第8話 九尾の妖狐

 あまりの出来事に、宮一郎は口から飛び出しかけた声を慌てて手で押さえた。だがくぐもった声がわずかに指の隙間から溢れる。


 沙羅はというと、相変わらずぼんやりした様子で黒く染まった封印石を見上げていた。


 さっきまでの美しい姿を失った封印石の表面には、黒い霧のようなものが渦のように蠢いている。その光景は大量の黒い虫がカサカサと這いずっているようにも見え、宮一郎は強烈な不快感を感じながら息を殺した。


 その時、ピキリ、というかすかな音が聞こえた。それから、何かが軋むような音を立てて、封印石に幾筋もの亀裂が走りだした。細い枝のように何本も枝分かれしながら、稲妻のように亀裂が石全体に広がっていく。やがて亀裂は封印石の頭から下にまで達した。やがて耐えきれなくなったのか、封印石は身震いするかのように揺れ、大量の破片を洞窟内に撒き散らしながらその身を真っ二つに裂いた。


 封印石が崩壊すると同時に、流れ込んでいた黒い霧までもが破片と共に外へ飛び出てきた。霧はしばらく洞窟内に広がり揺蕩っていたが、突然恐ろしい速度で収縮した。黒い霧が集まると、濃密な闇が生まれる。その闇はあろうことかぼんやりと佇む沙羅の体へ飛び込んでいった。途端、沙羅の体が揺れ、彼女は地面に膝をついてうな垂れた。


 さすがにこれを見て放っておける宮一郎ではない。


「姫様っ」


 パッと暗がりから飛び出し、崩折れた沙羅の元へ駆け寄る。


「大丈夫か?」


 沙羅の肩に腕を回し、必死で問いかける。沙羅の顔は項垂れており、下に下がった髪に邪魔されて彼女の表情が見えない。意識があるのかどうかも定かではない。


「姫さ——」


 再度呼びかけた宮一郎の声を遮るようにして、沙羅の右手が宮一郎の手首を力強く握りしめた。


 意識はあるようだ。それにホッとして、宮一郎は声をかける。


「よかった。意識はあるみたいですね。一体何があったんですか」


「……」


 沙羅は無言のまま、掴んだ宮一郎の手首から右手を離さない。


「姫様……?」


 不意に、項垂れていた沙羅の頭が半ば仰け反るようにしてノロンと起き上がった。長い黒髪が彼女の頬を垂れ落ち、白い肌が暗がりの中でハッと目を引くような輝きを放つ。見開かれた両目は虚空を見上げ、とらえどころがない。


 異様な沙羅の様子に圧倒されながらも、宮一郎は彼女の体を支えるのをやめなかった。


「姫様、気を確かに」


 何も写していないかのような真っ黒な彼女の瞳に向かって、必死で呼びかける。するとその声が届いたのか、沙羅は顔の位置はのけぞった格好そのままで、瞳だけをぐるりとこちらへ向けてきた。


 宮一郎はその瞳を見て、ヒュッと息を飲んだ。


 その瞳は、宮一郎のよく知る沙羅のものではなかった。眼球の中央にある瞳孔は線を引いたように細く、その周囲を囲う本来黒いはずの角膜は、血に濡れたような色に染まっている。


 まるで獣のような目に、思わず宮一郎は沙羅の体から仰け反りかけた。だが手首を彼女に掴まれており、それも思うようにできない。


「姫様……その目、一体何が」


 異形の目を見た恐怖を紛らわせようと、宮一郎は沙羅へ声をかける。だが、彼女は何も言わない。何も答えない。ただその異形の目で宮一郎を凝視してくる。何の感情も浮かばない、死人のような青白い顔で。


「ぐっ」


 宮一郎は、沙羅に掴まれていた腕を引きちぎるようにして乱暴に振り抜いた。意外にも沙羅の手はそれで宮一郎の手首から離れる。


 沙羅から一旦距離を置き、宮一郎は身構えた。


 明らかに今の沙羅は尋常ではない。何か良くないものに取り憑かれているとしか考えられない。問題は、何に取り憑かれているかだ。


 宮一郎は、沙羅の背後にある真っ二つに裂けた封印石に目をやった。封印石には、九尾の妖狐が封じられている。だがそれを閉じ込めていた封印石は崩壊し、今やその機能を果たしていると思えない。では九尾の妖狐はどうなったのか。


 宮一郎は、沙羅を睨みつけた。


 沙羅は、宮一郎に手を振りほどかれた時の衝撃で態勢を崩していた。だが、緩慢な動きで立ち上がり、今では腕をだらりと下げた格好で宮一郎の方を見ている。


「お前……九尾の妖狐だな」


 震える声を押し殺しながら、宮一郎は腰に下げていた刀を鞘から抜き放った。刀身が松明の明かりに反射して、キラリと銀色に輝く。


「姫様の体から、出て行け」


 宮一郎は刀の切っ先を沙羅の体へ向けた。刀を向けられた沙羅は微動だにしない。


「……出て行けと、言っているっ」


 もう一度、声を張り上げて宮一郎は一喝する。


「さもなければ」


「さもなければ?」


 突然沙羅が口を利いたので、宮一郎は危うく刀を取り落としかけた。沙羅が正気を取り戻したかと一瞬考えたが、沙羅の目は相変わらず異形の目をしている。


ならば今喋ったのは沙羅に取り憑いた何か。——つまり、九尾の妖狐。


「その刀で、この娘の体を斬るつもりか?」


 沙羅の顔が歪む。ニタリと微笑もうとしたのだろうか。だがそれはうまくいかなったようで、彼女の顔は作り物のように歪んだだけだ。


「言っておくが、そんなことをしてもこの娘の体に傷がつくだけだ」


「くっ……」


 刀を持つ己の手が震えるのを感じ、宮一郎はグッと恐怖で逃げ出したくなるのをこらえる。


 だが、沙羅に取り憑いた九尾にはそんな宮一郎の気持ちが筒抜けだったようだ。


「お前、怖がっているな」


 不意にそう言葉を放つと、沙羅の右腕が糸で引っ張られたように上がった。沙羅の指先が曲がり、ちょうど人差し指を立てて人を指さす形になる。その途端、宮一郎の持っていた刀の刀身がパンっという破裂音を響かせて、粉々に砕け散った。


 あまりに突然のことに驚き、宮一郎は柄と鍔だけになった刀を取り落として腰を抜かした。


 そんな宮一郎を見下ろしながら、沙羅の体を借りた九尾は腕を下ろす。それから目元にかかった髪が鬱陶しかったのか、右手を上げてそっと目の付近をなぞった。


 その隙を見て、宮一郎は脱兎の如く駆け出した。とてもではないが敵う相手ではない。今自分にできることは、いち早く皆に九尾の妖狐復活の報せを運ぶことだけだ。その思いを乗せ、宮一郎は後ろを振り返ることもせずに洞窟から転がるようにして走り出た。

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