第2話
その日は、補習があって学校に居残ったんだったか。
19時9分の列車を逃した、ある夜のことだった。
『お待たせいたしました。21時48分発。
3時間、ふきっさらしに佇んで、身体は冷え切っていた。
縋るように座席に飛び込んで、そのまま薄れる意識に身体を委ねる。
『最終。
車掌の声を最後に、揺れる列車の中で深い眠りに落ちた。
◇
大樹の下に立っていた。
見上げると、枝にちょこんと少女が座っていた。
「やぁ。昨夜ぶりだね」
少女はぼくへ会釈する。
「……誰?」
ふわりとした山吹色の袴。ほのかに
「そっか」
ちょっとだけため息をついて、少女はぼくの隣へ飛び降りる。
なにか言いよどんで、そこでふと思いついたように彼女は顔を上げた。
「うん、いつもとはやり方を変えてみよう」
「?」
首を傾げるぼくに、少女は誘う。
「ね、ちょっとだけ遠くにいってみようよ」
______
汽車は小さな駅を発つ。
それから、少女といろんなところを旅した。
空知にある
とある日は、大きな都市に行って。
別の日には、一日中ホームに腰掛けて他愛もなく過ごした。
そのうちの、ほんのなんでもない、ふとした帰り道だった。
少女と肩を寄せ合って微睡む。
ガタン、と汽車が揺れた。
二重になって揺れたようで、それは。
―――『
ガタン。
現実世界で、夢の中で。
同じ場所を、同じ汽車が、同じ速度で差し掛かった。
2つの世界が一瞬重なる。
びゅう、と一陣の烈風に舞い上げられた記憶は、春一番に載って、ぼくのもとへ。
「あ……。」
流れ込んでくる。
記憶の濁流が押し寄せる。
「ねぇ」
君がホームに腰掛けている。
ぼくは貨車を眺めている。
君が商店街を歩いている。
君に手を引かれて駆けている。
君が神社の石段を上っている。
君と手を繋いでいる。
君と立坑櫓に登った夜。
見下ろす幾春別の街の煌めき。
「ぼくは」
崩れ行く世界。
訪れる終末と、微笑む君の影。
「?」
「ぜんぶ、全部思い出した」
見える。視えなかったのが嘘みたいに、わかる。
こんな大切なものを、何度も、何度も捨てていたなんて。
「それって……?」
「知ってる。君のこと。ずっと前から」
君は目をぱちくりさせて、おそるおそるこう訊いた。
「今回は、まだ教えてなかったはずだけど……この髪飾り、何かわかる?」
「アカダモ。小さな赤い花が咲いて、散って――それから開く、本当の花。」
「……っ!」
君はぼくの手をとった。
「わかるの!?私のこと!」
「わかるよ、君と繰り返した何十の春、ぜんぶわかる!」
途端に君は、朱鞠の瞳に大粒の涙をたたえた。
耐えられなくなって、ぼくも君を抱きしめた。
幾春別へひた走る、ガラガラの単行列車。
その一隅で、ふたりの少年少女は泣きじゃくっていた。幾つ春に出逢い、別れ、違えてきたのだろう。
一陣の奇跡が少年少女をめぐり逢わせるまで、この季節を、幾つ繰り返したのだろう。でも。
「見つけてくれて――ありがとう。」
幾重にも同じ春を巡って、ようやくぼくは、君を取り戻した。
◆
◇
目をこする。
「んぇ…?」
まだぼぅっとしている視界を頼りに、漠然と探る。
どうやら、汽車の中にいるようだ。あぁ、そうか、昨晩は汽車で寝過ごしたな。誰も起こしてくれなかったんだろう。
「あ……れ?」
やがて意識が覚醒してくると、気づく。ぼくは目覚めている。
あの世界の崩壊を経由せずに、こちらの世界へ戻っている。
春のまだ途中に、ぼくはこの世界へ連れ戻されたのだ。
「なんで……っ?!」
慌てて汽車の窓から顔を出すと、朝日に目がくらんだ。
