第9話 遭遇

 外に出ると、相変わらず空に浮かぶ月はぼんやりしていてとらえどころがなかった。その月の下ひっそり静まりかえる森からは、物音ひとつ聞こえない。来る時は虫の鳴き声や夜行性の獣が動くかすかな音がしていたはずだが、獣や虫たちは九尾の妖狐が復活したことを感じ取りでもしたのか、息を殺しているようだ。


 不気味に静まりかえる森を抜け宮一郎が館に戻ると、なぜかあちこちで篝火が焚かれ、多くの人々が起き出していた。その大半が陣笠をかぶり、物々しい雰囲気を醸し出している。どう見ても厳戒態勢だ。その中には明彦の姿がある。


「明彦っ」


 明彦の姿を見とめ、宮一郎は彼の元へ駆け寄った。


「おお、宮一郎。御屋形様には伝えといたぜ。そしたらすごい勢いで飛び起きて、この騒ぎよ。ってお前、どうした。汗でビショビショ——」


「御屋形様はどこだ!?早く伝えないと」


「え、御屋形様なら向こう」


 明彦が指差すや否や、宮一郎はその方向に向かってすぐに走り出す。後には惚けた顔をした明彦が残された。


「御屋形さまっ」


 寝間着から着替えたのか、普段着姿の宗右衛門の姿を見つけ、宮一郎は息せき切って彼の面前へ滑り込む。周囲を囲っていた兵士たちが驚いた顔で宮一郎を一瞥した。


「宮一郎、そなた沙羅を追っていったのではないのか?沙羅はどうした!?」


 突然の宮一郎の登場に驚きつつも、宗右衛門は宮一郎に掴みかかりそうな勢いで尋ねた。宮一郎は尋常ではない主人の様子に気圧されながらも返答する。


「姫様は……封印石のある祭壇におられます」


「何?」


「そこで、九尾の妖狐が復活するのを見ました」


「九尾だと……、まさか、そんな早くに」


 乾いた声で呟き、宗右衛門は絶句した。聞いていた周囲の兵士たちも一時の間固まったが、誰かが「バカな」と一笑し、周囲がそれにつられて笑う。


「宮一郎、そのようなバカを申すな。見間違えであろう」


「見間違えじゃないっ!」


 血相を変え叫んだ宮一郎の様子に、笑っていた兵士たちが尋常ではない気配を感じ取ったのか、一斉に口を閉じた。


 宮一郎は宗右衛門に向き直る。


「御屋形様。俺の言うことは本当です。見たままを話します。今、九尾の妖狐は復活し、姫さまの体に取り憑いております」


「真か?」


「真にございます」


 宗右衛門は宮一郎の顔をひたと見つめた。その目が一瞬迷うように揺らぎ、しかししばらくして、大声で周囲に号令を発した。


「皆武具を持ち、馬を出せ。宮一郎の報告によれば、九尾の妖狐が復活したとの知らせ。これから祭壇のある洞窟へ向かう。領民には避難するよう触れを。いや、鐘を鳴らせ」


 領主の命令に、今までどこか緊張感のなかった兵士たちに漂う空気が一変した。皆慌ただしく武器庫から刀や弓矢をひっつかみ、厩へ向かう。誰かが櫓に登って、頂上にある鐘をけたたましく鳴らす。


 宮一郎も厩に向かった。自分の愛馬を探し当てる途中、沙羅の愛馬である水月と目があった。美しい黒鹿毛の雌馬は、落ち着かないのかしきりに地面を蹄で引っ掻いている。


「心配するな。お前の主人は、ちゃんと俺が連れて帰る」


 水月を落ち着かせるように声をかけ、宮一郎は自分の馬を引いて外へ出た。

 

 外に出るともう兵団が出来上がっている。鎧を着込み、先頭にいるのは領主の宗右衛門。宗右衛門の周りを固める兵たちは松明を掲げ、周囲を煌々と照らす。


 やがて皆の装備が整うと、宗右衛門は号令を発した。領主の号令とともに、どっと皆の乗った馬が駆け出し馬蹄を轟かして正門を出る。宮一郎も愛馬の手綱を握りしめてそれに続く。


「九尾が復活したって、それ本当か?」


 いつの間にか明彦が隣で馬を走らせており、不安そうな目を向けて宮一郎に尋ねてきた。宮一郎は「ああ」と頷く。


「本当のことだ。俺がこの目で見た」


「お前のことを信じてないわけじゃないけど、今回ばかりは見間違いであって欲し

いな」


「残念ながら見間違いじゃない」


「はあ、こりゃ腹くくった方が良さそうだ。ところで姫様は?」


 明彦の重ねた問いに、宮一郎は顔をしかめた。


「姫様は多分、九尾に操られてたんだ。今は九尾の妖狐に取り憑かれてる」


「はあ?取り憑かれてるって」


「姫様の体に九尾が入ってるんだ」


「な……」


 明彦はしばし間の抜けたように口を開けた。


「……じゃあどうやって倒すんだよ。姫様人質に取られてるようなものじゃん。そもそも、俺ら何しに祭壇の方に行ってるの?九尾に勝てっこないのに」


「明彦、いい加減に口を閉じろ。舌を噛むぞ」


 宮一郎は流し目で明彦を睨みつけた。


「俺たちの役目は、多津瀬領を守ること。つまりここに住む民たちを守ることだ。勝てなくてもいい。俺たちで九尾を少しでも足止めして、少しでも多くの民を逃すために祭壇へ向かっているんだ。そして、九尾に取り憑かれた姫様を助けるために……」


