30

 七六五年、七月の晴れた日だった。

 フォランの港から、二隻の船が出ようとしていた。どちらも小ぶりなものなので、釣り船のようにしか見えないだろう。

 二隻の船は、どちらもアマツチ巫領のシル島に向かう。

 勇者と魔王は、別の船に乗るのがしきたりだ。巫覡がどちらに乗らなければならないのか、現地まで漕ぐ船頭を誰にするかなどの細かいことは決まっていない。

 無事にシルに上陸したら、勇者が乗っていた船に巫覡が乗り、アマツチに帰ることになっている。

「魔王が乗っていた船は、どうするのですか?」

 ヴァイオラの問いに、シキが答える。

「魔王の船は、巫覡がシルを発った後、勇者と魔王が破壊します。少なくとも、わたしはそう聞かされてきました」

 その含みのある言い方の意味は、なんとなく察することができた。

 先代勇者ハイリアが魔王討伐に失敗してから、本土に戻れたのは何故か。

「そもそも、勇者も魔王も死ぬのだから、わざわざ船を破壊しなくていい」

 言葉を引き取ったのはハイリアだった。「ウルフガングは、そう言った。確かにその通りだと思ったので、わたしもそれに同意した。今思えば、彼奴あやつはわたしが生き延びる可能性に気付いていたのだろう」

 その可能性は、真実になった。

 ハイリアは、ウルフガングが残してくれた船に乗って島を離れた。船など漕いだこともなかったが、天候や方角も幸いして、彼は無事に帰港することができたのだ。

「父上は、生きてください」

 レイドリックは静かに告げた。

「あなたには、テイレシアのためにオルフェリアでやるべきことがあるはずです」

「国交正常化だな。宰相の地位はもうないが、まあ、できることはあるだろう。その任務は確かに、おまえよりもうまくできそうだ」

「俺も、そう思います」

 その言葉に、ハイリアは頷いた。

「それじゃ、ロラン。おまえは国境の辺りまで父上……いや、エドワード殿とシリウス殿をオルフェリアまで送って差し上げろ。お望みなら、王都まで案内しても構わない。祖父上には、俺が許可したって言っておけ」

「承知しました」

「そんな顔をするな。おまえが、俺の代わりに勇者になろうとしてくれたこと、立場上怒らないわけにはいかなかったが、本当はそんな風に思ってもらえる主人になれたことは嬉しかったんだ。王都に帰ったら、祖父上とヴァイオラを頼む。俺がいなくなってからのふたりを支えてくれ」

「僕にできるのなら」

 ロランは小さな声で呟いてから、はっきりと顔を上げた。その顔は、無理に作ったような笑顔だったが、少年の震える口調は穏やかだった。

「レイドリック様の、最後のご命令、必ずや全うします」

 レイドリックは、硬くなるなと言うこともなく、ゆっくりと頷いた。

 セレスティアがシリウスに何も言わずに、魔王の船に乗ろうとしていた。

 ヴァイオラは、彼女が乗る魔王の船に乗る予定だった。一度同行して、シキと共に勇者の船に乗ってアマツチに戻ることになっていた。彼女の公務は、まだ残っている。本当なら、この港にいるべきでさえないのだ。

 レイドリックは、勇者の船に乗り込んだ。どちらの船にも船頭がいる。海を、二隻の船がゆっくりと漕ぎ出していく。

 やがて、少しずつ海の果てに、船が消えていく。

 それぞれの信念や願いを退けられた男たちは、視界から船が消えても海を見つめていた。

 彼らの視線の先には、地平線などではなく、世界のてがあった。







 船が少し揺れていたが、誰も酔ってはいなかった。

 レイドリックとシキが乗っている勇者の船は、安全な航路を辿っているようだった。同じ海が続いているようにしか思えないのに、船頭もシキも現在位置を理解していた。魔王の船も、穏やかな海を進んでいるようだった。