エゾヒヨドリが囀り、幾春別川のせせらぎが聞こえる。
静やかな、炭都の朝だ。
「いく…しゅんべつ」
駅の看板。川の名前。
聞いたことがある。はっきりと、この耳にしたことがある。
「幾春別!ずっと、君といた場所だ!」
知っている街。春の姿しか知らない街。
ふたつの世界の記憶がリンクする。
「なら――、きっと、ここに!」
おもわず汽車から駆け出す。
記憶に根ざす、あの大樹を目指して。
このプラットホームの先に聳える、アカダモのもとへ。
そして幾春別駅のホームに立ったぼくは、硬直する。
「――ない。」
ない。
アカダモが、ない。
ないのはあの大樹だけじゃない。
プラットホームの半分より向こう側には、なにもない。
「なんだよ……これ」
文字通り、崩落していた。
ここより向こう側、アカダモを含めて、まるごと街が消えていた。
隕石でも落ちた跡みたいな、大きな、大きな崩壊の爪痕が、瓦礫になって、崖の下に鬱積していた。
「なんで、なんで…?!」
ばくばくと打ち鳴る心臓を押さえつけて、大急ぎで汽車に戻る。
少女と抱き合った座席には、萌葱色の薔薇が一輪、残っていた。
「っ……!」
それを大切に胸元に入れて、走り出す。
「珍しいな、こんな朝に。」
再びプラットホームに降りてすぐ、声をかけられた。
声の主は、猫にリードをつけた不思議な老人だった。
「見慣れぬ顔じゃ、旅人かね?」
「ご存知ですか、あの崩落について何か。」
挨拶より先に口をついて出たのは、そのことだった。
尋ねると、老人はスッと目を背ける。
「……それを、聞くか」
「知りたいんです。この街のもう半分があった頃のことを。」
「きたまえ」
老人は深い眼差しでぼくを手招きした。
「知らんとする者に教える責務が、儂にはある」
◆
「入りたまえ」
「いいんですか?でも、まだ」
10時開館という文字を見定めて、ぼくは躊躇う。
「構わん。ここの管理人は儂だ」
そういうと、老人は懐から鍵を取り出して、正面玄関の扉を開ける。
中はいたって普通の、小さな資料館といった風だった。
『崩壊に巻き込まれた3,491名の尊い命へ捧ぐ』
エントランスには、そんな懺悔が
「この町はな、日本の資源庫と言われておった。」
「資源、ですか」
「石炭。明治の時代、この北の大地は石炭を目当てに開拓が始まった」
老人は語る。
「初めての炭鉱は、ここ、幾春別に開かれた。」
「ぇ……」
「東京-横浜、大阪-京都に続いて三番目の鉄道が敷かれた。ここ幾春別から札幌を経て小樽の港へ、石炭を送り出す鉄道だった。」
おもわず駅の方向へ振り返る。そこまでの歴史があったとは。
幌内線。今は、岩見沢から幾春別を結ぶ、ぼくたちの足。
石炭で辛うじて命を繋ぐ、閑散としたローカル線。
「ここを起点に、北海道は石炭と、それを材料にした鉄鋼で、東京大阪に次ぐ日本で三番手の工業地帯として栄えておった」
「三番目、ですか」
「石炭は、この北海道の全てだった。……だが。」
時代には逆らえん、老人は寂しげに呟いた。
「儂はな、昔、とある鉱山の最終責任者だった」
「えっ」
「順番に読み進めていろ。儂なりに、わかりやすくはしたつもりだ」
『幌内新炭鉱崩壊事故』
まず、その文字が目に飛び込んだ。
「エネルギー革命、輸入炭との競争…。1970年代、石炭の町は全国どこも苦境だった」
ぼくはパネルの文字を声に乗せて、丁寧に咀嚼する。
「国は石炭合理化を打ち出し、中小炭山を閉鎖して大規模炭山に統合していった。そのエースとして――全国から石炭復活の期待を背負って、1975年。ここ幾春別に、幌内新炭鉱が開かれた。」
