幾つ、春に別れて。

占冠 愁

第1話

「また、出逢ったね」


そんな声が降ってきた。

一本、すくりとそびえる大樹の下で、ぼくは君を見上げる。


「……誰?」


尋ねると、君は物悲しげな顔をする。

大きな幹に背中を預けるように、君は高い枝に腰掛けていた。


「いいや……。はじめまして、かな」


すたっ、と身軽に着地して山吹色の袴をふわりと浮かせる。


「きみは…?」


そう問いかけた瞬間、びゅうと春一番が吹き込む。

風は着実に生命いのち息吹いぶきを載せて、まだ寒々しい枝ばかりの大樹をほのかに彩った。


「……?」


ぽ、ぽ、ぽっ。

光の玉が現れては消えて、不思議に舞う。思わず見とれていると、少女は笑った。


「この木はね、アカダモって呼ばれているんだ」


「あか…だも?」

「そこの枝、とってくれるかい?」


言われたとおりに枝を渡すと、少女はすらりと地面へ二文字。

赤楡アカダモ』――と、そう記した。


「小さな緋色ひいろの花を咲かせるんだ、春にね。」

「だから赤なんだ?」

「そう。だけどね、一ついいこと教えてあげる。」


人差し指を唇に当てて、少女は耳元で囁いた。


「アカダモの本当の開花は、花が散ったあとなんだよ」

「……というと?」

「萌葱色の薔薇を咲かせるんだ。」


ほのかに若鶯の色差す銀の髪を揺らして、少女は屈む。

そして髪を指さした。


「見える?綺麗でしょ。」

「わぁ…!」


髪留めが咲いていた。

それは見事な、萌葱色の織り花だった。


「5月の終わりに咲くんだ。春の終わりと、次の季節の始まりを告げる花なんだよ」


北海道に梅雨は来ない。

その代わりにアカダモが、春を終わらせる役割を担っているのだと。

この街へ次の季節を運ぶのは、この大樹なんだと少女は言う。


「すこし、このあたりを案内してあげるよ。」


ついてきて、と少女はぼくへ手を差し伸べる。

握ると、ぐっと引かれて木の下から一歩踏み出てしまった。


「ぁ……。」


まず、空を仰ぐ。

あのアカダモの木の下とは対照コントラストを成すかのような――鈍い黒色が、どこまでも空を隠していた。


「さぁ、行こっ?」


空を覆う煤煙ばいえんの下に、煌々と輝く階段の町があった。

灯籠の石橋。橋桁の下には、炭滓たんしの混じった小川がせせらいでいる。

神社へ続く道。

連綿と続く桜色のランプ。

屋根は一面すす色。

ずっと、どこまでも真っ黒。


「炭の香り。慣れればいい匂いだよ?」


少女の指した向こうには、大樹があった。随分歩いてきたものだ。

蒸気機関車。石炭を満載した貨車が行き交う操車場を覆うように、大樹が空へ伸びていた。まだ枝ばかりだけど、もう雪はない。きっともう春だ。


「……見てみたい。あの花が咲くところ」


黒の世界の一隅に、すくりとみどりが咲いている。

そんな光景が不思議と、ありあり目に浮かんだ。


「そりゃぁもちろん!だから、もうすぐ」


そこまで言いかけて、少女は口をつぐむ。

一瞬、憂の差し込む表情が見えた気がしたけれど、きっと気のせいだろう。


「……終わると、いいな。」


まだ白雪積もる三笠山みかさやまの裾野を下れば、徐々に白から黒へ。

遠くに見える大立坑は、煤塵ばいじんをはらはらとこの町へ降らせていた。


そこは、黒煙の下に灯る――小さな炭の都だった。








いくつ、春に別れて。』







他愛もない茜色が、二人腰掛けるプラットホームに差す。


「まずはあれ。最初の花だよ」


駅の端に朽ち捨てられた貨車の屋根から、アカダモを指して少女は言った。


「うん、本当に緋色の花だ」


その小さな花弁は確かに目立たない。けれど、四季のすべてをはらり降る煤塵と共に送るこの町にとっては、ほのかに灯る春だ。


「樹齢六百年。ここがアイヌの里だった頃からの道標みちしるべ。」


プラットホームの端っこに、その大樹は屹立していた。


「切られる予定だったんだけど、こんなふうに残されてるんだ」

「六百年…。」

「ずっと、見守ってきたんだよ。」


少女はどこか寂しげに呟いた。

小さな木造の駅。窓から覗くのはカレンダー。昭和56年5月16日――その紙片は黄ばんだ歳月の色が差していた。


ふと、そこへ声が通る。


「おう、坊主。」

「あっ、おじさん」


軽く会釈をする。青年というには老け込みすぎた彼とは、ぼくが炭鉱へよく手伝いに行くようになってから顔見知りになった。


「こんなところにいたのか、独りで?」

「一人では…ないんですけどね」

「そうなのか?」


彼にはどうやら少女のことは見えないらしい。


「まぁいい、そうだ。坑口広場に立ってたやつで余ったんだが…何に使えるかはわからんが、いるか?」


彼は、引っ張ってきたネコ車を指して言った。覗き込んでみると、白いポールの時計台だった。思わず少女と顔を見合わせる。


「まぁ、いらなかったらホームの端にでも突き立てておいてくれ」


そういうと、ネコ車ごと置いて彼は去っていく。この通りなかなかに変わり者だったが、彼は鉱夫の青年たちに好かれる気さくな人柄だった。