「辛いものだな。友達がいなくなると言うのは」

 シキが、小さな声で呟いた。

 彼には許嫁ナダがいる。レイドリックが公務に行った時にはまだ出会ってもいなかった少女だが、婚儀には是非出席したいと思っていた。その望みも、叶うことはないだろう。

「そんな風に思わないでほしいと、レイが思うことくらい、わたしにもわかっている。だが、自分の感情というのは簡単に否定できるようなものではないのだ」

「三年前に初めて会ったときは、こういう別れ方するなんて思わなかったよな」

「そもそも、わたしは友達になるとも思っていなかった」

 その一言に、レイドリックが吹き出した。

 言いたいことはわかる。巫覡は貴族ではないから、本来は身分がかけ離れた間柄なのだ。巫覡にさえならなければ、シキは今頃実家で農夫として畑を耕していた。

「俺の名前がアマツチでは発音しづらいから、レイって呼びたいって言われた時、俺は嬉しかった。そう言うの、今までなかったから」

「そう言うことは、もっと早く言うべきだ。本当は畏れ多かった。それに、今になって素直になるのは、はっきり言って少しずるい」

 シキが苦笑した。気の抜けたような態度をようやく見せたなと、レイドリックは思う。

 若くして巫覡になった彼には、相応の重圧があるはずだ。

 それは、自分は王になる男だと思い続けてきたレイドリックにもわからないでもない心情だった。早くにその重圧から抜け出したのは、ヴァイオラの方が圧倒的に王の器であることがわかったからだったかもしれない。彼女は聡明で凜然としていて、そして誰もが彼女の姿を見て仰いだ。

 ヴァイオラは王の器だ。それを確信するのは、レイドリックは王の器などではないと自覚させられることと同義でもあった。

「俺は王様の孫に生まれてきただけの、ただの男なんだ」

 レイドリックは、ぽつりと呟いた。「俺は、何かの才能がある男でもないし、誰よりも愛されるような男でもない。平民だったら当たり障りなく生きていけただろうに、どうして王子なんかに生まれてきたんだって、何度も考えた」

「勇者になるためだと思うか?」

「わからない」

 レイドリックは肩を竦めた。

「何かを成したいとは、思ってきたけど」

 勇者はただの人間だと、セレスティアも言っていた。つまり、たとえ勇者になったとしても、普通の人間であることには変わらない。それを、ただの男でなくなると言えるのかどうかは、レイドリック自身の気の持ちようだろう。

 何者かになりたい。他の誰もできない何かを成す男になりたい。

 そう願うのは、優秀な者が周囲に多すぎるからか、彼自身が己の世界しか知らない若者だからか。ただ、彼の場合は王子という立場に生まれてきてしまった故の負い目があるだけで、それ自体は多くの者が一度は夢見る願望ではあるかもしれない。そのために行動に出るか、多くの誰かのひとりの枠に収まるかは別だ。本当に何者かになれる者は、本人が願っても願っていなくても、勝手にその姿になっていくものだ。

「俺は王には向いてない。俺には他に、向いているものがある。たぶん、それだけのことだ」







 水面に船は揺れていた。

 初めて海を見た翌日には、船に乗っている。それはセレスティアにとって、少し不思議なことにも感じた。世の中の酸いも甘いも知っていると思っていたが、船の揺れは初めて経験する。

「朝食は、口に合いましたか?」

 ヴァイオラが、なんでもないようなことを尋ねてきた。

 今朝出立した宿で、簡単なものを食べたのは記憶にある。テイレシアの料理だったが、不味くはなかった。死ぬ前に食べるものは、普通のものがいいと思っていたから、当たり障りがないもので良かったような気がする。

