セレスティアの未来
29
潮騒の音が聞こえた。
シキの予想通り、フォランの港から見える海は荒れ始めていた。港にも時化の影響がありそうだったが、誰も動こうとはしなかった。いや、動けなかった。
「大きくなったな、レイドリック、ヴァイオラ。父親らしいことはあまりできなかったが、おまえたちが立派に成長してくれて、わたしは嬉しい」
ハイリアの口調は穏やかだった。すらりとした長身も、美形の風貌も、確かに兄妹に似ていた。年齢に比べて若すぎるように見えたが、変装の名手である彼の素顔を知る者はもともと誰もいないのだ。
彼が勇者に選ばれたのは、アマツチの公務を済ませており、王位継承権を放棄できる王族が彼しかいなかったからだ。アマツチに行かせるには、五歳だったレイドリックは幼すぎた。父に、国も妻子もすべて任せてしまうことに忸怩たるものはあったが、ハイリアは勇者になることを受け入れた。
フォランの港で出会った魔王が偽者だと、ハイリアは離島で知ることになった。髪の毛の色も黒髪を染めたものだとすぐに気付いたが、それでもシルに辿り着けば負を受け止める器になれるのだと、ウルフガング四世は信じて疑わなかった。
「確かに、わたしの役目は負の器の破壊であって、生まれつき髪の色が銀色だっただけの子供を殺すことではなかった」
それに、ハイリア自身が二児の父として、幼い子を死なせたくないと言う気持ちはわからないものではなかった。もし目の前に現れたのが幼い少女だったら、いくら使命でも殺すとなればさすがに狼狽えるだろう。
「しかし、物事は理想的には進まぬものだ。わたしはウルフガング四世を討ったが、生き延びた。彼奴が本当に負の器になっていたら、その負に触れてわたしもまた生きてはいないはずなのに。そのとき、わたしはやはり真の魔王を討たねばならぬと悟ったのだ」
生き延びたハイリアは、本国に帰ることもなく真の魔王を探し当てるために、オルフェリア皇族の動きを探った。
情報部は皇族の情報を集めるために組織し、宰相の地位は勝手に与えられたものだった。邪魔な地位ではあったが、人事を動かせる者を取り込む必要がなかったのは楽だった。
「わたしはずっと、このときを待っていた。真の魔王が、この港に訪れる、このときを」
「何故?」
「愚問だ」
ハイリアは即答した。
「あの日、わたしが勇者として成すべきだったことを成す。それだけだ」
勇者として成すべきこと。それは、魔王を討伐することだ。
「兄上の代わりに勇者になると仰るのですか」
ヴァイオラの問いに、ハイリアが頷いた。
「どなたが勇者になるかと言う問いに対しては、王でもなければ魔王でもないわたくしに関与できることではありません。ただ、あえて申し上げます、あなたは身勝手ですわ」
「身勝手だと。まだ若い息子に代わって自ら人柱になる道を選んだ、このわたしのどこがだ」
「あなたは、オルフェリアでやるべきことを放り出して、兄の覚悟を無視している。そのどこが、身勝手でないと?」
ハイリアが押し黙ったのがわかった。
「わたくしは、王になる女だから、祖父上の決断と兄上の覚悟を尊重します。王たる者の最低限の責務は、国家と民を存続させること。兄上は己が王になど向いていないなどと仰いますが、国家を守るための選択は、王家に連なるからこそできるもの。王の器とは、そういうものです」
不意に笑い声が響く。その笑い声は、遠い海の波に溶けていくようだった。
「何だ。そういうことだったのか」
レイドリックが場違いにも思える声を上げて、笑う。「ヴァイオラのことだから、代わりに自分が勇者になるだとか言うのかと思ってた。アマツチで成長したって祖父上が聞けば、安心するだろう。シキに預けといてよかった」
「レイ、わたしを褒めても何も出ない」
「別に何もいらねえって」
肩を竦めて笑うと、彼はヴァイオラの頭をそっと撫でる。それを少し嫌がるように、彼女は頭を振った。その振る舞いに苦笑してから、ハイリアを見据えた。
「当代の勇者は俺です。反抗期だと思って諦めてください、父上」
「祖父には従って、父には刃向かうのか」
「ご冗談を。祖父上は、勇者に向いている者などこの世にはいないと言いましたが、俺は誰よりも勇者に向いていると自分では思います。たぶん、父上よりも」
絶句したハイリアの口からは、馬鹿者、と言う言葉が出るのがやっとだった。
――そんな反抗期が、あってたまるか。
*
雨が降り出した。
船を出すのは明日以降だと判断し、フォランの港にある、小さな宿屋の部屋を借りることにした。
明日には晴れると、シキは言っていた。どうやって天気を読んでいるのかわからないが、そこまで雨が長続きしないのならば、無理に船を出すこともないだろう。
「言い忘れてた」
不意に、セレスティアはシリウスに声をかけた。