この街の既存の炭鉱を全て潰して、一つの大きな新炭鉱に集約した。
道内各地から、全国から、巨大な期待と融資を受け、最新鋭の設備を揃えて。日本の石炭産業の存亡をかけて、開鉱したのだ。
「巨額の貸し付けが行われ、幌内新炭鉱は一層の合理化を求められた…。」
「"
その声に振り返ると、老人が立っていた。
「――国のお役人からは、常々そう言われていた。そして儂らは無理をした」
鍵を手に、声を沈ませる老人。
「地圧で坑道が潰れてトロッコが通れなくなったら、レールを掘り下げてでも出炭を続けた。安全対策に割く余裕なんか微塵もなかったさ」
事実、幾春別は良質な原料炭が産出されたが、一方でメタンガスが頻繁に発生していたうえ、地下深い鉱脈で採炭していたことからたびたび災害が起こっていた。
「何度か小さい事故も発生した。爆発警報も鳴りっぱなしだった。けれど、儂らは潜り続けたし、堀り続けた。けたたましく鳴り響く警報ブザーの中でな。」
老人の言葉に息を呑んで、それから次のパネルを見る。目を見開く。
「「忘れもしない、1981年4月16日」」
読み上げたその声が、老人と被った。
「北部鉱域、第5盤下坑道にて大規模なガス突出。噴き溢れた高圧ガスは一瞬で坑内を駆け抜け、酸素を奪った。そこにいた40人……全員即死だった。」
老人は遠く息を吐く。
「儂はすぐさま全坑に緊急避難を命じて、救助隊を向かわせた。夕張の大鉱山から応援も呼んで、まだ中にいた800人を全力で、引きずり上げようとした」
「っ」
「救助隊が潜った直後だったな。充満していたガスが――爆発。坑道が崩壊して、全域で火の手が上がった。一時は連絡の取れていた30人と、救助隊が、途絶した」
「二次災害、ですか」
ぐっ、と握りこぶしを作る。
「それだけなら、まだよかったさ。」
老人は奥歯を噛みしめる。
「炭山で火災。これが、どういう意味かわかるな?」
はっと息を呑んだ。炭山、名の通り石炭で出来た山だ。それ自体が可燃物。
しかもそれは運悪く――幾春別直下、大深度3000m地点。
「1ヶ月後、5月16日。春の終わる頃だった。この街の直下の地層をまるごと燃やし尽くして大空洞になったそこに、高圧ガスが溜まって……引火。」
老人の語り口は止まる。
ここ一帯の地層が燃え尽きて、あの街のあった直下の地中に巨大な空洞ができて。そこに、石炭の粉塵ガスが流れ込めば。
何が起こるかなんて、もはや明白で。
「"爆発とともに、街がまるごと地底へ引きずり込まれた"」
パネルの説明の、最後の一行を読む。
「死者三千名以上。地表に亀裂が走って、一瞬だった。妻も一人娘も喪った。なのに最終責任者の儂だけが……生き残ってしまった。」
「――ッ!」
「幾春別の街は、次の季節を迎えられなかった。」
ふと老人は踵を返す。ついてこい、と言われその背を追った。
「すぐにでも坑内へ注水していれば、鎮火していたのにな」
「なぜ…なさらなかったんですか」
老人は自嘲気味に、振り返って、淋しく笑った。
「さぁ…。なんで――だろうな。」
「……っ」
そこにただならぬ気配を感じて、ぼくは黙りこくる。
とぼとぼと階段を下っていく老人の背は小さかった。
老人は地下室の前に立つ。鍵を取り出してガチャ、と一回し。
キィ、と扉を開ければそこには、たくさんの遺物が集められていた。
「本来は非公開なのだがな」
「……ありがとう、ございます。」
一礼して、踏み込む。
そうして目にしたのは。
「灯籠だ。」