「空腹も、船酔いの原因になるそうです」

 セレスティアの回答を聞くと、彼女は質問の意図をそう話した。

「そうなの?」

「もちろん酔う条件はそれ以外にもありますが、ちゃんと口にされていたようで、何よりですわ。船酔いと言うのも経験かもしれないですが、今日はさすがに嫌でしょう?」

 それはその通りだ。

 十五年待ち続けた大切な日を船酔いで終えるのは、さすがに気分がよくない。今更、日を改める気もなかった。

「この世界に蔓延っては世界を破壊しようとする、負とは何なのでしょう」

 ヴァイオラは、不意に呟いた。彼女は、ゆっくりと空を見上げた。穏やかな晴天を、渡り鳥が飛んでいった。

 鳥は自由だと羨んだ時期が、セレスティアにもあった。たぶん、姫君として育ったヴァイオラにも。

「魔王とはこの世の負の器。それを破壊することで、世界は束の間の安寧を得られる。それが本当に安寧とか平和とかと呼ばれるものなのか、わたくしは何度も己に問いました。勇者と魔王を犠牲にすることで得られる束の間というものに、何の価値があるのだろうと」

「わからなくはないな」

「王になる女として、テイレシアという国家と民を存続させる責務を負う者として、間違っている問いだとはわかっております。ただ、わたくしは、兄を失うことで自分が得てしまう負にどう向き合えばいいのか、どうしてもわからない。負を浄化すればまた新たな負が生まれるこの矛盾は、いったい何なのか」

 空を飛ぶ鳥は、突風に巻き込まれて翼を失い地に落ちるかもしれない。生命の連鎖というのは、その鳥を補食する天敵の存在を示す。空を飛べば、地上を歩むことはできなくなるだろう。それは、自由と言えるのだろうか。

「それは、輪廻というものだよ」

 セレスティアは、口をつくように答えていた。

 勇者と魔王の周囲の人間が悲しむことを、彼女には止められない。あるいは世界の理不尽に憤るかもしれない。その憤りもまた、やがて世界を脅かす負になるだろう。世界など滅ぼしてしまおうと思う者も、いるかもしれない。

「たぶん、今まで多くの人がそれを疑問に思いながら、誰も何もできなかった。その歴史が積み重なっている」

 きっと父は、幼い娘を犠牲にする理不尽に、自分の方法で抗おうとしたのだ。セレスティアを犠牲にすれば世界は安寧が訪れるだろうが、それは、父が望んだ世界ではなかった。父はずっと馬鹿な奴だと思っていたが、今にして、その想いは理解できないこともなかった。

「あえて言うよ、ヴァイオラ」

 彼女は勇者の娘で、勇者の妹で、もしかしたら勇者の母や祖母になるかもしれないから。

世界みらいを変えることができるのは、引鉄を引ける奴だけなんだ」







 禁足地である離島シルは、荒れ果てていた。

 人が立ち入らないこの島は、人の手に付かない自然に満ちた場所ではなかった。草花はなく、穴の空いた地面には薙ぎ倒されたり、捻れたようになった木が生えていた。土は、所々紫紺の色に染まっていた。

 船が停泊した浜辺には、破壊された腐った木材の破片が見えた。かつての魔王の船だろう。

「魔薬に荒らされた土地に似てる」

 セレスティアは小さな声で呟いた。魔薬に汚染された土も、こんな色をしている。その土から植物が育たないわけではないが、ほとんど毒物みたいなものばかりだ。あれも、もしかしたら魔薬を扱った人間の負を現したものかもしれない。

 この世のすべての負が、ここに集まっている。だから、ここに自然が自生することはないのだとシキが言っていた。それは、セレスティアにひとつの確信を与える説明だった。

 停泊した浜辺から、シキとヴァイオラがアマツチの島に向かって船を出した。

 島の中央に、魔王が負の器となって役目を終える洞穴がある。道程は平坦らしいが、洞穴の中はわからない。

「まず、この船を破壊するのか」

 レイドリックが、浜辺に残された船を見下ろした。

 世界みらいを変えることができるのは、引鉄を引ける奴だけ。

 自分が言った言葉を、セレスティアは思い出していた。

「破壊しなくていい」

「まさか偽者?」

「いや。さすがにそれはない」

 セレスティアは、苦笑してから、言った。

「レイドリック。あたしの勇者様。世界を変えて」

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