世界を見れば、泳げる人の方が少ないという。

 黒人の多くが泳げないというのは、育ってきた環境によるもので、例えば近くに海がないとか、入浴の習慣がないとか、教育機関でプールがないからだとか、そんな話を世界史の授業で聞いた。先生は言うのだ。「一方で日本は教育として授業があり、誰しもが水泳を学ぶ機会がある。こんな贅沢なことはない」。続いてこうも言った。「にも関わらず泳ごとうとしない者はうつけだ」と。


「なに、やってんの」

 下着のシャツとトランクス一丁で立ち尽くす僕に、彼女が振り向き声をかけた。僕の足は既に膝まで浸かっており、一方で先を行く彼女は腰くらいまでが浸かっている。その距離は水平にして十メートルほどだが、なんてことないという顔をしている彼女とは、実際的にしろ精神的にしろ、それ以上の距離に感じられるのだった。

「思ったよりも冷たい」

 苦し紛れの言い訳は、彼女にすぐに見破られた。

「怖いの?」

 思わず俯いてしまうしか無かった。泳げないのかと問われれば即座に返答できる心構えはあったが、彼女は先に心理を問いただしてきたのだった。

「泳げない訳じゃないんだ」

 恐怖に理由はない。例え沿岸で生まれ育ったからといって、泳ぎが好きになる理由にはならない。もちろん得意になる理由にもだ。この恐怖心の原因にはおおよその見当はついている。けれどそれもしようもないくらい小さくて、それに立ち向かえない自分の小ささに嫌気が指しているのも、また事実だった。

 拳を握りしめ硬直する僕に、彼女がゆっくりと歩み寄ってくる。彼女が起こした波は、自然に起きている波よりも僕の体を揺らした。それほどにこの浜は凪いでいた。

「やめよっか」

 彼女は優しく言った。その声色は、挫折者に対してのようで、慰めるようなものだった。

「ごめんね。無理することないよ」

 そこに悪意は無いのがわかるのに、僕の残り僅かな自尊心は悲鳴を上げた。こんなところまで来て、今しがた出会った女性にすら僕は対等でいられないのか。そう思うと恥ずかしくて仕方がなかった。

「いや、いい、行く」

 一歩一歩を踏み出していく。見栄にも近い感情が足を前に押し出している。それは水圧以上に恐怖心が深く纏わりついていてとても重い。視界の端の彼女が心配そうに眉間を寄せているのは僕のせいなのだ。どうしてなのか、それはひどいことのように思えた。

 足を運びながら、こうも考えた。これは自分が変わるための良い機会なのではないかと。変化をするには、変化の過程や、変化後の過程を受け入れてもらえるかどうか、そんな不安がいつも過る。できないことをできるようにする為に努力している姿は、知っている人にだからこそ見せたくない。

 でもここには、今までの僕を深く知る人はいない。そして彼女は、きっと変化しようとする僕を笑ったりしない。たった数分前に出会ったばかりだと言うのに、根拠のない信頼があった。あれほど上手に泳げる人なのに、僕を見て笑いはしなかった。これはチャンスだ。

 だが、水が股間を濡らした時、再び僕の足が止まった。海水が一瞬にして僕を骨の髄まで冷やしてしまったかのように感じた。体はピタリとも動かなくなった。怖い。

「やっぱりやめよう」

 気がつくと、彼女の腕が僕の腕を掴んでいた。

「無理すると、こころの傷になっちゃうよ。体の傷はすぐ治るけど、こころは」

 腕がそっと引かれ、僕の体は自然と彼女と向かい合った。心配そうな顔と申し訳なさそうな顔の間のような、複雑な表情だった。僕は何も言い返せなかった。惨めだ。ただ、惨めだった。知らず内に噛み締めた唇からは、血の味がした。

「それに、ほら」

 彼女の顔が、ふっと明るくなる。その指先を僕の肩を通り越した彼方に向けている。

「夕方だし。暗くなると余計に怖いよ。こういうことは、やっぱり明るいうちにやらないとね」

 そういう彼女に手を引かれて、陸へとゆっくり歩きだした。確かに、湖面は白い反射を増していた。日が傾ぎ始めたせいだろう。世界はまだまだ明るいくせに、僕のこころはどす黒かった。日を浴びた彼女の背中はこんなにも光り輝いているというのに。

「ね、いつまでいるの」

 陸に上った時、彼女は先回りして僕のシャツを取りに行き、そして肩にかけてくれた。

「明後日まで、かな」

 僕は彼女からズボンを受け取りながら、自然に答えていた。おかしい。別に素直に応える必要なんてないのに。

「そっか。ね、お詫びと言ってはなんだけど、おすすめの場所とかあるんだ。よければ案内するよ」

「お詫びとか、いらない」

 思わず口にしてしまった言葉に、はっとした。彼女の顔を見れば、それがどれほど強く、拒絶的だったものなのかはわかった。それは多分、彼女を傷つける一言だっただろう。

 まったく、惨めだった。初対面の他人にここまでしてくれる人に、なんて仕打ちなんだろうか。思い返せば、僕は果たしてここまで気遣ってくれる人に出会ったことがあるだろうか。こんな辺鄙な場所で、こんな冴えない自分なんかに関わる理由なんて、無いじゃないか。僕はいったい、何様なんだろうか。

「ごめん、えっと、そうじゃなくて」

 絞り出した僕の言葉に、彼女は優しく笑った。

「うん、いいよ」

 その笑顔に、僕の心臓はかつて無いほどに締め付けられた。その衝撃はきっと脳にも伝わったんだろう。その瞬間、景色が揺れたのだから。それと同時に、喉が乾いていくような感覚に襲われた。何かを飲み込むか、吐き出すかしないと収まらないような気分になった。それが「何かを言わなくては」と変換された時には、もう既に言葉を発していた。

「きれい――」

「え」

 きょとんとした彼女の表情を見て、血が沸騰していくのがわかった。なんとか取り繕わないとと、僕は脳みそをフル回転した。

「きれい、なんでしょ、その、珊瑚。見てみたい」

「うん、すっごいきれい。もう、ここでしか見れないってレベル」

 彼女が大きく手を広げて、その大きさを表していた。どうやらその珊瑚は、きれいな上に大きいらしい。晴れたように明るくなっていく彼女の笑顔につられて、僕もほぐれていくのがわかった。

「じゃあ、泳げるようにならないと。案内してくれる?」

 本当は珊瑚なんてどうでも良かった。今や美しいものなんてネットの画像でいくらでも見れる。だからそれは嘘なのかも知れなかった。それを真実にするには、ある条件が足りなかった。

「おっけー。じゃあ、また、明日ここで。朝の方が良いよ。八時で良い?」

「わかった。じゃあ、ここに八時で」

 この時既に、その条件の正体に、僕は気づいていた。

「あ、それと水着、着てきてね。その、なんというかその格好だと、くっきりしちゃうから」

 自分の下腹部を見て赤面している僕を置いて、彼女が駆け出していく。横殴りの太陽光線が、彼女の長い影を浜辺に描いていた。僕はその背中に手を振りながら、その答えをつぶやいていた。


 ――僕は君と見てみたいんだ。

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