「ヴィンセント子爵の孤児院を復興して」
その言葉を聞いたシリウスは、目を丸くして彼女を見上げた。これから魔王として死のうとしているのに、彼女は。
「かしこまりました、殿下。確かに伝えます」
「よろしい」
彼女は満足げに頷いてから、腰につけていた拳銃をホルスターごと外して、シリウスに渡す。
「クロエにあたしの形見を」
「形見にしては、些か物騒すぎるかと」
「戦争と人間関係は少し似ているの」
シリウスが受け取る気配がないのを察して、セレスティアは使い込まれた革製のホルスターを指先で軽く弄んだ。ホルスターの皺は、腰の形を覚えていた。
「戦争は、勝てる見込みがあるから仕掛ける。攻めると痛い目見そうな国には、よほどの大義がない限り、攻め込まない。だから軍は、外敵から攻め込まれないように精強である必要がある」
「……あの子も強くならないと、様々な外敵から身を守れないと?」
「そう。見せかけのものでも、多少の抑止にはなる。攻撃したら痛い目見る相手に攻撃するのは、物凄い馬鹿なことをしたか、相手が物凄い馬鹿のどちらかだろうから」
「確かに、あの子は世の中の悪意が怖くて、外に出られない子になった」
シリウスはしばらく逡巡してから、答えた。
「いただきます。娘の手は、ものを産み出す手で、誰かを傷付ける手ではないと思っていましたが、身を守るために最低限の扱いを学ばせます」
「それがいい。少し身体が弱いけれど、器用で眼がいい子だから、筋は悪くないはず」
セレスティアがホルスターごと差し出した銃を、シリウスは受け取った。
「ドーラ・キー・二五式か」
拳銃を引き抜く。使い込まれた拳銃の型式を示す刻印は、擦り切れていたが、十二年前に発売されたものだと読み取れた。エミリューレ・ヴァレリアの名前が、刻まれている。少し字が歪だから、自分で買った中古品に、自分で刻んだのだろう。
「ドーラ・キーは娘が持つには大きすぎますので、そのまま持たせても見せかけだとばれるだけでしょうね。手に合うものを探して、持たせます。ホルスターは使い込まれている方が役に立つ」
「いい考えだ」
「この銃は、預かります。いつ、帰ってきてもいいように」
セレスティアは、その一言に絶句した。
シリウスの眼は、冗談を言っている眼ではなかった。そもそも冗談としては、縁起が悪すぎる。
「君はわたしの娘で、娘の姉なんだ」
――たとえ血が繋がっていなくても、友の娘でも、祖国の皇女でも、主君の姉でも、生きていてはいけない魔王だとしても。
「わたしは自分の娘が死んでもいいと思うような、
シリウスは、自分が父だと信じて疑わなかった。
友が、彼女が生きることを願ったなど、かつての約束など、もう関係なかった。シリウス自身が、彼女に生きて欲しいと願った、ただそれだけなのだから。
「一度しか言わない」
セレスティアは、ぽつりと呟いた。
「クロエにもエルリッドにも、シリウスやクレールとか他の奴らにも、してやりたいことがまだたくさんある」
彼女の言葉は、シリウスを無視するように続いた。
「海も知らなかったあたしの世界は、まだ狭い。もっと広い世界を見て回りたかった。テイレシアの王都はテリアレーンだったか、あそこは王様が好む色の薔薇が咲いていて、いつも綺麗なんだって。アマツチはあたしが想像も及ばないような、着るものも食べるものも違う場所らしい。見てみたい。全部、見たいに決まってる。どうして、あたしにはそれができないの。どうして、できない全てを魔王だからとか運命とか宿命とか、そんな馬鹿げた言葉で片付けないといけないの」
彼女は生きたいのだ。どんな言葉を掛けてやればいいのか、シリウスにはわからなくなった。
生存本能は、他のどの欲求よりも頂点に君臨するべきものだ。それは当然のことなのに、生まれながらにそれを否定された彼女は、どんな思いで、どう生きてきたのだろう。
誰にでも、命には限りがある。それは、二十年以上も軍人を続けているシリウスにはよくわかることだった。戦場では、自分より若い仲間が死んでいって、自分より若い敵を殺さないといけない。英雄とは、誰かの死の上に成り立つ、残酷な称号でしかない。
それでも多くの場合、人は、生きている瞬間をそのままに受け入れることができる。ただ、生きることを否定されたセレスティアにとって、それは死に近付くだけの時間だったのかもしれない。
「なんてね」
セレスティアが乾いた声で笑った。
それは、これまで聞いた言葉の中で、一番娘らしい言葉だった。
「これまでありがと、お義父さん」
彼女は薄い笑みを浮かべて、シリウスが呼び止めるのを振り返ることもなく、立ち去った。
明くる朝は、よく晴れた旅立ちの朝だった。
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