33
大陸歴七六六年、一月。
テイレシア王国、離島アマツチ巫領。
王女ヴァイオラの公務は既に終えて王都に戻っていたが、年が明けてすぐに彼女は祖父とロランと共にこの島を訪れていた。
この日は、アマツチの巫覡であるタケハヤ=シキと、
昨日到着した部屋に、マキリが訪れた。
「間もなくお時間です。皆様、こちらに」
「はい。参りましょう、祖父上」
声を掛けられた祖父が、そっと座布団から立ち上がった。
「待つのじゃ、ヴァイオラ」
祖父の足腰はさほど弱っていない。王としての力が衰えているわけではなさそうだが、年齢と共に気力や体力が落ちてきているようだ。体調を崩すことも増えてきた。
レイドリックがいなくなってからだと、ヴァイオラはわかっていた。
今の祖父の望みは、王としての目が黒いうちにヴァイオラを女王にすることだ。たぶん、シキの婚儀が終わったらすぐにでも戴冠式の準備が始まる。覚悟しなければいけない一方で、まだ王女でいたいような気持ちもあった。縁談はいくつかあるが、どの男たちにも王配としての決定打がなかった。
マキリが、そっとレスムスを支えた。ヴァイオラがふたりの後を追うように続き、最後尾にロランがいる。リーシャは年が明ける前から休暇を取っている。物静かな彼女が男をひとり攫いに行くと言ったときには驚いたが、さすがに比喩表現だと思いたい。何しろ彼女は、大人の男ひとりくらいは抱えて走れる怪力だ。
婚儀を行う広間に、腰を下ろす。
左右の廊下、それぞれの襖から夫と妻が別々に現れるのだという。古来、アマツチではこの婚儀の席で初めて相手と対面していた時期があり、その名残のようなものらしい。今はもう、結婚するその瞬間まで顔を一度も合わせないことはない。
右の襖から先に現れたのはシキだった。灰色の袴の上に、黒い着物と黒い羽織をしている。飾りは白い。紋付き羽織袴というもので、アマツチで婚儀の席で新郎が着用する衣装だという。シキはこちらに一度礼をして、上段に着座した。
ややあってから、左の襖からナダが現れた。真白くて重たそうと思うほど厚い和服だが、よく見ると刺繍が施されているのがわかる。白無垢という花嫁衣装らしい。同じように白く大きな綿帽子で、表情はほとんど見えなかった。彼女もまたこちらに礼をしてから、着座する。
あらかじめ着座していた、神職らしき男が立ち上がる。神職と巫覡というのは、似ているがその役割に違いがある。シキの役割は、神々の代理人というよりも、人々に寄り添い人々のために祈る、政治家で領主だ。
男は長い言葉を語り出した。それはアマツチの古い言語で、ヴァイオラにはその意味が理解できなかった。ただ、男が何かを祈っているようだとはわかった。厄を祓い、神にふたりの婚姻を報告する。そして、その祝福がいつまでも続くようにと祈祷する。概ねそのような内容だという。
大きさの異なる三つの盃に、シキとナダが順番に口をつけた。繁栄を望む神酒だと言うが、実はその中身は水だとマキリが教えてくれた。表向き、アマツチの本国であるテイレシアの法規上まだ酒が飲めない年齢のナダへの配慮と言うことになっているが、シキは酒が飲めない体質なのだと言う。それは神酒ではないのでは、とは思うが、ふたりとも飲めないのならば仕方がない。
シキとナダが、夫婦になることを誓う意の言葉を読み上げた。
耳慣れない音色の楽器で奏でられる、雅楽と呼ばれる音楽が流れ出す。宴が始まるようだ。ほとんどの楽器の名前を、ヴァイオラは知らなかった。
不意に、そっと襖が開いた。
アマツチの民族ではないとわかる金髪の男が、笛を持って現れた。当たり前のように、雅楽に合わせて笛を吹き始める。女たちが舞を舞う。
袴を着たその男から、目が離せない。舞が視界に入らない。雅楽が耳に入らない。
舞と音楽が終わった。
「遅刻だぞ」
シキが、憮然と言い放った。
「間に合った方だろ」
男が呟く。口元に、笑みがあった。
「おまえの婚儀を祝うために、急いで来たんだぜ」
誰もが、同時に勇者の名を呼んだ。
――レイドリック。
*
自宅まで送ってくれた友達が、帰っていった。
あの友達が、初めて花瓶を作った日から土を一度も触っていないことについて、クロエは全く気にしなかった。
土と友達になるのは難しいと、彼は呟いていたから、土の声は聞こえなかったのだろう。最近忙しいようだから、聞こえるようになるまで話しかけてみようだなんて、クロエには言えなかった。今年、学院に入学するらしい。
自室の扉を開けば、その歪な花瓶は飾られている。姉が言った通り、どの花を挿しても意外なほどよく映えるのだ。
廊下を歩く途中で、父が声をかけてきた。
「お帰り」
「ただいま」
クロエは父親に冷たすぎると自覚していた。最近は気をつけるようにしているのだが、簡単な挨拶が何故かいつもぶっきらぼうになる。
「ねえ、お父さま」
「なんだい」
「わたし、学校行こうかなって思う」
シリウスが少し驚いたのがわかった。
「グレンがいないと外にも出られない自分を、変えたいの」
集団生活は嫌いだ。そんなものに価値があるなんて思えない。
だが、彼がいないと外に出られない自分はもっと嫌いだった。外に出て会って喋って、他にも友達ができて、それでようやくグレンと友達になれる気がしていた。
「わたしに石を投げるなら、勝手に投げればいい。誰かが勝手に決めただけの普通なんて、知ったことじゃない」
「わかった」
父は穏やかに頷いた。
廊下を歩く横顔は、微笑んでいるようだった。
「わたしがクロエの成長を止めるはずが、ないだろう。今度、時間を見繕って一緒に見学に行こう。興味がある学問や学校があったら、調べておきなさい」
「はい、お父さま」
クロエの自室に着いた。不意に、誰もいないはずの部屋の中から物音が響いたのがわかった。家にいる使用人たちは、先ほど廊下と玄関で見かけたばかりだ。この部屋にいるとは思えなかった。
シリウスが戸惑うクロエをよそに、扉に手を掛けた。
「クロエは下がっていなさい」
泥棒や暴漢の類いかもしれない。そう言いたいのは理解できた。
彼女が頷くと同時に、シリウスがそっと扉を開け放った。隙間から、中の様子を確認する。
部屋の窓が開いている。風でカーテンが揺れていた。おそらく、窓から侵入したのだろう。その侵入者らしい人物は、あの歪な花瓶を見下ろすように立っていた。手に、青を基調とした花束を持っていた。
後ろ姿は黒衣で、長い銀色の髪を高いところで結わえていた。
気付いた瞬間、クロエは半ば強引に父親を押しのけるように部屋に飛び込んだ。父は彼女を止めようとはしなかった。ただ、後を追う。
「お姉さま」
花束を持ったその人物は、花瓶に花を挿してから、こちらを振り返る。
「強くなったね、クロエ」
クロエは思わず彼女に飛び込んでいた。抱き留めたその腕が伸びて、頭を撫でる。
「おかえりなさい、お姉さま」
シリウスが、近付いてくる。目の前の光景が、まだ信じられないのだろう。
「いったい、何が」
「野暮なことを聞くね。少しは姉妹の再会を味わわせなさい。後でゆっくり話してあげるから」
彼女は苦笑した。
「ただいま、クロエ」
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