そして僕らは空を知る
1981年(昭和56年)4月16日
北海道空知郡 幾春別
「――はぁっ!」
息を大きく吸い込んで目が覚める。
手元には硬い座席の感触。汽車の中で寝ていたみたいだ。
ふと窓際から、駅名の看板が見えた。
______
衝動的に窓から飛び出した。
降り立つプラットホームには、大霊樹がそびえている。
「……!」
硬直した。声も出なかった。
そこに腰掛けている少女の姿が見えたから。
「あなた、だれ?」
「ぇ――…。」
あの時と全く変わらない君は、そう言った。
「わからないの、ぼくのこと」
「そもそも私が見える人間ってのも、驚きだけれどね」
君は苦笑した。その瞳は、本当にだれも知らないようで。
「――そっか。」
今度はぼくが唇を噛む番だ。
そうか。君は、これを何度も、繰り返していたのか。
ぼくはこうして君を何度も忘れて。
苦しいだろう。辛いだろう。
二人紡いだはずの思い出に、ひとりぼっちで閉じ込められてしまうのは――あまりに残酷だ。
「落ち着いて聞いて。今日、事故が起こるんだ。」
「……どういう意味?」
少女は首を傾げる。
「直下型の炭鉱事故で、この町は崩壊する」
「はぁ、きみ、なに言ってるの」
ため息をついて、少女は興味を失ったように目をそらす。
「嘘じゃ」
ドカァン!!!
ぼくの言葉は遮られた。
向こうに見える大立坑が――爆炎を、吹き上げた。
「……えっ」
少女は絶句した。
拳を握りしめる。始まったか。
「……始まった」
「なんで、あなた」
掠れた声で少女は問う。
「このまま放っておけば、この町の直下の石炭地層がまるごと全部燃え尽きる。そうしてできた地中の大空洞にガスが溜まって、ちょうど来月、この日に引火。」
この町は、永遠に瓦礫に閉ざされることになる。
そう言った。
「……にわかには、信じられない」
「平成34年の世界には…この町は、ないんだ」
少女はおそるおそる、ぼくへ訊く。
「このあたりは、どうなるの」
「あの三笠山も含めてヤマの大部分が崩壊する。露出した断面から…新しい鉱脈が出て、露天掘りの鉱業が続けられる。この町の瓦礫の上に、ね」
「この黒煙は、続くんだ…?」
少女は見上げる。
今日もまた、黒く
「今までの坑道掘りじゃ採算が取れなくなる時代がやってきて、他の炭鉱はほとんど潰れる。でも……露天掘りのここだけは、日本最後の
「
「うん。屍の上に糧を紡ぐ、業深い街。――ぼくの故郷だよ。」
少女はかける言葉もないらしく、ただただ呆然とする。
「だから、鎮火しなきゃいけないんだ」
ぼくの言葉に、辛うじて少女は声を絞る。
「鎮火…って、どうやって」
「注水。」
昭和56年4月16日。
あの幾つ重ねた、残酷な春の記憶と違わない。
大丈夫、坑内には顔見知りも多い。やってのけられるはずだ。
「注水って……」
なんどか反芻して、少女はその意味をやっと呑み込む。
「ほんとにやるつもり?この鉱山は、もう二度と使えなくなるよ?」
「知ってる。水に沈んだ坑道を復旧させるのは不可能だよ。」
「だったら、なんで。石炭が死んだら、この町も、きみの故郷も、全部なくなるんだよ。」
「うん」
「たとえこの街が崩壊しても、石炭は死なない。だって、崩壊した跡に新しい鉱床が露出して、露天掘りできるようになるんでしょ。」
だけど石炭自体が掘れなければ、この町は意義を失う――少女はそう言った。
悲鳴。爆音。
『 幌 内 』、そう掲げられた大立坑は燃えている。
そうだ。これは、全国の重い期待をかけられて、日本の石炭の存亡をかけて、作り上げられた炭鉱。それを、潰さなきゃいけない。
この町が崩壊災害に遭わなければ、あの鉱床も露出はしない。
石炭の掘れなくなったこの街は、見捨てられるだけだ。
「わかってるの?」
君は鋭く視線を投げかける。
それはね、と一息。
「北海道を――殺すことだよ。」
わかってる。
あの炭の街とともに育ったぼくが言うんだ。何よりも知っている。
産業、雇用、なにもかも。この北の大地もまた、石炭で動いているということを。
「やるしかないよ」
でも。そうだとわかっていても退けない。
他でもない君に頼まれたのだから。
