第4話
いつからだろうか、絵を描くのが楽しいと思えなくなったのは。
いつからだろうか、私が純粋でなくなったのは。
苦痛でしかない、こんなものはもはや拷問だ、できることなら全部放り投げて何も考えずに眠っていたい。
それでも、そんなことは私が許さない。
それは否定だから、それを否定することは今までの自分の全てを拒絶することだから。
どれほど自分が積み上げてきたものが歪でも、それはある意味では私自身だから。まるで溺れていくような感覚だ、苦しくて苦しくて仕方がない。
それでも私は、今日も筆をとる。
彼を巻き込んだ、退路は自分で絶ったのだ。
だから、今日も私は絵を描く。描けなくても描く、塗りたくった色あざやかな色彩を私は今日も塗りつぶす。
・・・
あれから、随分と早いもので一ヶ月ほどの時間が経過して本格的に秋の色が強くなってきた。今年も今年で「例年より寒い」なんて毎朝テレビのニュースショーが叫んでいる。
そうして、季節も気温も変わったと言うのに変わらないのは彼女が描けないと言う事実だけ。私が彼女に絵のモデルを頼まれて早一ヶ月、事態は停滞していた。
お世辞にも順調なんて言えないような状況で、日に日に彼女が疲弊していくのが手に取るようにわかった。
「あぁー」
今日も部室に彼女のうめき声がこだまして。
今日も描けない彼女は描こうと筆をとる、跳べない彼女は飛ぶためにジタバタと足掻き続ける。そうして、時折取り乱して泣きべそをかきながら不貞寝する。
「才能なんて微塵もないんだ」
ある日の帰り道、公園のベンチでそう呟いた彼女は力なく食べかけのアメリカンドックを地面に落とした。
そうして、うずくまるように座り込む。
私のは彼女の苦痛は分からなかった、私には彼女の苦悩は知りえなかった。
あぁ、それでもと、私はついくだらない感傷に流される。
痛みにまみれて、苦悩を強いられても手放せず、過去の自分に追い回されて血反吐を漏らすような思いをしてでも。
「だけど……だけど私は」
うなだれて、鼻をすすりながら、彼女は星屑みたいな涙を流す。
「描くしかないんだ。私には、これしかないから」
そうまでしても手放せないモノを持っている彼女がひどく羨ましくて、少し眩しい。
きっと、それは私には無いものだ。
きっと、その思いは私が随分と前に探し求めていたものだ。
六時の鐘が鳴り響く、どこかで子供の笑い声とバスケットボールがリングを揺らす音がする。
「そこまでわかってんなら、やるしかないんじゃないですか?」
少しばかり生意気に、それと少しばかりのカッコつけを織り交ぜてそう言うと、空白があって、その後に噎せるような彼女の笑い声があった。
「随分と簡単に言うな」
「まぁ、所詮は他人事ですから」
「薄情者め」
砂にまみれたアメリカンドッグを拾い上げ、ゴミ箱めがけてシュートした。
綺麗な弧を描いていたソレはゴール目前で薄ら寒い風に吹かれて的外れな方へ。軽い笑い声を背中で感じながら、私は恥ずかしくて頭をかいた。
「随分とまぁ、腕が鈍ったんじゃないか君も」
彼女がからかうようにいう。
「いや、きっと昔からこんなもんですよ。才能なんてカケラもなかったんです俺も」
そう言って笑う俺の顔は、ひどく自虐的な気がした。
「才能という言葉を、逃げ道に使うべきではないね、私も君も」
「えぇ、そうかもしれません」
頬に後のついた締まらない笑い顔でそういうと、彼女は静かに立ち上がり「帰るよ」と短く呟いた。
公園の出口に向かう彼女の背中を寒空の下でぼんやり見つめていると、彼女が振り返る。
「ありがとな」
去り際の、その消え入りそうな一言がやけに耳に残ったが、不快感はない。ただ、ほんのりと暖かくて、そうしてちょっぴり不安になる。今にも崩れてしまいそうなほど儚くて脆い彼女の背中が小さくなるまで見送った後、私も家路を急いだ。もう、すぐそこまで夜がきてる。
・・・
それからまた一ヶ月の時間が流れた、世間は少しばかり気の早いクリスマスムードで私は気が滅入る。
描けない彼女は、少しばかりかけるようになったのだが、まるで呪いのように唐突に描けなくなった。
流石に精神状態が危うくなり始め、私が少しばかり強く休むようにいうと渋々だが了承して一週間ほど絵を描かずに休むことになった。
「暇だ」
とは言え、暇である。
ここ最近はずっと先輩と放課後いたので急に休みになると何をすればいいのか分からなくなる。アニメを見たりドラマを見たり、ゲームをしたり音楽を聴いたりと色々試したがどれもさしてしっくりこない。
「あっ、そうだ」
私が突然閃く時は、たいていロクでもないことだとわかっていながら私は寒空の中自転車で街を駆け、時間と金銭を無駄に使い大量の絵の具とキャンバスを買った。
そこそこの金額に財布の中身が悲鳴をあげた、たまぁに日雇いを入れて基本的には親の小遣いで日々を過ごしている貧乏学生には十二分に致命傷だ。
絵の具を水で溶いてキャンバスの上に描き殴ったのは絵なんて言えないほどに粗末なもので、描き殴るだけ描き殴った私は飽きてほり投げるように筆を投げた。
カステラの件といい今回といい、私はどうしてこうも金をかけて自分自身を痛めつけるのが好きなのか甚だ疑問である。
服についた絵の具を落とそうと、濡れたティッシュで擦っても叩いても、落ちる気配は一向にない、部屋着だからよかったものの白いユニフォームは随分とまぁ見る影も無い。
「部屋の壁の絵の具、取れっかなぁ」
絵を描くというか筆を振り回すだけだったが、存外スッキリした。思い出したようにスマホを取り出して雑多で混沌としたキャンバスを撮って彼女に送りつける。そうして、寝転がって返信を待った。
「なーにしてんだろ」
喉からこぼれ落ちたのは疑問なのか後悔なのか、はたまたでかい独り言か。
なんで私は唐突に絵なんて描こうと思い立ったのか、答えはわかっていた。
私はきっと彼女の心情をかけらでも理解したくて、少しでも彼女という存在に近づきたくて筆をとったのだ。
まぁ、そんなことをしたところで理解もできなかったし、近づいた気もしない。むしろ遠のいた気さえする。
「はぁ……」
今の彼女を見ているのは正直辛い。壊れそうな彼女を見ているのは、まるで少しばかり前の自分を見ているようで足がすくむ。
それでも、投げ出さない彼女に少しばかりの嫉妬もある。私は早々に投げ出してしまったから、試合もボールも適当なところに投げ捨ててしまったから。
あぁ、本当に後悔ばかりの人生だ。
そうやってふて寝しようと目を瞑った瞬間、耳元でスマホが鳴った。彼女からの返信だろう。
『センスなし、やり直し」
なんともまぁ、初心者相手に手厳しい批評だなんて笑って入られたのも束の間。
「は……」
数枚の写真に私の意識は全部持って行かれた。
1枚目は無機質な天井、二枚目は足に巻かれたギブス、三枚目は病室と思わしきベッドの上で変顔自撮りする彼女の写真。
「はぁぁぁ!?」
そうして、まるで私をからかうように最後の一文が表示される。
『お見舞いは駅近のカステラ、一番高いのでよろしく』
何を呑気にこの女は……呆れ果てた十一月の夜だった。
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