第10話✵片方だけのピアス✵
相変わらず樹里はこのクリニックの看板娘で噂を聞きつけた男性患者は後を立たなかった、おかげで患者の数も増えて院長もご機嫌だった。
たまには物好きなもので私を目当てに来る患者さんもいた、近くにあるテレビ局で美術を担当しているといった彼の名前は宮崎浩也。
予約時間より早く来局した彼の治療台の横で先生が来るまでのあいだ、世間話をしていた。
このクリニックの院長は患者さんとなるべく話をするというのがポリシーだった。緊張して訪れる患者を安心させてあげる目的だと説明していた。
院長自身も治療の前には必ず話をする、そのおかげで次の予約時間ギリギリにしか治療は終了しない。
友達のように話しかける医者に安心して治療を受けるのだから、きっと患者側からも不安が取り除かれリラックスした状態で怖い治療を受けれるのだろう。
私と宮崎さんが話をしている所に現れた院長が「大石さんの彼氏はアメリカに遊学とやらに行ってるんですよ、宮崎君今がチャンスだよ」
「先生、やめて下さいよ!夏には帰ってくるんですから」
そのやり取りに宮崎さんが笑いながら「先生、それは大チャンスですね」と笑いながら答えた。
ヒカルからは時折短い手紙や絵葉書が届いている。
会えないのは寂しいけれどこうして繋がっている限り大丈夫だと思うのだ。
不幸な恋ばかりしていた樹里も新しい恋をしているのだと近頃は幸せそうにしている。
子どもの頃から目立つ存在で嫌な時期もあったのだろうが、持ち前の明るさでたくさんの困難を乗り越えて来たのだから、幸せになって欲しいと心から思う。
その日の仕事終わりに食事をしていた時に樹里は昨日プロポーズされたと打ち明けてきた、それは私にとっても嬉しいことだった。
見せられた写真に写った男性はとても誠実そうにみえる。
親友である樹里の笑顔に私はいつも励まされている。
私はいつプロポーズを受けることが出来るのだろうか。
そんな寂しい思いだけは樹里には伝えなかった。
言わなくてもきっとわかってくれてると思うから。
***
帰り道近くのスーパーで買い物を終えた私は店を出た時に土砂降りの雨が降っていることに気がついた。
朝の天気予報はやっぱり間違ってはいなかったのだ。
その日の朝の空は真っ青で雲一つない爽やかな天気でその青空は続くものだと思っていた。
人生だってきっとそんなものだと思う、晴れているときは雨の予感なんて感じることなんてない、確かに曇り空が続いていると傘を手に取るのだけど、どんなに晴れていても突然に嵐のような雨だって降るのだ、そしてそんなことは雨に濡れるまでわからないのだ。
止みそうにない雨を眺めていると、後ろから声が聞こえてきた。
「こんばんは、よく降りますね」
振り向くと宮崎さんだった。「天気予報当たっちゃいましたね」
「ウチのテレビ局の天気予報でも降るって言ってましたけど、僕、傘は苦手で持ち歩かないんですよ、今まで何度も無くしてるしね、まだ暫くは止みそうにないし、良かったらそこの喫茶店で雨宿りしませんか?」
このスーパーには併設された小さな喫茶店がある、1度も入ったことはなかったけれど雰囲気もよさそうだ。
「そうですね、止みそうにないですもんね」
その喫茶店は昔からこの場所にあったらしく、スーパーが建設された時にテナントとして店を再開させたと聞かされた。宮崎さんは常連らしく店のオーナーであろう優しそうなマダムと挨拶を交わしていた。
宮崎さんの話は楽しかった、寡黙なヒカルとは正反対だけど誠実そうなひとなんだと感じていた。
院長の話などは声をあげて笑ってくれていた、私が以前勤めていた歯科医院の話をすると、彼はびっくりしていた。不正請求が暴かれて歯科医師会から追放を余儀なくされているということが近々発表されるということだった。
「こんなこと外部の人には話してはいけないんだけど、君は内情を知ってるんだからね、でも会社には黙っておいてよね」
私は前の雇い主には感謝はしていたが、不正が公になったことはよかったと思う。
久しぶりに男性と話した気がする。
宮崎さんは別れ際に「大石さんの彼氏が羨ましいな、でも僕なら君を1人にしない」
その言葉は私の心にチクリと傷を残した。
***
お昼の休憩時間に初めてピアスの穴を開けた。
「ねぇ樹里痛くない?」
「大丈夫だよ、蚊に刺された位の痛みしかないから」
ピアスの穴を開けるために用意したピアッサーを片手に持った樹里に向かって何度も聞いてみた、耳鼻科で開ける人もいるのだが、中高校生は、ほとんどが自分で初めてのピアスを開ける
安定するまでの間は毎日消毒しなければいけないしアレルギー体質の人は余計に時間がかかる。
イヤリングを片方だけ無くしたことがある私は無くさないためにピアスを開ける事にした。
大人の私なのにこうしてピアスの穴をあける。
痛みを感じるためなのか……
だけど、実際に開けてみると分かるのだけど着替えなどの時に無くすのだ、それも片方だけ。
片方だけのピアスは私の心まで切なくさせる。
ピアスを開けた私は髪も切った。セミロングだった私はもう鏡の中にはいない、ヒカルの知らない私がそこに映し出されているだけなんだ。
ショートヘアの私の耳元には瑠璃色の美しいピアスが1つだけ悲しげにうつし出されている……
2つで1つなんだ、外した片方だけのピアスを手のひらに乗せて呟く。
お互いに気づいていないのかもしれないけれどそこにいない片方を
悲しいほどに思っていた……
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