「ねぇ、あなたには本当に…その覚悟があるの?」
「……う、ん」
「石炭と鉄鋼で繁栄したこの大地を、大自然の原野に還す。その覚悟が。」
目をそらしてしまう。
「私だって、ホントはこんなこと聞きたくないよ」
「……」
「でも、きみがやろうとしてることはそれほどのことなんだ。」
ひらり、空から煤が舞い降りて。
「――君には、あるの?」
君は、意を決したように問う。
「「道民620万の運命を背負う覚悟が。」」
坑内。
ガス濃度は危険域。
受話器から、彼の面影ある声が届く。
坑内に入って5時間。できるだけ救出を手伝った。
でも、これ以上の救命は不可能だ。
「誰かがやらなきゃ、この春は終わりません」
意は決していた。
「……春、だと?」
「地底の下に折り重なった瓦礫の中に、迎えられなかった次の季節ごと穴埋めに、ずっと、ずっと、記憶の中の春をめぐらし続ける。それは――あんまりです。」
「だからといって…まだ安否不明者がいるというのに、その上から水を注げと?」
「これより下はガスが濃すぎて生存はほぼ絶望的です」
ここでさえ息は苦しい。このまま留まれば、ぼくは五分も
「あのな、坊主。絶望的とて、遺体が回収されていない以上…まだ、生きているんだ」
少なくともそういう扱いだと、彼は言う。あの気さくさと表裏一体の、生真面目さだった。
「
「……せめて、空気の遮断ではだめなのか」
「鎮火には弱すぎます」
「さりとて、水を入れたら二度と坑道は使えん。石炭は……北海道は、死ぬ。」
「これじゃ堂々巡りですね」
ぼくは息を吸い込んで、吐く。
「いま数十人を沈めますか。それとも、町ごと数千人を沈めますか。」
これは禁忌の言葉だと、わかっていながら。
「最高責任者のあなたに――決断を仰ぎます」
連れ出さなきゃいけない。
あの春が二度と訪れないように、終わらせるんだ。
安楽死させなきゃ、この春を。
この街を。
北海道を。
「……その言い方は、ずるいだろう」
「ぼくもできる限りの責任は取ります」
「坊主が?」
はい、とぼくは返す。
「内側で、排水口を塞ぐ人間が、一人は必要でしょう」
「っ!」
そうだ。地下の緊急排水口を誰かが塞がねば、せっかくの注水も川へただ流れ出てしまう。
「坊主――!」
「お願いします。注水をはじめて下さい」
ガチャ、と通話機を切った。
大深度、地下3200メートル。もう助かるすべもなかろう。
「これ以上の放置は、炭山全体への延焼を招きかねません」
地上。救出劇の終わりを告げるべく、かの老人――初老の男は立っていた。
「59名の安否、まだ不明なんだろう!」
「まだ夫が坑内にいるんです!」
説明を求めて詰めかけた、これから遺族になる人々の前に立っていた。
「どうか…この町を守るためにも。どうか……ご理解、頂きたいのです」
絞り出す声は自責を帯びて、彼を蝕む。
「命を、寄越せというのか!?」
彼らの悲痛な声に、胸を掻きむしられる想いで。
なお、それ以上の悲劇へと拡大しないように。
街を守るために。終止符を打つために。彼は息を吸い込む。
「お命――頂戴いたします」
決然と、言い切った。
1981年4月25日、正午。
空知の全域でサイレンが鳴り響いた。
「黙祷――。」
炭夫の家族たちの嗚咽。
炭の上に築き上げられた帝国の啼哭。
慟哭のサイレンが、幾春別の地に響き渡る。
「注水、開始」
ポンプが唸りを上げる。
清流が滴る。そして、一つの季節がやっと。
終わる。
此処は大深度、3200メートル。
「水が、……水が、来た」
岩盤の狭間からちょろちょろと流れていたのが、どんどんと勢いを増す。
気づけばもう、濁流に呑まれていた。
「あぁ――懐かしいな、なんだろう。この感じ」
揺蕩う右腕に、なにかの感触を覚えた。
『ねぇ。』
誰かの声。
『ありがとう。』
誰だろう。
どこか、安らぐような心地だ。
『咲いたよ。綺麗に』
見知った色の花弁が漂う。
それを認めた瞬間、力が緩んだ。
「あぁ……よかったな。」
安堵とともに意識が遠のく。
耳元で唸る水音も、もう気にならなかった。
あの日。
春の去った日。
六十の命と大火を沈めた濁流は、止まることなく坑道に満ち――。
あれから40年がたった今も、
