海が太陽のきらり

ゆあん

 生まれ変われる気がした。


 重力というかせから開放され、肉体がその地から離れていく。上空へと吸い上げられるものは、己を構成する物質と希望や夢といった美しいものだけ。まとわりついた悪意や疲れ、みにくい感情や忘れたいこととか、そういう悪いものは地表に置き去りにしていく。こうしてきれいに浄化された自分は、今までの誰でもない別の人間になっている。新しい自分に生まれ変わるのだ。


 飛行機に乗るということを僕がそう考えるようになったのは、高校に入学してからのことだった。

 空港にほど近い校舎の窓からは、日に何本もの飛行機を見ることができる。ひっきりなしに離着陸が繰り返され、上空では常に数体が轟音を上げている。この街の空にとってそれはあたり前のことで、生徒にとっても、そして僕にとってもそうだった。

 しかしその印象はそれぞれで大きく異なっている。生徒たちの多くは付近の中学からの進学組であり、生まれた時から付近に住んでいる地元民だった。彼らにとってはただ迷惑な騒音なのかも知れないし、もしかしたらそこに空気があるかの如く自然なことなのかも知れない。一方で僕はといえば、遥か西の島国からの転校生だった。一年生のゴールデンウィークという中途半端な転校時期は、社交性に富むとは言えない僕にはハードモードで、友達を沢山作るどころか溶け込むことにすら精神をすり減らす学生生活が待っていた。心の疲弊を感じる瞬間は日に幾度もやってくる。そんな時、窓の外を眺めた。このしがらみだらけの現実から飛び出したい。陽光をきらびやかに反射する鋼鉄の翼は、希望であり、憧れだった。


 高校二年生の夏に入る頃、結婚式の招待状が届いた。母親の姉である叔母の長女が地元で式を挙げるらしい。我が家は母を中心に回っており、母が行くといえばそれは家族全員が行くという意味だった。これはチャンスだと思った。飛行機に乗れない彼女の為に電車や船を乗り継ぐのがいつものことだったが、この時僕ははっきりと「飛行機で行きたい」と言った。「お前は母さんの気持ちを考えないのか」と父に侮蔑されたが、僕の意思が固いとわかると、母は「じゃあ海斗君は私の代わりに乗ってって」と言って許してくれた。

 この時の興奮と落胆は僕の人格に影響するほど大きかった。いざ実際に飛行機に乗ると、それがどれほど素晴らしいものなのかと思った。滑走路に入りエンジンが唸ると、座席に押さえつけられるようなGが掛かり、浮力が得られるにつれ、大海原を進むクルーザーのようにふわふわと揺れた。僕の体から悪しき物が解かれていく。程なくして世界が傾き、鋼鉄の塊が重力を振りほどいて上空へと突き進んでいく。遠く小さくなっていく地表を、僕はずっと見ていた。太陽の光を反射した湾がきらきらとと白銀に輝いている。僕の世界はこんなにも小さかったんだと思った。


 しかし地元に到着してみると、愕然とした。あまりにも何も変わっていなかった。数年という時間は、環境を変えるのには短すぎたのだ。少しの近代化も見られぬ街と、田舎丸出しの風貌の地元民達。この数時間の体験で僕は別人のようになったというのに、彼らは一体日々をどうやって過ごしていたのだと憤りすら覚えた。そして直後に冷静になった。では僕の場合はどうだったのか。己が無為にしている学生生活に胸を張れるのか。そうすると今後は、自分が変わった気になっただけで、実際は何も変わっていないのでは無いだろうかという恐怖が襲ってきた。財布を開くが中身は増えても減ってもいなかったし、学生手帳に映し出された自分の顔も名前も変わっていなかった。トイレに駆け込み青ざめた自分の顔と対峙し、それが紛れもない自分だということに悲しくなった。僕は滲む涙を堪えた。トイレから出てきた身長の低いおじさんが、下がったズボンのベルトを留めながらゲップをしていた。僕は手を洗い、ハンドドライヤーが無いことに気づいてスボンで拭き、涙は袖で拭った。

 結婚式はもっと良くなかった。そこにいる顔ぶれは何も変わっていなかった。親戚達は変わらず僕を「海斗ちゃん」と呼び、子供に接するように優しくしてくれたが、僕はそれが不快だった。実際、僕は子供だった。大人たちはまるで何かのルールのように同じように振る舞い、手を叩き、酒を飲んで笑いあっていた。作法のわからない僕はますます気分が落ち込んで、新婦が父親への手紙を読み始めた頃には、僕は違う意味で泣きそうになった。

 その晩は親戚の家に泊まることになっていた。そこは田舎の中でも特に広大な敷地を持つ所謂いわゆる百姓名家ってやつで、使っていない部屋がいくつもあった。到着したのは夕方に差し掛かる頃だったが、それだけの敷地面積にも関わらず、彼らは一部屋に集いまた飲み始めた。顔を真っ赤にした父と母、そして何かに付けて「めでたい」と口にする親戚達。酒と煙草の匂いで目が眩みそうになる。結局自室の在り処も知らされぬままで、居場所がなくなった僕は、逃げるようにして家を出ていた。

 風景はどこもかしこも記憶通りだった。狭い街だ。行ったことのないところなんて殆どない。行き着く道の先は海だ。一方は崖、一方は港、そして一方は小さな浜辺。内陸へと向かう幹線道路は広大で、道中何もない。照りつける太陽が頭皮を焼き、僕を追い詰めている。どこに行こうともお前を見逃さないと言われているみたいだった。おしゃれなカフェやゲームセンター、本屋だっていい、そんな都会には腐るほど有り触れた隠れ場所はどこにもない。つまり僕はどこに行っても逃げ場なんてなかった。

