第5話 宮一郎

 季節は桜咲き誇る春爛漫。長い冬が明け、雪の下で耐え忍んでいた新たな命が芽吹き、里を緑の園に変える頃。人々の表情は和らぎ、虫や花や動物たちも喜び勇んで春の世界に彩りを加える。


 そんな世界で、多津瀬に伝わるわらべ歌を口ずさみながら、子供達が何人か、緑に色づいた田の畦道を駆けて行く。その後ろを、子供達が飼っているのか、茶色い犬が尾を振りながらついていく。そこからもう少し遠くへ視線を移せば、年若い男女が談笑しながら連れ立って歩いているのが見える。男から送られたのか、女の手には愛らしい桜草が握られていた。


 そんな光景を、沙羅はぼーっとした顔で多津川の土手に座って眺めていた。巫女装束のまま川の土手に座り込んで身じろぎひとつしない領主の娘を、村人たちは最初こそ心配そうに気にしていたが、どうも今は一人にしておいたほうがよさそうだと察したのか、誰も近寄ってこない。


 柔らかな春の風が、一人うずくまる沙羅の頬を撫でた。土手に咲く桜の木から薄紅色の花弁が風に乗って運ばれては、はらはらと地面へ落ちてゆく。どこかからか雲雀の鳴き声が聞こえたかと思うと、沙羅の眼の前で一羽の雲雀が跳ねた。


 小さな鳥が意外にも力強く羽ばたいたのを見て、沙羅はハッと顔を上げた。そうして空高く羽ばたいていった一羽の雲雀の影を目で追う。そうして目で追っていった視線の先に、馬に跨る二人連れの少年の姿があった。前を行く馬に跨った少年は、あどけなさを残した子供で、彼の手には山鳥の死骸が握られている。その後ろを同じく馬に乗ってついてくるのは、前を行く少年よりはずっと年長の、背のすらりと伸びた健康そうな若者だ。黒い髪を後ろで束ね、馬の尾のように垂らしている。


「姉上ー!」


 幼い子供のほうが、沙羅の姿をみとめて大声をあげた。馬に早駆けさせて、たちまち沙羅の元へ近づいてくる。


「弓月彦……」


 弟の名をつぶやき、沙羅は立ち上がった。今朝若葉が言っていたことを思い出す。狩りから帰ってきたのだろう。


 子供——弓月彦は馬から降りると、「みてください」と嬉しそうに沙羅のいる土手まで駆け上がってきた。そして誇らしげに山鳥を沙羅の前に掲げてみせる。


「山鳥を捕らえました」


「まあ、大きな山鳥。弓月彦が仕留めたの?」


「はい!あ、でも、宮一郎にも少し手伝ってもらいましたが」


「いえいえ、弓月彦様が一人でお捕まえになったも同然ですよ」


 少し遅れてやってきた黒髪の若者が、弓月彦の後ろからそっと口添えした。沙羅は若者の方に顔を向ける。


「宮一郎、弓月彦に付き合ってくれてありがとう。それと今朝のヤマメ。美味しかったわ」


「お褒めの言葉ありがとうございます」


黒髪の若者——宮一郎は、丁寧に頭を下げた。それから、沙羅の衣服を眺めて


「ところで姫様。なぜまだ巫女の格好を?それにこんなところで何してるんです」

と不思議そうな顔をした。沙羅は痣の覗く手首をさっと袖で隠す。


「別に。ちょっと着替えるのが面倒臭かったのと、景色を眺めたかっただけ」


「そう……ですか」


 宮一郎はどこか腑に落ちないといった様子で目を瞬かせた。


 そんな二人のやり取りを眺めつつ、弓月彦が元気な声で言う。


「僕、父上と母上にも見せてくるっ」


 言うや否や、着物の裾を翻して土手の下でおとなしく草を食んでいる馬の元へ駆け寄っていった。


「若っ!そんなに勢いよく走ると転びますよ」


 弓月彦に注意の声を上げてから、宮一郎は沙羅の方へ再び顔を向ける。


「さあ、姫様も。館へ戻りましょう。ついでですし、馬で送ってさしあげます」


「ええ。ありがとう」


 宮一郎の後をついて土手を下り、沙羅は彼の馬に乗せてもらった。

 沙羅の後ろから宮一郎の手が伸びて手綱を握り、軽く馬の体が震えて前へ進み出す。


 父に今日の狩の成果を見せようと意気込む弓月彦の操る馬と打って変わり、宮一郎と沙羅を乗せる馬はパッカパッカと一定の律を保ちながら、土を踏みならして館へ歩いて行く。時折すれ違う住人たちが、馬上の二人を微笑ましそうに見上げては挨拶をして通りすぎてゆく。


「姫様」


 進みだしてしばらく経ち、館へ続く坂道に差し掛かった頃、宮一郎が不意に沙羅を呼んだ。彼の口から吐き出される息遣いが沙羅の髪を揺らして、沙羅はハッとする。わざわざ後ろを振り返って彼の表情を見るわけにも行かなかったが、その声音から彼が真剣そのものであることはわかった。


 宮一郎は、そっと耳打ちする。


「何かありましたか」


「……」


 沙羅は何も言わなかった。言えなかった。自分のせいで、九尾の妖狐が復活するかもしれないなんて。


 宮一郎は何も言わずに黙り込む沙羅を見て、それ以上は追及してこなかった。 ただ一言、「何かあった時は、俺を頼ってくださいね」とそっと囁いてくれた。



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