第5話✵すれ違い✵
毎日仕事が終わるとヒカルの店へと向かった。
カウンターには知らない女性達が座ってることもある、ヒカル目当てでやって来る人も多いのだと気付かされる。
『ルリ…ここに座って』
カウンターの隅の席には楽器の入っているケースがいつも置いてある
そのケースをカウンターの中に置いて私をその場所へと座らせてくれた。
それよりも初めて名前で呼ばれたことに私は舞い上がってしまった。
「いつものだよね」
「はい、お願いします」
カウンターに座る女性達の視線を感じながらいつものコーヒーを飲んだ。
毎日仕事が終わると店に行きコーヒーやヒカルの作るピラフを食べて時間を過ごし、閉店後には鍵を掛けた店のソファや車の中で抱かれた。
好きな人とのSEXは私を大胆にしていった。
抱かれたままヒカルに聞いてみる「あのケースに入ってるのは?」
「ああ…サックスだよ、ジャズが好きだからちょっと吹いてみたくなって、まだ下手くそだけどな」
店の中ではいつも古いレコードを流している。CDプレーヤーも置いてあるのだが、音の深みや雑音が混じるレコードが好きだと言った。
エラ・フィッツジェラルド、ベニーグッドマン、ビル・エヴァンス
ナット・キング・コールたくさんのレコードを聴かせてくれた。
「いつかジャズが生まれた国アメリカに行ってみたい」そんな夢の話のことなども話してくれることもあった。
休みの日には車で出かけることも多かったけど、たまには駅で待ち合わせて街へと出かけた。
ある日ヒカルの友達がやっているというBARに連れて行かれた。都会から少し離れている、カウンターだけの小さなお店だったけど居心地が良い静かな店だった。
「ヒカル久しぶり、また可愛い女の子連れて羨ましいぞ」
その言葉に、この人はきっとヒカルの前の彼女のことも知っているんだなと思った。
詳しく聞いたこともないし知りたくもない過去の話だけど何だか切なくなった。
そんなある日のこと車で送ってもらい降りる間際に「明日、前の彼女のところに行ってくる、あっちのお父さんが話があるって…」
言葉が出なかった。
返事もせずに車のドアをきつく閉めて振り向かずに家に入った。
次の日はヒカルの店の定休日だった。
その日は何も考えたくなくて1日中部屋にこもって泣いてばかりいた。
ヒカルが休みの日はいつも一緒に出かけていたから突然空いた時間を持て余してしまっていた。
母親には新しい彼氏が出来たことは話していたが、さすがに部屋に閉じこもる娘を心配して声を掛けてきた。
「ルリ…何があったの?」
「別に何もないけど」
母親はやっぱり感が鋭い、それは女と生まれたからなのだろう。
前の彼女に会いに行ったなんていえるわけがない。
それから数日はヒカルの店に行かなかった、というか行けなかった。
彼の言葉を聞くのが怖かった、嘘をつけない人だと分かってるから尚更だ。
***
月末から月初にかけて勤務先の赤木歯科も他の医療機関と同様に忙しくなる。月ごとの診療報酬請求のためだった。
院長は県の歯科医師会で役員もしていて週に1度木曜日の午後は留守にする。
その時間、普段は自由だが月末はレセプトの請求をスタッフ総出でカルテから書き写す。
「院長、エグいね」
衛生士の山田さんが呟いた、毎月の診療報酬に他の病院で施術された治療まで上乗せされている。実際には触ってもいないブリッジや入れ歯を新しく作ったようにカルテには書かれている
その不正を計算してレセプトを作成するのだから気が付かない訳がないのだが、素知らぬ顔でカルテを私たちに託す。
毎月かなりの不正をしていることがわかる。「このレセプトをみたら、あの豪邸が建つのも頷けますよね」
院長には2人の子どもと奥さんがいる。
お嬢様育ちの院長夫人は事あるごとに私たちを自宅に呼びつける。
ある時などは仕事中にハンバーグを作るからと呼び出された。
「ハンバーグはね、ステーキ肉を使うと美味しいのよ」分厚いステーキ肉をミンチにする為だけに従業員を呼ぶってどうなのかとおもうけど、庶民の私は言われるままに次々とステーキ肉をミンチにしていく。
そりゃステーキ肉を粗挽きにすれば誰だって美味しいハンバーグを作れるはずだ。
自分の口に入ることもない肉を次々にミンチにしていくなんて馬鹿みたいなことをさせられる。
そんな家政婦の真似事をさせられる仕事にも飽き飽きしていた。
不正に多額の報酬を手にしてる院長は歌舞伎の女形のように整った顔をしていて優しそうに見える。
それがかえって腹立たしく思えた。
私は高校を卒業してからずっと勤めていたこの赤木歯科の院長に辞表を提出した。
ヒカルと会わなくなって1週間が経った。
ドアがノックされ弟が私の部屋に入ってきた。
「姉ちゃん…お客さん…髭の男の人」
思いがけない人の来訪に急いで部屋着からジーンズと白のコットンのシャツを来て玄関へと向かった。
「久しぶり」
「あ…うん…そうだね」
白いスニーカーを履いて玄関先に停めてあるヒカルの車の助手席にいつものように座った。
「あの…この間のことだけど、ルリの気持ちも考えずに…ごめん…」
私はヒカルが話す言葉を待った。
車の灰皿に口紅の付いた煙草を見つけた私は「その前に煙草を1本もらってもいい?」
そして、吸ったこともない煙草に火をつけた…
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