◇
『北炭幌内新炭鉱ガス突出事故』- Wikidedia
1981年4月16日、
この注水処置は世論の非難を浴びた一方、これが地層への延焼を防ぎ、地上の崩壊を阻止したという再評価も、近年なされつつある。
この事故で、北海道を支えた石炭産業はとどめを刺され、北海道は急速な衰退に直面することとなった。かつては全国随一の工業地帯であった空知の人口も、3分の1に減少した。
◇
2022年(令和4年) 5月
北海道三笠市 幾春別
呆然と、日差しの中に立ち尽くしている。
「たしか……ここだよな」
記憶を頼りにたどり着いた、その場所には――"旧幌内線 幾春別駅跡"――それっぽっちの小さな石碑が、風に吹かれていた。
あたりを見回す。
ここあったはずの駅舎はない。たくさんの貨車が行き交っていた面影はどこへやら。雑草に呑まれ果てた更地が、どこまでも広がっている。
「なくなった、のか」
まだプラットホームの端だけは残っているようだった。
いや――違う。これは、あの木の一部か。
「……ぁ」
そこだけ。
そこだけが、目に焼き付けたあの景色と寸分たがわない。
剥がれ落ちたコンクリートの乗降場を貫いて、空へと聳える大樹があった。
「うわぁーっ、広い!大自然だねぇ…!」
ふと、そんな声が届く。
「空気もうまい、さすがは北海道!」
遠くで、軽装の若い男女が二人、スマホを構えて写真を撮っていた。
「……?」
どうしようもない違和感を抱いて、息を吸う。
吸って、吐いて、そして空を仰いだ。
「……っ」
そうしてぼくは見たのだ。
すがすがしいまでの碧空を。
「うわぁ……!」
思わずそんな声が漏れてしまう。
雲ひとつない、高く、遠く、どこまでも広がる空。
「あぁ」
違和感の正体が晴れる。
こんなに綺麗じゃなかった。
煙っていた。重連の石炭車がひっきりなしに線路を行き交い、鉄道員の怒号が終夜止まぬ広大な構内は、ひたすらに鉄臭かった。
降りしきる煤の雨も。轟々と唸りを立てて巻き上がるワイヤーも、きらめく眩い立坑の採障灯も、粗末な駅前の雑踏の喧騒も。
全部ないんだ。
ハルニレの大霊樹聳える、この原野には。
「そっか……これが、北海道か。」
かつて、石炭と鉄鋼で名を馳せた北の大地。
それが、原野と農地に置き換わるまでたったの半世紀。
戦後80年、列島を巻き込む高度経済成長という工業化のスパイラルの中で、この広大な島だけは驚くべきことに、工業から農業へ巻き戻ったのだ。
黒煙の下で、煌々と灯りをともす街。ほのかに残る、そんな感触が零れ落ちる。
そこには、記憶と程遠い、原野に呑まれたあの町があった。
「知らない場所になっちゃったな」
夜になって空へ黒が戻ったとしても、あの景色は見れないだろう。ただひたすらの暗闇がきっと――そう、人々という血を失った――黒い死体が横たわる。
3人に2人は、空知を去ったのだ。
『変えちゃったね』
どこからか、そんな言葉が降ってくる。
「うん。それが、ぼくたちの望んだことだから」
蝉時雨。
大霊樹の若鶯の新芽は、さながら薔薇のように
その
このハルニレは、無情にも無常だ。
樹齢600年。ここがアイヌの聖地であった頃から、この地を見守ってきた。
人が踏み入り、線路が敷かれ、黒煙に灯り。栄華を謳い、夢は散って。そしてまた原野へ還るこの街を見つめながら――なお大霊樹は、この地へ、悠久に立ち続ける。
「あぁ…そっか。ずっと、そこにいたんだね」
大霊樹の下で、ぼくは峯風に吹かれる。
『うん。ずっと、ずっと。待ち続けたよ。』
「たくさん話したいことがあるな」
『大丈夫だよ。時間はたっぷりあるから』
それから二人で仰ぐ。
立ち上る黒煙消えた空。清々しいまでに、知るのだ。
「ああ――空はこんなに、青いのか」
北海道空知、幾春別。
蒼く、高く。どこまでも澄み渡る空に、在りし日の炭都の面影はどこにもない。
『ねぇ』
「なに?」
言いかけて、少女は口を噤む。
もう焦る必要はないのだ。
『いや』
少女は笑った。
「もうしばらくはさ、この空を眺めていよっか。」
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