あの子と駆け抜けた石橋。その灯籠。
「石段、鳥居、も。」
手を引かれて一緒に駆け上がったあの神社。
見て回るに連れて、手から力が抜けていく。
「あの貨車まで…!」
連結器に垂直に立つポールの時計台。ぐにゃぐにゃに折れ曲がり、貨車もぺしゃんこに潰れている。
されど、示す時刻は17時13分。夏は夕暮れ、冬は月。
夏至を控えた茜色と、崩壊していく世界を背後に――君は笑っていた。
『また、この春も終わらなかったね――』
「あぁ……っ」
声が漏れてしまう。
全部知っている。知っているものばかり全部、瓦礫になっている。
「これが……あの街の象徴だ。」
老人が指し示した大きなアクリルケース。
その中に保存されていたのは大きな、大きな幹。
「
その一言に、目を見開いた。
枯れ落ちて黒くなった幹。けれど、わかる。
「幾春別駅のプラットホームの端にあった大樹だ。名前を――」
「アカダモ」
口をついて出ていた。
「な、知っているのか…?」
君が腰掛けていた木。
いくら雪が積もっても折れない木。
5月に小さな緋色の花を灯す木。
それから萌葱色の薔薇を咲かせる木。
「知ってる。全部知ってる。」
君の髪飾りが、懐からするりと手元へ滑り降りる。
「それは…」
手元のそれを見咎める老人に憚らず、感情が溢れる。
「なんで、こんな…!」
ポタリ、頬を伝って一滴。手元の薔薇に零れ落ちて。
涙が弾けて、萌葱色に解けた。
その瞬間――枝を伸ばして、ぼくを包み込むように。
咲き誇る。
萌葱色の薔薇が、一面に咲き誇る。
掬い上げられるようにふわりと身が浮いて。それから――君を見た。
「こっちの世界で逢うのは、これが初めてだね」
白く輝く枝に、若鶯の装束を身にまとって、たおやかに君は腰掛けていた。
「こんな小さな幹でも、たいじに残してくれたことに感謝かな」
「ぇ……どこ、から?」
「今の私じゃ、これくらいしかできないけど」
それから、一輪の花が
「これが最後のチャンスだから」
少女は小さな手を組んだ。
祈るように、儚げに。
「余の残りすべてを、おしなべて贄と捧ぐ。」
ぼくは固まった。
「以て応えよ、この祈り。
余を贄に、かの者へ――今一度
躊躇もなく、吃ることもなく、すらすらと少女は唱える。
贄という言葉さえ凛と響き渡らせて、その声はまるで淀みを知らない。
「待って」
伸ばした手は、空を切る。
止めるにもう遅く、少女はふわり浮いて眩いばかりに輝いた。
「
少女は微笑む。
「
今此より四十の春を
君が静かに融けていく。
雪が解けて、風に吹かれて、さらさらと。
「待って」
「ごめんね」
その謝罪の言葉の真意ひとつすら、わからずに。
「わたしはもう消えちゃうけど、昔の二人を救うなら……まだ、これで間に合うから。」
「ねぇ、待って」
「ありがとう。君と出逢えて幸せだった。」
カチ、カチと時計の針が動き出す。
逆回り。ひたすらに、辿った軌跡を遡りはじめたのだ。
「なまえっ!」
時空の濁流へ足掻くように、ぼくは叫ぶ。
「教えてくれなきゃまだっ――」
「はるにれっ♪」
にっ、と君はいじわるに笑った。
「わたしの名前。……お願い。」
ただひたすらに切ない笑顔だった。
「ねぇ、連れ出して。」
眩いばかりの若緑色に包まれ、二人を契る春一番。
ハルニレの大霊樹は咲き誇る。
「終わらない、この春の鳥籠から。」
小さな
息吹が。
届け。
めぐり続けるこの春に、終止符を打つために。
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