セレスティアの天秤

32

 大陸歴七六六年、一月。

 年が明けて間もない頃の、オルフェリア帝国。

 帝都オルローザの街並みは、相変わらず中心から離れれば離れるほど石畳の白さを失っていく。元々全土が白かったという事実は、今となっては歴史の一部に過ぎなかった。

 グレンは、オルローザの一番白い区域に足を踏み入れ、アーヴィング候の邸宅に向かう。はじめは来るのが怖い地域だったが、最近は慣れてきた。自分は意外と浮いていないらしいと、ようやく気付いた。

 いつも出迎えてくれる邸宅の使用人たちは、とっくにグレンの顔を覚えていた。

 シェリルが第一子を出産して、まだ数ヶ月だった。

 サイラスは診療所を再開させたが、なるべく家事育児に時間を使いたいからと、当面の訪問診療を中止した。グレンには同意してくれた患者を自宅まで迎えに行って、診察が終われば送って帰るという仕事ができた。

 中には身体が動かないなど、どうしても訪問診療でないといけない事情があって、やむを得ず主治医を変える選択をした患者もいたが、クロエ・アーヴィングは自分の足で診療所に向かうことを選んだ。どうしても主治医を変えたくなかったと言っていたが、彼女は「外に出ることが怖い」という自分の症状を自ら回復させつつあった。病弱なのだと聞いていたが、部屋に引きこもっていた頃よりもずっと元気になってきているように思える。

 その日もグレンは、診察を終えたクロエをアーヴィング邸に送っていた。

「クロエ、お疲れ様。ゆっくり休んで」

「うん、ありがと」

 部屋まで送ってやると、彼女は笑顔で頷いて部屋に戻っていった。

 自宅から診療所までの距離を、クロエはさほど怖がらずに歩けるようになった。

 グレンが一緒だからなのか、外に出ることにも馴れてきたからかはわからない。少し歩くことで、顔色もいくらかよくなってきたようだと、グレンは思っていた。

 もう、グレンは必要なくなるかもしれない。ちょっと寂しい気もするが、それはそれで悪いことではない。

 自分が必要ではなくなって、初めて対等な関係になれるのだ。







 クレールは、数日間のまとまった休暇を控えていた。それは、護衛官に異動して以来のことだった。

 エルリッドの元での任務を一通り終えてから、情報部総督であるハイリアの執務室に報告に向かった。失踪していたハイリアだが、実は休暇申請の書類が提出先で紛失されてしまっていたらしい。それを信じたわけではないが、クレールは無事に戻ってきたことにただ安堵するだけにしておいた。

 エルリッドとハイリアの関係は悪くはない。両人とも、適切な距離を置きながらうまくやっている。エルリッドはクレールの正体に気付いているようだが、それでも近い位置で使っているのは情報交換のためだろう。そんな皇帝のことが、クレールも嫌いではなかった。最近の仕事は、エルリッドが話していた非公開情報をハイリアに伝達することだ。

 ハイリアの執務室の窓からは、相変わらずオルローザの街並みが一望できる。

 一番白い中心から、外側に広がるように黒くなる街は、即位数ヶ月で変わるようなものではない。ただ、黒い地域に孤児院ができたというから、少しずつ変わろうとしているかもしれない。

「行方不明だったヴィンセント子爵の息子が、戻ってきた」

 ハイリアがそう言った。ただ、子爵の息子は正式に爵位を返上することを望んだ。だから、孤児院の再建には直接関与していない。

 差し押さえられていたヴィンセント子爵の財産は国に寄付されたが、その金額は決して多くはなかった。孤児院を再興するのに必要な費用にはとても届かなかったから、子爵の息子が爵位を継いで自分の手で孤児院の再興を目指すことは、はじめから不可能だった。

「陛下は、もともと子爵の令息が戻ってくることを期待せず、国営として孤児院を再興させるつもりでいた。それでも爵位は継がないかと聞いたそうだが、それも断られたらしい」

「はじめから、爵位などいらなかったのかもしれないですね。孤児院の運営にも興味がなかったのでしょう。詳細は知りませんが、身分などどうでもいいという女性の婿になるそうです」

「そう言うことか。自身の幸福を求めたと言うのは、最も人間らしい事情ではある。おまえは、わたしとは違う情報網を持っているようだな。おまえの交友関係はわたしにはないものだから、当然ではあるが」

 クレールは肩を竦めた。情報網というか、兄の患者だった若者がヴィンセント子爵の令息だったと言うことを、最近まで知らなかったのだが。

「少し話を戻そう。その孤児院の件だ。立て続けに三棟の孤児院を再建したが、何しろ数年も前に潰れたものなので、はじめから建て直すことになる。それが可能となる人手がどこから来たか、おまえは何か知っているか?」

「ラディッシュ社であると、陛下が」

「なるほど。魔薬取引が摘発されて職を失った従業員たちを、雇ったのだな」

「いえ。ラディッシュ社は、皇族からの除籍処分を受けたアナスタシアが新社長として就任して、人材派遣業を始めたんです。何も知らずに働いていた従業員も被害者のようなものだから、いきなり職を失うのは理不尽だと。ただ、魔薬事業を畳んだことで人手が余ったのは事実なので、彼らを人手が足りない場所に派遣することで利益を得る事業を始めたそうです。その最初の契約先が、陛下――この国そのものということですね」

