31

 遠く潮騒が聞こえてきた。

 禁足地である離島シルに、自生する自然など何もなかった。遮る木々がないからこそ、終着地である洞穴はすぐに見つかった。ただ、距離はそれなりにあるようだった。

 勇者と魔王は、洞穴に向けて歩き出していた。洞穴の奥で魔王は負の器となり、勇者に破壊されてその生涯を終える。勇者もまた、その負に触れて命を落とす。ふたりは、そう聞かされている。

「人は誰でも、自覚の有無はさておき、多少の負を抱えている」

 魔王が、歩きながら呟いた。勇者にその表情は見えない。彼女は、思っていたよりずっと小柄な娘だった。思わず見上げてしまいそうなほど、大きな存在なのに。

「その『負』が世界を滅ぼすのならば、人類はいてはいけない存在だ。負を浄化するというのは、人類の進化の過程を否定する。不便という負を感じるから、便利な技術が生まれてきた。負を原動力に前に進んだ人類史は、列挙すればキリがないと言っても過言ではない。負を否定するとは、人類への否定そのものだ」

「なのに、どうして浄化するのか、か」

「たぶん、その答えが、この先にあるのだと思う。――あたしたちは、本当は何を浄化しないといけないの?」

 魔王は、最後まで言葉を言い切ることはなかった。

 不意に物音が聞こえた。風に、枯れ木が揺れる。地面に何かを引き摺ったような音が聞こえる。彼女が顔を上げる。

「何かいるね、この島」

「えっ、何が?」

「さあ」

「この島に、原生生物がいるとは思えないんだが」

「あたしもそう思う」

 魔王が肩を竦めた。その表情は冷静そのものだ。幽霊などと、冗談を言いたいわけではなさそうだ。

 不意に、彼女が足元の草を見下ろしていることに気付いた。まだ青い。自然が自生しないというこの島で雑草を見ることができるのは、意外だった。

「あえて言えば、外来生物」

 魔王が、無造作にその草を靴の踵で潰した。残酷なことをすると思ったが、彼女は容赦なく踏み潰す。

「これは、ジュネ草だ。どんな土地でも生えてきて、自分を育てた土を駄目にして成長する。これを製粉すると、魔薬になる」

「魔薬?」

 彼女が草を潰す理由がはっきりした。魔薬でオルフェリアの土壌が汚染されて、テイレシアとの戦争の遠因になっていると聞いた。

「人が住んでいないこの島で、どうやって自生したのかは、わからないけれど。ここに他の自然が自生しないのも、これのせい」

 洞穴から、何かが飛び出したのがわかった。

 魔王が、腰に手をやった。「銃はないんだった」呟いて、剣を掴んだ。赤い宝珠が光る。彼女は、飛び出してきた何かを斬りつけた。何かが頽れた。人間だった。

「外来生物かつ、変異種ってところか」

 彼女は、自分が切り倒した闖入者に腰を下ろした。

 人を斬っても平然としていられる魔王が、勇者にはよくわからなかった。それが、戦場を生き抜くと言うことだ。自分で軍を率いた経験など、子供の遊びですらない。

「魔薬にやられたね。かなり狂ってしまうと、魔薬さえあれば、何も食べなくてもどうにかなるくらい、生命体としておかしくなるんだ。新しい人類が生み出せるかもなんて馬鹿なことをほざいてた学者どももいたらしいけれど、心身汚染はここまで来ると死んでもらうしかなくなる。摂理の中で生きられなくなる」

