第6話 声

 その夜、沙羅はまた夢にうなされていた。

 

 昨日見たのと全く同じ内容だ。


 見知った館の長い廊下を走り、背後から迫り来る闇から逃れようとしている幼い自分。もうとっくに息は上がり、心臓は早鐘のように脈を打つ。足はガクガクと震え、もう幼い沙羅の体は現界に達している。だが足を止めるわけにはいかない。あの闇に囚われるわけにはいかない。


 沙羅の行く先を照らしていた燭台に灯る炎が、風も吹いていないのにフッと消えた。それに怯えて立ち止まった沙羅の両隣の壁に据えられた二本の燭台の明かりだけが、頼りなく揺れる。その明かりは床や壁に投げかけられて、闇を影としてより色濃くその暗さを際立たせる。闇は影と化し、先端の尖った鞭のような形となって沙羅の体に絡みついてきた。手や足に巻きつき、逃れようともがいてもさらに沙羅の体を強く締め付けてくる。


 気がつくと、己の手さえも見えない暗闇の中にいた。しばらくして、闇の中に幽鬼のように不気味に揺らめく青白い炎が現れた。


 沙羅はそれを見つめる。魅入られたように、じっと見つめる。逸らしたくともそらせない。青い炎の輝きは、沙羅の目線を奪う。沙羅はやがて白い炎心部分に何かを見た。九つの尾を持った、化け物——。



「ッ……」


 かぶっていた布団を両手ではねのけ、沙羅は体を起こした。


 走った直後のように息が上がり、肩が上下に揺れている。冷や汗もひどい。おまけに悪寒のようなものを感じ、沙羅は己で自分の体を掻き抱いた。ひどい寝覚めの悪さだ。この夢をこれほどまでに恐ろしいと感じたのは、一体いつ以来だろう。


 その後、沙羅は若葉から朝餉の支度が整ったことを告げられるまで布団の上で身じろぎひとつできなかった。若葉がひどく心配して、沙羅の身支度をあれこれ手伝ってくれて、ようやく沙羅は部屋から出た。


 朝餉の準備の整った広間へ向う途中。庭に面した廊下を通る時、昨日と何も変わらないのどかな春の空が見えた。霞みがかった青い空に真綿のような雲がかかり、その下を雀の群れが飛んでゆく。こんなにも世界は穏やかなのに、自分の心はひどく荒んでいた。


 朝から何度も何度も昨日の大叔母の言葉が頭の中で蘇る。


「お前は九尾に魅入られた」と。それが蘇るたびに、ひどく気分が悪くなる。このままいけば、自分はどうなるのだろう。九尾は復活してしまうのだろうか。


 朝餉を食べている際も、この問いが頭の中を離れてくれなかった。そのため箸も進まず、せっかく使用人たちが作ってくれたご飯も喉を通らなかった。だが空腹は感じなかった。その逆もまた感じない。


「ごちそうさま……」


 そう言って箸を置き、沙羅は怪訝な顔をする千代の方と、父の宗右衛門を残し、いつもより早くに自室へ戻った。


 自室へ戻った沙羅は、神棚に置いてある鎮めの玉の御統を手にとった。五つ連なった勾玉のうち一つに、稲妻のような形で深い亀裂が入っている。沙羅はその亀裂の部分をそっと人差し指でなぞるように撫でた。亀裂の入った側面が尖っていたのだろうか。チクっとした小さな痛みが指先に走り、沙羅は弾かれるように指を離した。人差し指を見れば、赤い血が滲んでいる。己の指から流れ出るその血さえも不吉なものに感じられ、沙羅は慌てて手ぬぐいを裂いて包帯代わりにし、傷口を覆った。その際に袖口の手首から覗く痣が目に入り、沙羅は目を見開いた。痣の色が、昨日よりも濃くなっているように見えたからだ。それが自分の気のせいだったのか、事実だったのかを確認する勇気も出ないまま、沙羅は三角座りをして自分の腕に顔を埋めた。


 幸いなのかどうかはわからないが、今日は魂鎮めの儀式を行う日ではない。儀式は、三日から四日に一度行えばそれでいい。次に封印石のある祭壇へ行くのは早くて明後日だ。


 そこまで考えたところで、沙羅はもう自分が守り巫女としての役目を果たせる者ではないということに気がついた。大叔母は次の守り巫女の登場を待つしかないと言っていた。沙羅ではもう無理なのだ。六歳の頃に引き継がれた大切なお役目は、もう沙羅では果たせないものなのだ。


 その時、沙羅の部屋の戸の前で誰かが立ち止まる気配がして、沙羅は顔を上げた。続いて「沙羅」と父の声が聞こえる。


 沙羅は立ち上がると、乱れていた襟元を正して部屋の戸を横に滑らせた。


 戸を開けると、やはりそこには父がいた。


「なんですか?父上」


「……叔母上から、話は聞いた」


 絞り出すような声音で、父は言った。


 叔母上、つまりは沙羅から見れば大叔母に当たる人。先代の守り巫女だ。彼女から聞いた話とはつまり、沙羅が九尾に付け込まれ、守り巫女として役目を果たせなくなったことだろう。考えてみれば、この話が領主である父へ伝わるのは当然のことだ。多津瀬領にとっては一大事なのだから。