 ハイリアはいくらか驚いたが、納得して嘆息した。

「人材派遣業か。あの女、阿る貴族がいなくなると、なかなかやるではないか」

 三ヶ月少々幽閉されていたアナスタシアに下された処分は、皇族からの除籍処分だけだった。処分が軽すぎると批判もあったが、貴族が彼女を馬鹿にして不正を働いたのが悪いとエルリッドは一喝した。その軽すぎる処分は確かに妥当ではなかったが、様々な箇所で抱えていた人材不足を的確に解消しつつあった。

 孤児院の再建が終われば、その人材は他に回せる。たとえば、魔薬被害で汚染した大地を回復させようとしているトラヴィス商会とかだ。もちろん、孤児院で子供の世話をする仕事でもいいのだ。最初に選んだ契約相手が国だったというのも、一度落ちた信頼を取り戻すことに繋がるだろう。

「ラディッシュ社に向かえば、誰でも何かの仕事が得られるような日が来るかもしれないと、陛下が申しておりました」

「オルフェリアでは、これまで人材そのものを扱う商売は性産業くらいしかなかった。アナスタシアが性産業から着想を得たのかはわからんが、実は非常に画期的だ。オルフェリアの経済界は、変わる時期かもしれん」

 それは悪い変化ではないだろうと、クレールは思った。


 帰りの道中、クレールはカナンの花亭からひとりの女が出るのを見た。

 カナンの花亭は営業前だから、女が必要なのはサラの情報だったのだろう。特に気にするような光景ではなかったから、クレールはそのまま実家の離れに向かうことにした。

 サイラスは、妻との間に生まれてきた子供にソレイユと名付けていた。どこの国の言葉か知らないが、太陽と言う意味らしい。

 クレールの休暇に特に目的はなかった。強いて言えば、食事に行く約束をしている相手が何人かいるくらいだ。だから、とりあえず兄夫婦の家事でも手伝うつもりだった。ソレイユが生まれてからはあまり料理をする余裕がないようだと、グレンから聞いている。

「あの、すみません」

 不意に背後から声をかけられた。クレールが立ち止まると、声の主は彼の前を回り込んだ。先程、カナンの花亭から出てきた女だった。足が速い。回り込んできた身のこなしも、ただ者ではなさそうだった。

「俺に何か?」

「道を尋ねたくて」

 服装は旅人のものだ。微かに裾が擦り切れているから、旅には慣れているようだ。首飾りはオルフェリアの娘たちの間で、五年ほど前に流行したデザインのものだった。今は帝都でこれを身につける女はもういないが、さほど時代遅れとは感じなかった。

 道を尋ねるのに、軍服を着た者を選ぶのは間違っていない。ほとんどの場合、彼らはその土地で任務にあたっているから、土地勘がある。

「いいよ。どこに?」

「えっと、クェシリーズ伯爵邸に」

 クェシリーズと発音した彼女の語調は、いかにも読み慣れない呪文のような言葉を読み上げたかのようだった。オルローザからだいぶ離れたところから来ているのだろう。

「そこに、お医者様がいると、聞きました」

 実家の医者と言えば、サイラスだけだ。医者を探してサラに聞いたというところだろうか。それは、患者本人でも患者の身内でも考え得る話だ。

「クェシリーズ邸は、俺の実家だ。今から帰るところだから、案内するよ」

「ありがとうございます」

 女は実家だと聞くと少し驚いたが、その厚意には甘えるつもりでいるようだ。

 道案内を求めた旅人に、案内すると言って変な場所に連れ込む不届き者が、時々いる。彼女は警戒心こそ見せなかったが、実際には周囲を注意深く窺っていた。相手が軍人の格好をしていようと、油断しなくていい理由はない。正しい判断ではあるが、身のこなしの軽さといい、普通の女ではない。

 実家の敷地に入り、離れを指さした。「ここが、クェシリーズ邸で、あっちが離れ。うちの兄貴、離れを診療所に改修して医者をやってるんだ」

 簡単に説明しながら、診療所の扉を開く。ここまで歩いてきた感じで、女自身が病気や怪我を持っていることはあまりなさそうな気配だった。

 中に入ると、グレンが掃除をしていた。こちらに気付くなり、掃除の手を止める。

「クレールさん、おかえりー。あのときのお姉さん。リーシャさん、だっけ」

「お久しぶりです」

「アーサーに用事?」

 リーシャと呼ばれた女が頷いた。アーサーを探していたと言うことか。居場所は、主治医に尋ねるのが早いと思ったのだろう。

「呼んでくるけど、静かにしててね。赤ちゃんが寝てるから」

 そう言って、グレンは去って行く。リュートの音と微かな歌声が聴こえてくる。子守歌でも歌っているのだろうか。それで本当に眠るのならば、たいしたものだ。シェリルがあまりよく寝られていないらしいから、今は貴重な休息だろう。

「兄貴の子供、最近生まれたばかりなんだ」

「そうだったんですね」

 グレンが部屋で声を掛けたのか、歌が聞こえなくなった。次に現れたのは長い黒髪の若者だった。

「お久しぶりですわ、アーサー?」

 リーシャの声が不意に明るいものになった。アーサーが目を丸くしたのも束の間、リーシャが一歩前に踏み出す。彼の身体は、宙に浮いていた。次の瞬間には、両腕で抱きかかえられていた。

「テイレシアから、かどわかしに来ました」

 リーシャの声は穏やかだった。

 さすがにそれがテイレシア流の挨拶のはずがない。

 アーサーはどんな女の婿になる気なんだと、クレールは本気で首を傾げた。

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