第7話✵恋に溺れて✵
私が付けた煙草をヒカルはそっと取り上げて灰皿に乱暴に入れた。
「そんな無理して吸うなよ」
私はその沈黙の時間が耐えられなくてずっと外を見ていた。
いつの間にか季節は変わっていたんだ。━━━━窓の外では色づいた街路樹が寒そうに葉を揺らしていた。
公園の脇に止めた車の中で2人とも交わす言葉を無くし押し黙っていた。
ドアに手をかけ「帰るね」と声を掛けた時に、ヒカルは手を掴んだ「行かないで欲しい、この手を話さないで欲しい…」
ぽつりぽつりと苦しそうに語り始めたヒカルの目を見ずに聞いて行くのが精一杯だった。
ヒカルが別れた彼女の話をするのはその日が初めてだった、出会った頃の話、彼女と初めて身体を合わせたこと、何度も離れてはよりを戻したこと、それは私の心まで傷をつけたし正直に話すヒカルの事を狡いとも思ったけどそれ以上に彼が愛おしくなった。
「この間、ルリの弟さんが店に来たんだ」
「えっ
「友達が店に入るルリのことを何度も見ていたそうで気づいたと言ってた」
「それで…蒼真は?」
「もし…姉ちゃんを傷つけるつもりならもう会わないで欲しいって言われたよ」
朝帰りしたあの日以来休みの日は出かけて遅くまで帰らない私を心配してくれていたのだと思った。
「そんなの知らなかった…」
「だろうね、姉ちゃんには黙っててって言われたのに、つい白状したから謝って置いて欲しい」
自分で言うのもおかしな話だけれでも、私は実にしっかりした娘だった。人によっては、おそらくいささか鼻につくほどに。
『瑠璃ちゃんはお姉ちゃんなんだから、ちゃんとしなさい』そう言われて育った。実際私はちゃんとしていて、学校で問題を起こすこともなく、そつのない子どもであり続けた。勉強もそこそこ出来たし、運動も得意だった。見栄えも悪くなくてクラス内での立ち振る舞いもそれなりで、際立ったものはなかったが、親の頭を悩ませる要素はほぼ皆無だった。そうやって生きてきたおかげで臆病にもなっていることは自分自身が良く分かっている。
この恋は漠然と悲しい恋になると思っていた、でもこの恋にどっぷりと飲まれてみよう。
彼女との恋に上書きなんてできないかもしれないけどその手を、愛おしいその手を今は手放す勇気なんてないのだ。
私はその日決意をした。
◇◇◇
院長に辞表を提出してから、仕事をしながら就活をしていた私に、願ってもない募集の話が舞い込んだ。
ハローワークから新しく開院する歯科医院への応募が打診された。
1ヶ月後にオープンするということは、赤木歯科医院をキチンと勤め上げてから新たに出直すことが出来るということだ。
早速送った履歴書は送り返されることなく面接の日程が書かれてあった。
1週間の内に都合が良い日を連絡して欲しいとの事だったので、休みが取れそうな日を知らせてその日を待った。
今までとは違い電車での通勤になることが楽しみだとも思った。
院長は30代後半で、北海道大学を卒業した後に歯科大学に入学したと言う変わった経歴を持った人だった。
その日面接に来た人の中にモデルのような容姿の同世代の女性がいた。
人懐っこい笑顔の彼女への感想は
『仲良くなれる気がしない』
そう思った。
「採用されるといいですね」そう声を掛けてきた彼女に「そうですね」とだけ返事をした。
今まで生きた経験上、第一印象で心のスタンスは決まってしまう。
そんな彼女が私の心に寄り添ってくれる友達になるという事はその時には思いもしなかった。
採用の通知が届き、新たに呼び出された日に彼女も呼ばれていた。
私と彼女が歯科助手、その他に歯科衛生士が2名、歯科技工士が1名
合計5名と院長で新しい歯科医院をスタートさせることになった。
その事をヒカルに話すと喜んでくれた。
あの日から2人の仲も今まで通りには続いていたし、たくさん思い出も重ねて来ていた
今がきっと幸せなんだろうと思っていた。
出会った事に決して後悔はしないけど
もしヒカルに出会わなかったら、どう生きていたのだろう。
でも私は彼と出会ってしまったのだから仕方ないんだ。
ヒカルは運命の人なのだから…
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