「そう……」


 沙羅は父の顔を見ていられなくなり、目を伏せた。目を伏せる直前に見えた父の目は、憂に満ちており痛々しかった。眉間には深い苦悩のあとのような皺が刻まれていた。


 失望されたのではないのか。沙羅の胸中にそんな不安が飛来する。清浄でなければならないはずの巫女があやかしに付け込まれ、その役目を果たせなくなる。失望されて当然なのではないのか。


 だが、不安がる沙羅の頭にそっと乗せられた父の手のひらは温かく、決して我が子を突き放すようなものではなかった。


 沙羅は目を潤ませ父の顔を見上げた。頭を撫でられるなんて幼子ではあるまいし、という不満が全く湧いてこないことはなかったが、父の手のぬくもりに思わず涙ぐみそうになる。


「父上……」


「沙羅、心配する必要はない」


 娘の頭に手を置いたまま、宗右衛門は沙羅に目の高さを合わせた。


「叔母上も、封印石がすぐにどうこうなることはないだろうと言っていた。ゆっくり次の守り巫女の誕生を待てば良い。その間封印石をどう鎮めておくかについては、都の陰陽師殿に相談することにした」


「陰陽師に……」


 陰陽師は、占いや天文、呪術やあやかしの調伏に対し優れた知識と技術を持つ人々のことだ。普段は都で朝廷に仕えているが、地方で強力なあやかしが出現すれば、討伐のためにはるばる都から派遣されてくると聞く。もともと九尾の妖狐を封印したと伝わる沙羅たち秋月一族の祖も、そんな風にして派遣されてきた陰陽師一門の一人だったらしい。

 

 彼らの協力を仰げれば、どうにかなるかもしれない。


 父から希望を与えられて、沙羅はホッと胸をなでおろす。沙羅の表情が和らいだのを感じたのか、宗右衛門も不意に目元を緩ませた。


「お前の体に浮き出たという痣も、きっと陰陽師殿がどうにかしてくれるだろう。もう都に使いは出してある。ここから都までは遠いが、一月以内には陰陽師殿がきてくれるだろう。それまでの辛抱だ」


「ええ」


「大丈夫かね」


「ええ、もう大丈夫」


 沙羅が落ち着いたのを確認して、宗右衛門は「仕事があるからもう行く」と言い残し、廊下を渡って行った。先ほどまで感じていた不安が嘘のように溶けてゆく。父の去っていく背中を見ながら、沙羅は安心のあまりその場に座り込んでしまった。



 その夜、沙羅はまた夢を見た。


 いつものように闇に囚われ、沙羅は目の前に浮かぶ青白い炎を見つめ続ける。

 ゆらゆらと不安定に揺らめきながら、炎は幽鬼のように闇に浮かび続ける。その炎の奥底に見える、九本の尾を持った獣のような形をした焔。沙羅は、だんだんその獣のようなものに凝視されているような気分になってきた。蛇に睨まれた蛙。自分はその蛙なのかもしれない……。


「…ら」


 何か、聞こえた気がした。


 普段の夢とは異なる出来事に、沙羅は身を固くする。


「さ……ら」


 途切れ途切れではあるが、誰かが自分の名を呼んでいる。その声はどうも炎の方から聞こえてくる。沙羅は耳をすませ、ますます青白い炎を見つめた。


「沙羅……」


 今度ははっきりと聞き取れた。


 女性の声だ。ひどく聞き覚えのある、懐かしい声。この声は……


「……母上?」

 


「母上?」


「そうよ、沙羅」


 沙羅の問いかけに、声は確かな意思を持って答えた。


 声の高さも、調子も、話し方も母と全く同じ。

 

 幼い沙羅はそれを母と信じ、必死で呼びかけた。


「母上、どこにいるの」


「私は、ここにいますよ」


「どこに」


「姿は見えずとも、私はここにいます」


「母上……」


 沙羅は今にも泣き出しそうな声で母を呼ぶ。今の沙羅は幼い少女の姿。ちょうど母を亡くした頃と同じ容姿。


 もう二度と会えないと思っていた大好きだった優しい母の声に、幼い沙羅は泣きじゃくりながら縋る。


「母上、助けて。怖い、怖いの。九尾が怖い」


「大丈夫。お母さんがあなたを守るわ。あなたに怖い夢を見せる悪い狐を、やっつけてあげる。そのために来たのよ」


「母上が、悪い狐を……?」


「ええ。でもそのためには、封印石を祀る祭壇まで行かなければならないの」


「祭壇……」


 母の声を聞いていると、次第に頭がぼうっとしてくる。


「お母さんを、そこまで連れて行ってくれる?」


「うん……。わかった」


 沙羅は、素直に頷き、青い炎へ手を伸ばした。


 

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