知りたい。――君の名が知りたい。

「ねぇ、君の名前は」

 僕はみすぼらしくも犬かきをしながら懸命に聞いた。

「陽子」

 告げられた名前は、僕の魂に刻まれた。なるほど、だってその通りじゃないか。君ほどその名前が似合う子はいないに決まっている。

「僕は、海斗」

 海水を飲み込みながら、叫んだ。いつの間にか離された彼女の手を探すように海中を弄っていた自分の手は、まるで何かを思い出したかのように水を掴みだした。それは推進力となって、遠ざかろうとする彼女を懸命に追いかけている。

「ねぇ海斗」

 腕を振り上げて海面をすくい上げる君は、背面クロールのようにして僕を見ている。

「きれいな珊瑚があるの。あたしは君に見せたい」

 これはいざないだと思った。それに抗う術はなく、体も心も、今この瞬間の喜びに酔いしれていた。僕も同じだ。僕は君と見たいんだ。

「行こう!」

 彼女は満足したように笑うと、背を向けて水を掻きだした。その御足が水しぶきをあげ、小さな虹を作っていく。それをくぐり抜けるように僕も続いた。

 少し先でこちらを振り向いた彼女は、指を海面に向けたかと思うと、天高く足を向けて海中へと姿を消した。大気をめいいっぱい吸い込んで海中を覗けば、青い羽衣に身を包んだ人魚の姿があった。彼女が指差す方に目を向ければ、それはあった。

 それは海中にできた皿だった。朱と白が混ざってピンク色に染まる珊瑚が、まるで独り占めするかのように天上に向き、差し込む波のゆらぎがその表面にもう一枚の海面を作りだしていた。鎮座する海中の宝石は、周囲から隔絶されたかのようにその輪郭を輝かせている。その美しさと迫力に、息をするのを忘れた。

 海面に顔を出せば、すぐに彼女が続いた。

「どうだった?」

 心臓が強く拍動するのを感じた。それが酸欠によるものだけでは無いことに、すぐに気がつく。きつく押し上げられた血液が鼓膜まで伝わってくる。

「凄くきれいだった」

「よかった。あたしのお気に入りなんだ」

 彼女は満たされたような顔で天を仰ぎ、海面に揺れている。彼女の柔らかな体の隆起にあわせて水面が揺れ、それは陸で見るよりも艶めかしかった。島のように浮かぶ胸部に目が奪われる。しかし湧いてくるのは欲情ではなかった。ただただ、美しかった。

「でも、君の方がきれいだ」

 無意識下に放った言葉に、僕は驚いた。


 そして彼女の瞳が寂しげに揺れるのが見えた。

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