 それきり宮一郎は前を向いたきり喋らなかった。明彦もぐっと口を引き結び、前を向く。二人以外の武士たちも似たようなもので、皆喋らない。馬を走らせる各々の顔には強張った表情が張り付き、額には脂汗が滲んでいる。皆恐ろしいのだ。今や伝説となった九尾の妖狐が復活したということに恐れを感じている。だが恐怖とともに、九尾の妖狐復活という宮一郎の知らせが嘘であってほしい、きっと何かの間違いだ、という悲痛な思いも彼らには入り交じっている。


 誰もが半信半疑ながらも伝説の怪物に怯え、その復活に疑いを交えながらも、領主自らが率いる軍勢は、松明の明かりを掲げ館のある山の坂道を下っていった。


 山を降り、民家の並ぶ土地へ入ると、住民たちが大わらわで家財道具を荷車に積んで逃げ出していた。先に早馬で九尾復活の報せを告げてあったのだ。もちろん、館から聞こえてきた鐘の音の時点で逃げ出した者も多かろう。あの鐘の音は領内に危機が迫った時に鳴らすもので、あれを聞いたらすぐに避難することになっている。


 急ごしらえの兵団は、逃げ惑う住人たちの波に逆らうようにして進んでいった。


 まだ館で誰かが鳴らしているのだろう。鐘の音が絶えることなく多津瀬に響き渡り、その音は領民や祭壇へ向かう宮一郎たちの心を不安にさせる。


 やがて兵団は、多津川の源流が流れ出ている森に入った。


 宮一郎は馬を走らせて、宗右衛門のいる先頭まで出る。


「御屋形様、姫さまは九尾に体を乗っ取られております。どうにか助ける算段はあるのですか」


「沙羅を助けるのは後だ」


 宗右衛門は手綱を握る手をゆるめることなく答えた。


「今はどうにかして九尾の妖狐を我らで食い止める。それが先決だ。わかったら後ろへ戻れ」


「ですが——」


「沙羅のことは、最悪諦める」


 宮一郎は息を呑んで、宗右衛門の横顔を見つめた。


 松明の明かりで赤く照らされた男の顔は、ひどく老け込んで見える。続く宗右衛門の言葉が、重々しく宮一郎の耳に響いた。


「私は一人の父親である前に、多津瀬の領主なのだ。娘可愛さに九尾を討ち漏らし、この里を危険に晒すわけにはいかぬ。あれも覚悟しておろう」


 

 宮一郎が返す言葉を失くしていると、宗右衛門のすぐ隣を走っていた老武士が何事か叫んだ。


「どうした」


「前を、あれは姫さまでは?」 


 宗右衛門は皆に止まるよう合図を出した。


 宮一郎も手綱を後方へ引いて馬を止まらせる。


「沙羅……」


 宗右衛門が娘の名を呼んだ。


 松明に照らされ、闇が引いた森の小径のその先に、簡素な衣をまとった少女の姿があった。


 宮一郎は一縷の望みをかけて少女の目を見る。少女の目は、目の奥にある血が透けて見えているのではないかと思うほどに、赤く赤く染まっていた。


「九尾の……妖狐」


 宮一郎は上ずった声をあげた。それが聞こえたのか、宗右衛門は腰の刀を抜き放ち、沙羅へその切っ先を向けた。


「貴様、九尾の妖狐か」


 宗右衛門の投げかけた問いに、沙羅——否九尾の妖狐は口を歪める。それを肯定の意と取ったのか、宗右衛門は部下たちに武器を取るよう合図した。次々と刀が鞘から抜き放たれる音、弓に矢をつがえる音が響く。無論、宮一郎も新たに持ってきていた刀を抜き放つ。


 宮一郎は、宗右衛門が九尾の妖狐に攻撃を仕掛けるつもりなのではと案じた。最悪沙羅のことは諦めると言っていたことからも、沙羅の体を傷つけることも厭わないのかもしれない。そうなることに恐怖を感じながらも、宮一郎は油断なく刀を構える。


 そんな人間たちを見て、九尾は目を煌々と輝かせる。


「なるほど。この娘ごと俺を殺すつもりらしい。人間というのはかくも醜いものよ。相も変わらず憎たらしい」


 そう言うと、九尾は不意に右手を前にかざした。次の瞬間、右手のひらから青い炎が炸裂した。

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