frog jumper
檜木 海月
第1話
『井の中の蛙大海を知らず』
私がこの諺を知ってから身を以てソレを実感するのに、そう莫大な時間は掛からなかったことをなんとなくだが記憶している。
結局のところ蛙の子は蛙以外の何物にもなれない、大海に向かった「凡人」と言う名の蛙はいとも容易く「天才」と言う名の鷹やトンビのお手軽な餌となる悲しき定めが待っている。
それが嫌ならば井の中で「俺は天才だ」と自分に言い聞かせプライド保って傲慢に暮らすか、隅の方で老いた室内犬のようにプルプルと震えて生きるしか道はない。
そしてかく言う私は蛙にもなれない可愛い可愛いオタマジャクシのままである。
・・・
ぼんやりと目を開いて、私はそれが夢だと自覚した。
体育館の木目の床が近い、遠くの方で雷みたいにホイッスルが鳴る。
左肩から左手にかけて、もう何度繰り返したのかも分からない鈍い痛みがこびりついて離れない。
私は仰向けに寝転がり、窓から差し込む太陽の光を浴びながら耳を澄ませて予定調和のようにコチラに駆け寄ってくるチームメイト達の足音を感じる。そして、何度目かも分からない溜息と嘲笑を繰り出した。
未だ何度も夢を見る、私はこの悪夢を見続ける。
忘れもしない、忘れられない、私はこの大会で大海を知ったのだ
・・・
夢から覚めたそこは、少しばかり夏の熱量が残る放課後の教室だった。首筋にべったりとこびりついた嫌な汗をぬぐいつつ、癖のように左肩を回して痛まないのを確認した。
教室には私一人だ、すでに人影は一つもない。いそいそと家路を急いだもの、まだ暑いというのに脳細胞を虐殺しながら部活動に励むもの。そんな彼らのおかげで私の数少ない癒しの場である幸せな微睡みの時間は快適そのものだった。
私というオタマジャクシは謙虚で心優しく、それでいて飴細工のように繊細な生き物であるから些細なことで気を揉みストレスがたまるのだ、この数少ない楽しみを妨害されては堪らない、私のこの愛くるしいベイビーフェイスも真っ赤に染まる。
先にも長々と述べたが、私は大変繊細な生き物である、だから些か忙しない現代社会の荒波に飲まれれば疲れてしまう。というか私はオタマジャクシなので海水では生きられない、海水を泳ぐオタマジャクシもいると言う噂だが知ったことではない。
なんて一銭のたしにもならない戯言をこねくり回して、掛けていたカバンを脇にかけ、私は居心地のいい教室を後にした。
ゆるりと校内を闊歩して野球部の発情期の猿みたいな叫びが聞こえなくなる特別等二階の一番端、空き教室の扉をいつものように叩いた。
「いいよ」
入室の許可を得て、私はできるだけ物音を立てないように扉を開けて室内に足を踏み入れる。
デジタルなこのご時世に、未だに大きなキャンバスに絵の具と筆で向かい合う女子生徒の姿が目に入る。
猫のような大きな目に、着崩した制服、無秩序に跳ねた髪、そして大型の猛禽類みたいな彼女特有の威圧感。
「よう、今日は何しに来たの」
「いつもと同じですよ、暇つぶしに」
「そう」
彼女は短くそういうと、私に興味をなくしたのかすぐにキャンバスに向き直った。そんな彼女の横顔をチラチラ見ながら、ソファに寝転がりページの進まない文庫本を片手で弄ぶ。
彼女は私の先輩である。
そして、彼女はどうやら私が生まれて初めて目にする、本物の「天才」というやつらしかった。
私が立ったまま眠るすべを習得した全校集会でも度々壇上で表彰を受けてたし、飯を食べながらぼんやりと見てたローカル番組でも数回見かけたことがある、そして彼女を取り巻くこの小さな世界の人間達は口々に彼女をこう褒め称えた『天才だ』と。
私には絵がわからない、わかる気もない。彼女が描く絵が抽象画なのか風景画なのか油絵なのか、はたまたアクリル画なのか、それすらも知り得ない。
私に分かるのは彼女が「天才」であるということだけで、私には今の所それで十分だった。
私のような凡人にすらなり得ないオタマジャクシが彼女のような天才とこうして話すのには一つばかりの理由があった。私は彼女に問いかけたいことがある。
だから、私は彼女に初めてあった時に痛々しい問いかけをいきなり豪速球で投げつけた。
「価値のない人間って、いると思いますか?」
そんなくだらない問いを投げた私を、彼女は笑うでもなく引くでもなく、数十秒まじまじと眺めて満面の笑みで笑いながら言った。
「その答えを、私は持っていないが、見つける手伝いぐらいならばできるかもしれない」
そういうと、呆気にとられる私に手を差し伸べながら言う。
「暇な時、特別等二階の端の教室に来るといい。私は基本いつもそこにいるよ」
そして、その言葉を真に受けた私は一年生の冬からこの教室の顔を出す生活を送り始めた。
彼女はひたすらに絵を描く。
彼女はがむしゃらに絵を描く。
描いて描いて描いて描いて描いて、そうして途中で筆を折る。
気が乗らなかったら昼寝して、たまに私と駄弁って笑う。
しょっちゅう身体に悪そうな甘ったるいカフェオレを飲んで、塩辛そうな煎餅の袋を抱えてムシャムシャ頬張る。
そんな彼女の姿を特等席でぼんやりと眺めていたオタマジャクシにはいくつか気がついたことがあった。
彼女はどうやら、いつの間にか絵が描けなくなっているらしいこと、最近眠れなくなっているらしいこと。
そして、彼女はどうやら鷹やトンビではなく、大海を知って心が折れた私と同じ一匹の蛙であること。
描けない彼女は今日も狂ったように、縋るように筆を持ってキャンバスに向かう。その狂気にもにた何かは私には到底理解の及ばないものであることがよく分かる、目的もなくただ生きている私には一生かかっても理解できぬものだろう。
天才という人種が見る世界が知りたくて足を運んでいた私の目的はいつの間にか、彼女の行動観察に切り替わっていた、まるでドキュメンタリー映画でも見てる気分だ。
「今日はやーめた」
めんどくさそうに彼女が言って、私にソファから降りろと指で命令する。しぶしぶそれに従ってソファから降りてパイプ椅子に移動すると、彼女は先ほどまで私がいたソファに勢いよくダイブ。
「見つかったかね」
ソファからやけに篭った声が響く。
「何がですか」
「君の人生の命題というやつだ」
「そんなご大層なものでもないですよ」
唐突に言われ少しばかり困惑したが、私は事も無げにそう答えた。実際、そんな大仰なものじゃないのだ。こんな感傷は中二病の延長線であり、この答えが見つかったからと言って私がスーパーパワーに目覚めるわけでもないのだから、こんなもんはただの暇つぶしに過ぎない。
そうやって長々と言い訳じみたことを言う私を、魂の抜けたような顔で見ながら彼女はため息を吐く。
描けない彼女は結局今日も描かずに終わる、描けずに終わる。
大海を知ってしまった一匹の蛙は、己の虚しさを胸に抱えて井戸の中でプルプルと震えて眠る。
「自分自身が追いかけてくる」
ポツリと吐き出した彼女の本音に、くれてやる言葉などオタマジャクシの私には持ち合わせがなかった
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