第3話

「なぁ、君」

 お互い、そこそこ酔いが回ってきたあたりで、彼女が長かった沈黙を破った。

「今度はなんですか」

「どうせやりたいことなんてないんだろう?」

 彼女はいつも前振りがない、いつだって唐突だ。

「まぁ、そうですね」

「放課後もしばらく暇か?」

「天変地異が起きて部活にでも復帰しない限りはないですよ」

 私がそういうと、満足げにウンウン頷いて、私の頬をすごい力でつまんで捻る。

「いったっ! 痛い痛い! 何すんだいきなりアンタ!」

「絵のモデルやれ、君に決めた」

 どこぞのポケモン少年みたいなことを倒置法で言ってきやがった。

 爆弾発言すぎて痛みが一瞬消えるほどには強烈なその一言を言った本人はゲラゲラ笑っている。

「やりたいことも、やることもないんだろ? だったら手伝えよ、私の絵を」

「アンタはいつも唐突だ」

「それが私の美点とも言える」

「汚点の間違いだろ」

「いいのか私にそんなこと言って、お天道様が見てるぞ」

「今は夜ですよ、何したって自由の時間だ」

 私が屁理屈のようにそういうと、彼女は「それもそうだな」と頷いた。

「そんで、やるのか? それともやらんのか」

「俺のようなthe平凡人間モデルにしたところで何になるというのです」

「絵には君が凡人かそうでないかは関係ないよ、動くわけじゃない」

 彼女はそんなことを言って、一つ私の逃げ道を潰す。

 きっと詭弁を弄したところで彼女にはかなわない、自分を騙したところで彼女は騙せない。私にはそれが分かっていた、だから誤魔化さずに彼女の目を見て問いかける。

「何故、俺なのですか」

「理由は特にはない。もしかしたら君でなくてもいいのかもしれない」

「だったら……」

 そんな私の言葉を遮って彼女は続ける。

「でも、私は君を描きたいと思った」

 本気の目だった。

 いつもの誤魔化しもおちゃらけもない、本気の目だった。

 そんな彼女に当てられて、思わず私の呼吸が詰まる。私のようなオタマジャクシで良いのかと不安が湧いてくる。

「君でないと、ダメだと私は思うよ」

「何で……俺なのですか」

「君と私が似ているから」

 私が反論を口にする前に、彼女に遮られる。

「お互い自分の姿を見誤っているんだ」

 固唾を飲んで、その先の言葉を待った。

 血中のアルコールは蒸発したのか、体も頭も驚くほどに冷静な自分がここにいる。

「私は飛んでいたのではなく、跳んでいたに過ぎなかった。大海を知って、後悔を知って、私はそれを思い知った」

 そういって、もの悲しげに杯を傾ける彼女の横顔をただ呆然と眺める。

 私のような若輩では、当時の彼女の心境なんてわからないけど、ただ何となく彼女の気持ちは理解できるような気がした。

 その感情はきっと、ずっと前に私が抱いたものと似ている。

「君と私は似ている」

 俯いて自分に言い聞かせるように繰り返す。

 そうして、顔を上げると寂しそうな目で私を見る。

「君は跳べるんだ。なのに、君はそれに気づかないふりをしている。手足なんて随分と前に生え揃ってて、跳び方だって本当は覚えてる」

 責めるような口調とは裏腹に、悲しそうな声でそう言った。

 そうして自虐的な笑顔を浮かべて、唄うように言葉を紡ぐ。

「私は飛べると自分を過大評価した。君は跳べぬと自分を過小評価した。お互い、自分の姿が見えていないという点では我々はよく似ている、そうだろう?」

 何も言わなかった、なにも言おうと思わなかった。

 私は彼女から視線を外して、静かにアルコールの中に心を溶かすことに専念した。そうでもしなければ、私は今にでもこの場所から逃げ出してしまいそうだったし、そうでもしなけば私はきっと自分自身を見失ってしまう。

「……君も私も難儀な生き物だな」

「えぇ、そうですね」

 静かに時間だけが流れる、沈黙がこの場を離れる気配はなかった。

「帰ります」

 そう告げて立ち上がる。

 アルコールで高揚していたとは思えないほどに足取りは確かだ。

 あれほど暑かった肌は、冷えた缶ビールみたいに冷たい。

「気をつけて帰りなよ」

「お邪魔しました」

 普通の靴に成り果てたバッシュの先端を玄関に叩きつけて準備している様子を、彼女は何も言わずに見守っている。その視線が驚くぐらいに優しくて、私は自分の内側を見透かされてる気分になって背中の毛がぞわぞわした。

 玄関のノブに手をかけて外に出ると、身震いするような風が吹く。まだ9月だというのに、この寒さは少し異常だ。

「じゃーね」

 軽い調子で手を振る彼女と、久しぶりに視線を合わせる。

「どうした?」

 冷気を肺いっぱいに取り込んで、私は震えた声で静かに呟いた。

「絵のモデル、俺でいいならやりますよ」

 やはりアルコールが抜けきっていないみたいだ、顔が暑くて仕方ない、きっと頬は赤く染まっているだろう。

 それはそうと、沈黙が痛いので早く彼女には答えが欲しい、先ほどから能面でも貼り付けてるのかと疑うぐらいに表情が変わらない。

 はっ! これはもしや『やーい騙されたぁ』とか言われるパターンでは? 酒の勢いで放った冗談を私が間に受けてしまったとかいう痛々しいやつなのか……?

「頼むからなんか言ってください」

「あぁ、ごめん。予想外すぎて面食らってた」

 そう言うといつものような無邪気な笑顔で笑いながら、彼女は私の手を取った。

「では、明日からよろしく頼むよ奴隷一号」

「誰が奴隷一号だ!」


・・・


彼女に今度こそ別れを告げて、私は静まり返った夜の街に躍り出た。

煌めいていたはずの街の風景は驚く程に薄暗く、最低限の街灯と月の灯りだけが私の足元を照らしていた。

脈を打つ鼓動が酷く熱い、吐き出した息は不意に吹いた風に攫われて何処かに消えた。

彼女の言葉に、納得した訳では無い。私の積み上げてきた暗いなにかが晴れたわけでもない。

彼女の見せた優しい微笑みなんかで、私の価値観が変わるなんてアホらしいことは決してない。

あぁ、だけど。

それでも。

「ははっ」

まるで魔法でもかけられたみたいに、踏み出す足取りは軽やかで、手で押す自転車は空気みたいに重さを感じない。

あぁ、本当に単純な生き物なんだなぁなんて、呆れ混じりの自嘲を吐き出しながら、私は夜の闇に紛れて家路を急いだ。


・・・


彼が帰って少しして、私はグラスに入った温い酒を一息に飲み干した。

ベランダに裸足で飛び出して、もう何本目かも分からない煙草に火をつけた。肺を侵食する煙が身体を少しばかり軽くすると、比例するように私の心は重くなる。

きっと優しい彼のことだから、断らないのはしっていた、打算的な自分が嫌になる。


「跳び方か」


私は覚えているだろうか、もう長いこと跳べていない。

彼は過去に恐怖して、私は未来を恐れている。だからお互い、居心地のいい今日に縋り付く。

自分自身が追いかけてくる、描けない私を私の描いた物が追い詰める。

「天才なんかじゃ……ないんだよ私は」

足取り軽やかに夜道を進む小さな彼を見送りながら、聞こえないのを知っていて言葉を吐いた、聞かせる気がないのも知っていた。

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