 魔王は斬り倒した相手の身体を軽く揺する。随分古いのかぼろぼろだが、服は着ている。そして、手に何か握っていた。枯れかけた草だ。

 誰なのかと、問えなかった。着ている服に、覚えがある。

「テイレシア王家の、薔薇の紋章だ」

 呟いてから、だがそれが最も妥当なところだと気付く。植物が生きられない禁足地にいる人間は、過去の勇者くらいしかいない。魔王は勇者に討たれている。

「これではっきりした。魔王を殺すくらいで、勇者は死なない。ただ、魔薬にやられるか、魔薬にやられた過去の勇者に殺される」

 先代勇者ハイリアは、偶然にも過去の勇者に遭遇することなく、残してあった船で島を脱出した。それだけだ。

 魔王は、立ち上がって勇者を見据えた。

「あたしは、生き延びてしまった過去の勇者を全員倒して、倒されよう。これからも、船を壊さなければ勇者は生きて帰れる存在になる。この世界は変わる。勇者が犠牲にならなくていい世界に」

 彼女は、笑っていた。

「――生きて、あたしの勇者様」




「俺は、それを叶えることはできない、セレスティア」

 レイドリックは、はっきりとそう言い切った。

 ここで生き延びてしまった歴代勇者たちを倒してしまうのは、正しいだろう。摂理に反して生きている先人たちを、魔薬から解放して、正しく弔ってやりたい。そして、それをしてやれるのは、セレスティアだけだと、思っていた。

「負を浄化する行為は、人間を否定すること。さっきそう言ったはずだ。ならば何故、あなたは負の器になって倒されてまで、人間を否定する? ていうか、負なんて消せるはずないだろ。俺が死んだら、たぶん妹と友達が悲しむ。それは負だ」

「あたしには、そんなのはいない」

「育ての父上がいるだろ。あの人は、たぶん悲しむし、今も悲しんでる」

 セレスティアが言葉に詰まったのが、わかった。

「もし、俺と妹のどちらが勇者になるかでテイレシア国内が揉めたら、それは争いの火種になるよな。もしかしたら、国家の存続が危ぶまれるような内乱になるかもしれない。さすがにその負は、世界に影響がある」

 戦争は、軍人も戦場近くの民間人も犠牲にする。農地が荒れれば食事に困るし、物流が滞れば戦場から離れた人々にも影響が及ぶ。国が分裂して起こる内乱は、他国を巻き込むこともある。戦争で活性化するのは、軍と武器商人くらいだ。

 確かに戦争は歴史を塗り替えてきた。戦争によって歴史が積み上げられたことも、否定できない。

 だが、倫理的な視点でも、人類史の文化的成長の視点でも、戦争は害悪だとしかレイドリックには思えない。だからテイレシアは、国防は強化したが戦争は長らくしていなかった。

「勇者と魔王が消し去ったのは、おそらく戦争という負だった」

 伝承の戦いは、戦争を中断させるのに、意外なほど悪くない手段だった。

 世界の危機を前に、隣人同士で争っている場合ではない。戦争責任など、魔王を諸悪の根源にしてしまえばいい。勇者が死んだのは誤算だったかもしれないが、双方が死ぬのは喧嘩両成敗みたいなもので、魔王側の国の民はそれである程度納得できていた。

 それから、勇者と魔王という名前を背負っただけの犠牲者たちは、世界平和のためだけに、何度も生贄の儀式を繰り返してきた。

 十五年前に戦争は起きなかったが、はじめから戦争が起きないように定期的に行う伝統でもあったのかもしれない。銀色の髪を持つオルフェリア皇族は、ただの遺伝だろう。

 偽の魔王だったウルフガング四世は、その視点で言えば役目を正しく果たせていた。ただ、問題はその後即位したアナスタシアの悪政にある。彼女の政治は結果として帝国内に魔薬を流通させて大地を汚し、戦争を導いた。それは、彼が偽者だったこととは関係ない。

 此度の戦争は、勇者も魔王もなく、自ら終わらせることができた。魔薬で汚染された大地は、時間をかければ元に戻す手段を見つけた。

 ならば、勇者も魔王も必要ないのではないか。むしろ、必要のない世界に、変えるべきではないのか。

「俺は勇者として、俺が望む世界を進みたい」

 レイドリックは、穏やかに言った。

「セレスティア。あなたが生きている世界が、俺が望む世界だ」

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