「秘密基地、つくってみない?」


少女は、唐突にそんな提案をした。


「……どういうこと」

「これと、この捨てられた貨車使ってさ」

「って言われても…」


とりあえず持ち上げてみるが、重くて、よろけそうになる。

たまらず、ちょうどそこにあった貨車の連結器へ縦に突き差してしまう。


「「あ」」


ちょうどはまった。

貨車の連結器に屹立する時計台の姿はどこか滑稽で、二人で笑ってしまう。


「あははっ」


萌葱色の薔薇が、一瞬茜色を灯した。

その髪飾りを夕陽に反射させて、少女は朗らかに振り返った。


その様は、どこか切なくて。




「……あぁ、タイムリミットだね」




程なく、遠くから聞こえる爆発音。

ボロボロと割れ始める地表。


「!?」


世界に亀裂が走る。

通りも、立ち並ぶ店も、家々も、音を立てて――吸い込まれるように、崩れていく。

崩壊に呑まれて、アカダモの大樹がミシミシと根を見せる。


轟き渡る崩壊の音。そこに浮き上がるようにして、少女は銀色に輝いた。

悲しげに、けれどどこか諦めた表情で、少女は淑やかにぼくに向き直る。


「ねぇ――、覚えておいてくれるかい?」









..-..-^―._.^-――^^―



2022年(平成34年) 4月




ピピピッ!

ピピピピピピッ!




「……また、あの夢だ」


けたたましく鳴り響く目覚まし時計をぺしっと叩いて、身を起こす。

キーン、と遠のいていく耳鳴り。また眠れなかった。

何十回目だろうか、あの春は。


布団をたたみ、着替えて。朝食を流し込んで、学校へ。

ドアが開いて電車を降りれば、ごちゃごちゃと同じ制服がホームに溢れだす。月曜日。ぼくにとっては死の行列だ。


「今日も眠たそうだな」


ちらり右を見る。

声の主は顔見知りの先輩だった。


「また同じ夢です」

「……もうここ一ヶ月ずっとそれじゃないか。病院行ったらどうだ?」

「この前診てもらいましたよ」


不眠を訴えたものの、どこも悪くないと言われた。睡眠薬を貰ったが、まるで効果がない。重い足取りで跨線橋の階段を昇る。


「春が、繰り返すんです」


響く鉄輪の音。跨線橋から見下ろす朝の岩見沢いわみざわ駅は、その長いホームを人と列車がひっきりなしに行き交っていた。


「繰り返す?」

「同じ出会い、同じ別れ。ひと春の記憶がめぐり続けるんです」


広大な構内の端に、ぽつりと一両の単行列車が止まっているのに気づく。賑やかなホームから離れたちょっと寂しい一隅にあって、その行き先は――"幾春別"。


「詩人みたいだな」

「かもですね」


ため息ひとつ。改札を出て、学校までの上り坂を行く。

長い髪を横へ梳きながら、先輩はスマホを手にいじりだした。インスタのストーリーでも流しているのかと思ったが、彼女の手付きはどうやらそうではないようで。


「睡眠障害…しか出てこないな。お前のそれとは違うみたいだしな」


開いた窓から香る、炭の匂い。


「どんな夢なんだ、具体的には」

「ほぼ曖昧ですよ」


いつもはほとんど覚えていない。漠然と記憶にあるのは、土煙と、崩れていく街並みと――誰かの、寂しそうな笑顔だけだ。

あとには、ほのかな春の感触ばかりが残るのみ。


「あと、黒煙のすごい町でしたね」

「プペルか?」

「炎上しますよ」

「冗談だ。しかし…黒煙とはな。もう日本でもこのあたりしか見られんだろう」


先輩は窓の外を見る。ほのかになびく煤煙は、このあたりの特産だ。昔はもっと一面に空を覆い隠していたらしく、これでもSDGsへの配慮が進んでいる。


「でも、いつも終わりは唐突なんです」

「言ってみたまえ」


先輩は長い睫毛を瞬かせて、返答を促す。


「崩壊するんです。地面から」


「……それ、幾春別いくしゅんべつじゃないか?」


疑念は確信に変わったようで、彼女はため息をついた。


「煤煙、石炭ときて、崩壊となれば…幾春別しかないだろう」

「まさか」


首を振って否定する。

幾春別。この先にある、かつてのこの地域の中心だ。


「ありえませんよ。あの街は――40年前に沈んだじゃないですか」


ある日突然、まるまる山一つごと地底に消えた街。

原因は炭鉱事故。天災とも人災とも言われているが、真実はただ、あの事故があったおかげで北海道は救われたということだけだ。


崩壊のあとに露出した地底には、大きな鉱脈があった。世界でも有数の規模だった。そのおかげで命脈を繋いで、この平成34年の日本は「資源大国」と呼ばれている。

地底に沈んだ数多の犠牲の上に、糧を紡ぐこの町は矛盾そのものだ。屍の上に立つ罪深い町。というのは誰の言葉だったか。――とにかく、むかし大きな事故があったのだ。


「だとしても。ぼくも先輩も、そもそもまだ生まれてないでしょう」

「まぁそうだよな。40年前の事故だ。」


うーむ、と考え込む先輩。

あの夢の終わりは、まるで崩れ去るようにやってくるのだ。


「それでめぐり続ける、か。」

「はい。同じ春が――幾度いくどでも。」

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