第2話

 巨大なカステラを自室で丁寧に切り分けながら、私は買ってきた安いインスタントの豆でコーヒーを淹れた。

 以前読んだ小説で巨大なカステラを一人で食べるのは孤独の極致だと言っていたのを不意に思い出して、どうしてもそれを実践したくなったのだ。そんなこんなで私は帰り道に駅近で高い金を払ってカステラを購入した。

 そしていざこれを試してみると、予想の十倍は孤独感が凄まじい、全然楽しくない。安くて不味い泥水みたいなコーヒーのえぐみがより際立つ。

 これほどの量も質もいいカステラは確かに誰かと味わいたいし、欲を言えばうまいコーヒーが飲みたい。というか、なぜ私は高い金を払ってこんなマゾヒスティックな遊びに耽っているのだろうか? 

 疑問が泡のようにポコポコ湧いて止まらない、どうやら私のような手足もろくに生えそろっていないオタマジャクシにはこのような遊びは早かったようである。


 三分の一ほどに切り分けたカステラをせっせとタッパーに詰めてリュックに放り込み、私は彼女の家に向かうべく自転車に飛び乗った。

『自分自身が追いかけてくる』

 その言葉が脳内で響いて、私は少し立ち止まる。もしかすると、彼女はナイーブになっているのかもしれない、そんな時に行っていいのだろうか。

「……」

 1分ほど考えて、私はペダルを踏み込んだ。

「そんなこと、俺の知ったことではない」


・・・


「というわけなんです」

「どういうわけだ」

 時計の針が大体てっぺんに登りそうな夜遅くに私は彼女の家で美味しいコーヒーに舌鼓を打っていた。

 プリプリと文句を言いながらも、私を家に招き入れた彼女は焼かれるお餅のようにぷすぷすと小言を並べながら、わざわざサイフォンでコーヒーを淹れてくれた。

「深夜に女性の家に押しかけてくるとはどういう了見だ」

「先輩のご両親、今日いないんでしょ? 俺もちょうど一人でカステラを食べるというマゾヒスティックな行為で寂しさを感じていたのでちょうどいいかと」

「何一つよくないし、何を思っていいと思ったのかも知りたくない」

 そう言って呆れたように笑いながらタバコの煙を網戸の向こうに吐き出した。

 私が顔をしかめるとケラケラ笑いながら「見逃してくれ、精神安定剤みたいなもんなんだ」とつぶやく。

「顔をしかめているが、君だって酒は飲むだろう」

「俺のは嗜む程度です。貴女みたいに、その年で便器と仲良しお友達な人間に責め立てられる筋合いはない」

「冷たいなぁ君は、同じ穴の狢じゃないか我々は」

 私はカステラを切る手を止めて、態とらしく口をへの字に曲げながら反論する。

「俺はオタマジャクシで貴女は蛙だ、この違いは大きい」

 生物学的にも……と続けようとしたが、生物学がなんたるか私は知らないので口をつぐんだ。

「違うよ。君は自分のことをオタマジャクシだと思っている蛙だ」

 煙草の先を私に向ける。

「そうして私は自分の事を鷹だと思っていた蛙だ」

 向けた煙草を咥え直して、彼女は紫煙を吐き出しながら薄く笑う。そこに違いはないだろうと言って、とても挑発的に。

 その笑顔がどうにも気に食わなくて、だが言い返す言葉は持ち合わせていなくて、私はんだか悔しくなって目の前のカステラを両手で掴んで口の中に押し込んだ。

「品がないぜ」

 彼女が笑う。

「何を今更」

 私のような未熟者に品性を求めること自体が間違いだ……そう彼女に言ったが、彼女は私の戯言なんか無視をしてキッチンの方に引っ込んだ。

「何をなさるおつもりで?」

 キッチンに向かって私が叫ぶと、彼女は器用にもペットボトルの水と並々入ったウイスキーの瓶、綺麗な柄のグラスを両手に持って口にはマドラーを咥えていた。

「俺は自転車なんですが」

「押して帰るか泊まっていくか、好き方を選ぶといい。ちょうどいいことに、今日私の両親はいないんだ」

 ぶっきらぼうにそう言いながら、彼女は再びキッチンに戻って氷の袋を持ってくる。何故だろうか、女性からのお泊りのお誘いなのに、微塵もときめかない。

「君、口元が笑っているぞ」

 獲物を見つけた獣のような悪魔じみた笑顔で指摘されて、思わず口元を反射的に隠した。

「まぁ、飲め飲め」

綺麗なグラスの大半を水が占領していく、そうして上澄みの方にマドラーで這わせたウイスキーを注ぐ。俗に言うウイスキーフロートとかいうやつだ。

「飲んで忘れてしまえ」

最初の一滴が喉の底に落ちるのと、私の思考が停止したのは、全く同じタイミングであった。

忘れたい過去なんてないし、忘れていいことなんて私には無い。

そんな詭弁を垂れ流すくせに、私は一体幾つのことを大切な感傷や感情を吐瀉物と一緒に便器に吐き出してきたのだろうか。

それでも、私は言う。

「忘れていいことなんて、一つだってないですよ」

私は静かに、自分を騙す。

「そうかい? 私は忘れてしまいたいことばかりだよ」

気だるげにそう言って、彼女は換気扇のスイッチを押し、2本目の煙草に火をつける。

左手にはアルコール、右手には煙草、そして猫のように大きな双眸は逃がさないとでも言うように鋭く私を捉えている。

「君は忘れているだろう?」

「忘れないと生きていけないこともある」

「ふふっ、君は相変わらず矛盾だらけだ」

輪っかの煙を作って吐き出しては、彼女は楽しそうに笑う。

私は逃げるように酒の入ったグラスを動かして、妖しく光る月をアルコールの水面に移して遊ぶ。

「忘れていいことなんて、一つだってないけれど」

静かに呟く。

「俺も貴女も、忘れなければ生きていけない人間だ」

「だから……だから君は跳び方も忘れてしまったのか?」

かもしれない、そう思った。

「初めから跳べませんよ。俺は」

だから、酷く自嘲的な笑みで醜い言い訳を口にした。

「誰だって、初めは跳べないよ」

まるで、赤子をあやすみたいな彼女の声音がどうにもむず痒くて、気を逸らすように私はアルコールに映った月を一息に飲み干す。

「それに、君は跳ぼうとしないだけだろう。跳べないわけじゃない、その点だけは私が胸を張って保証してやる」

「どうやって、その無い胸を張るというのです」

「どうやら命がおしくないようだな」

そう呟いて、短く笑うと彼女は静かに息をした。

「もし、君が本当に跳び方を忘れてしまったというのなら」

いつか見たような優しい微笑みで彼女は言う。

「その時は、跳び方を手取り足取り教えてあげよう。運動は苦手なんだけどね」

 その様に、思わず私は魅入られる。

 あんまりにも彼女が優し声音でそういうものだから、私は面食らって動けなくなる。

「どうした、そんな鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔して」

「いいえ、なんでもないですよ」

 危うく恋にでも落ちてしまうところだった、顔だけはいいのだから不用意な行為はやめてほしい。

 私は継ぎ足したアルコールを流し込んだ。

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