第9話✵不安な日々✵

 思い出したくない悲しい話だけど

 小学生の頃、上靴を隠されたことがあった、それも2回だ。その事に怒った母は学校に乗り込んで生徒の前で「自分がされて嫌なことはしてはいけないとこの子を育てて来ました、自分がされて嫌なことしたのは誰ですか!」

 そんなに怒る母親を見るのは初めてだったし正直恥ずかしかったけどたまらなく嬉しかった。その時泣きながら謝ってくれたクラスメートとは今では友達だけど、その時の母親以上に私の話を聞いて私以上に怒ったのは樹里だった。

「何それ、なんで勝手に決めちゃうわけ?しかも半年?」

 返事もしない私に樹里はまくし立てた。

「何だか許せない!ルリのことをないがしろにするなんて私が許せない!何考えてんの!」

 その剣幕にいつしか笑いが出てきた。

「なんで? ルリ! 何が可笑おかしいのよ」

 私は涙ぐみながら答えた

「樹里ありがとう、こんなに私の事思ってくれる友達なんて今までいなかった気がする」

 樹里は「ばぁーか」と言いながら私を軽くハグしてくれた。

「いつもルリは私の事めちゃくちゃ心配してくれるでしょ!とりあえずもう一度話しておいで、でもどうして問い詰めなかったの?」

「だって問い詰めたら人間って嘘をつくじゃない ? 私、嘘を聞きたいわけじゃないのよ」

そう言う私を涙ぐんだ樹里はずっと見つめていた。


 あの日初めてアメリカ行きの話を聞いた私は頭が真っ白になってヒカルの言葉を静かに聞くしかなかった。

 付き合いはじめてからもうすぐ2年になる頃だし、もしかしたらプロポーズとかも近いのではないかと思っていた自分の馬鹿な思いを呪った。

 ヒカルの未来に自分が必要ないのかと思うと悲しかった。


 恋人同士は誕生日やクリスマスに彼氏からプレゼントで指輪などを貰うというのがその頃の定番だったのに私が貰ったものは、ホットカーペットと自転車だった。

 部屋が寒いと言ったらくれたホットカーペットは身体を温めてくれるのだけど、ヒカルの感覚は他の誰とも違うものだったのかもしれない。

 ある日自転車に乗れないと告白した1週間後の誕生日には自転車を贈られた、しかも深夜の練習付きで、その自転車はフランス製でセミオーダーされたものでかなり高額らしいというのはあとで樹里から聞いた。

 おかげで自転車を乗り回せるようになったのだけど、私はこの指に光るものが欲しいのだと思いながらヒカルに言うことは躊躇ためわれた

 後から話してくれた話によるとアメリカ行きは、元々計画していてそのためにお金を貯めていたこと、私と付き合うことで一瞬気持ちが揺らいだ事、でもここで断念したらそれはきっと後々私を傷つけてしまうのではないかと思った事、正直に全てを話してくれた。


 ヒカルはきっと嘘はつけないのだと思う、だからこそ周りの人はその純粋すぎる真っ直ぐな性格に惹かれるし、その純粋さは人を傷つけてしまうこともある事を彼は気づいていないのだと思う。

「まったく、困った人を好きになったもんだ」と1人で笑うことしかできなかった。


 そんなある日樹里はこっそりとヒカルの店に行ってカウンターに座って言葉巧みに彼を誘ったのだと告白した。

 今まで樹里に言い寄られて断った人はいないはずだったらしいが「俺には彼女いるし、彼女を悲しませられないから」とヒカルが言ったと報告してくれた。

「ルリ、だましてごめん大事な彼女ルリを残して遠い国に行く人を試したの、私の親友を傷つける人なら許せないと思ったから。でも彼はちゃんとルリを愛しているし、きっとルリの元に帰ってくるよ」

 樹里の大胆な行動にはびっくりしたけど嬉しかったしヒカルのことを信じて待てると感じていた。


 次の日に日本を立つというヒカルはいつも以上に長く抱きしめて私を夢心地にさせた、会えない時間の分まで身体に心に刻むように唇を重ね二人は何度も絶頂を迎えた。


 空港まで見送りに行くことは私の我儘わがままかとも思ったけど、ヒカルは笑って許してくれた。雲一つない透明な青い空が広がるあの日に大きなリュックサックと手に持ったサックスと一緒にヒカルは旅立った。


 ヒカルが旅立ってから1ヶ月後に私は生まれ育った家を離れ一人暮らしを始めた

 新しい勤務先の近くにワンルームの部屋を借りた。

 憧れていたはずの一人暮らしだったのだけど、ひとりで部屋にいると、誰の声も聞こえない。声を放っても誰も応じてくれない。

 さすがに侘しく涙が滲むこともあった。


 両親も最初は通勤出来る位なのだからと反対はしたが私の決意を聞いて渋々認めてくれた。

 さすがに弟は喧嘩相手がいなくなるからと最後まで不機嫌だったけど。


 私も何かを変えなきゃと焦っていたのかもしれない。


 淡い日差しがワンルームの床を照らしている様子を眺めていると、今そこにない存在の大きさや重さを思い知らされてしまう。


 この寂しさの中で遠い国にいるヒカルのことを思った。

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