 乾いた砂をサンダルで蹴り飛ばしながら、僕は絶望していた。結局、何もかもが変わっていなかったし、自分は生まれ変わっていなかった。めでたい席だというのに、僕は気の利いたことも言えず、そして溶け込むこともできなかった。大人たちの気遣いや愛にでさえ嫌悪して、子供のままでもいられず、大人にもなりきれない、そんな自分をただただ持て余していただけだったのだ。


 僕の足は浜辺への道を選んでいた。巨人がスコップでくり抜いたように弧を描いた浜辺は、巨人浜なんて地元民には呼ばれている。極小の湾に偶然できた、果たして遊泳禁止なのかそうじゃないのかも曖昧な、地元の人だけが知っているような、どこにでも有りふれた浜だ。

 遠く向こう、あと数時間で沈むであろう太陽が照りつけている。突き抜けるような青空の下、透明度の高い海水は染まることをせずその下の砂を映し出し、遠方の水平線は陽光で白く輝き、黄昏たそがれ時になれば朱から徐々に黒へと染まっていく。少なくともこの場所に限っては「海が青い」なんてことはない。都会の濁った海の方がよほど青いなんて、なんだかおかしな話だとは思う。それでいえば、都会ですっかり濁ってしまった僕は、遠目から見ればきれいな青に見えるのだろうか。

 数歩進めば、静かな波が足をさらった。水面のうねりはまるでデジタルモザイクのように僕の足を歪めて映し出している。このまま何か違う物質に再構築されればよいのに、と思い至った頃には、既に足は空気にさらされていて、また次の何かを考える頃には、再びその足はモザイクがかけられていた。世界は尽く期待を裏切ってくれた。

 足元の石ころを拾い、大きく振りかぶった。もう、何かに八つ当たらずにはいられなかった。怒りと悲しみが全身の筋肉を震わせて、発散しなければ爆発してしまうのではないかとすら思った。自分でも聞いたことのないような大きさで奇声を発しながら腕を振り抜くと、それはまっすぐに飛んでいき、太陽の黒点のようになったかと思えば、海面に小さくぽちゃんと落下した。僕を包んでいたエネルギーは、耳を澄まさなければ聞こえないような小さなぽちゃんだった。

 直後だった。その着水地点からわずかに横で、水しぶきがあがった。目を凝らすと、海面から人の頭が飛び出している。それは着水地点を見やった後、浜にいる僕を見つけると、一直線にこちらに向かって泳いでくる。

 やばい。もしかしたら当たってしまったのかも知れない。僕のぽちゃんが、人を傷つけてしまったのかも知れない。あんなしょうもない感情で人を傷つけたなんて、僕はどうしてこんなにもどうしようもないんだ。大事だったら、どうしよう。そう思うと、体はびくとも動かなかった。ここでもやはり僕は逃げ出せないのだ。いや、ここばかりは、逃げ出してはならない局面であるはずだった。

 数秒の後、その人物が海面から徐々に姿を現した。女の子だった。まとめた髪を面倒くさそうに解くと、間違いなく僕に向かって歩いて来る。何も言えない僕の表情を一瞥するなり、腕を腰に当てて、睨みつけた。

「危ないじゃない」

 フィットネス用の質素な水着を纏った彼女は、かなり小柄だった。幼くも見える。でも態度のそれからは幼さを感じず、立派な大人で、女だった。都会にいては味わえないほど、僕にまっすぐに向き合っている。

「怪我したらどうすんのよ」

 その言葉で反射的に彼女の体を見た。幸い、命中はしなかったのだろう。細いが普段から運動をしているのがその水着越しからでもわかる。やたらとすっきりしている腰回りに、思わず唾を飲む。そう思うと、その小振りな胸の膨らみがやたらと煽情的せんじょうてきに見えた。我に返ると、疑いの双眸そうぼうが僕に向けられていた。

「もしかして、狙った?」

「いや、ちがう! ごめん、ちがう。本当に、たまたまなんだ」

 僕は顔やら手やらを振りながら必死に否定した。その慌てっぷりに、彼女はますます前のめりで覗き込んでくる。

「ふーん」

 彼女の顔を視界に収めれば余計に際立つ二つの双峰そうほうが、僕の顔を火照らせていくのがわかった。僕は反り返り、明後日の方角を向きながら、自分の尊厳を守るための言葉を探していた。すると彼女は諦めたのか納得したのか、大きくため息をついてから人差し指を向けた。

「わかった。でも気をつけて。人がいるかも知れないんだし、当たりでもしたらそれこそ大変だから」

 僕は緊張の開放に耐えきれず、尻もちをつくようにその場にしゃがみこんだ。自分が加害者にならなくて済んだ、という想いと、彼女の顔に傷がつかなくてよかった、という想いが同時に押し寄せてきていた。

「良かった。当たってないんだ」

「ま、ギリギリだったけどね。後少し早く息継ぎしてたら、あたしのおでこが割れてたよ。目の前横切っていったし」

 楽天的に言う彼女だったが、僕は再び想像して、再び全身に緊張が走った。見上げば、逆光下なのに眩しい彼女の笑顔があった。

「それで、君も泳ぎに来たのかな、たそがれ君」

 遠く向こうの太陽が彼女の輪郭を浮かび上がらせていた。この世界で、彼女だけが特別な存在だと言わんばかりに、光り輝いている。

「すっごいきれいな珊瑚があるんだよ。見せたげる」

 それはまるで、夏の一ページだった。

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