セレスティアの宿星

25

 七六五年、七月。

 テイレシア王国、属州アマツチ巫領は夏になった。

 今年のアマツチの夏は、あまり暑くない。人間にとって過ごしやすい気候だが、畑の作物は気になった。日照りがあまりよくない日が続いていた。シキは、毎日のように畑の様子を見ていた。その日も雨が降っていた。今年の収穫は期待できないかもしれない。

 ナダとリーシャが外出していた。リーシャの元許嫁が二度目の渡航から帰国するというので、見送っていたらしい。その男はアーサーだった。彼女たちはふたりとも、この男に用事があったのだ。

 アーサーが二度目の渡航で再会するなり、リーシャは彼を思いきり殴り倒した。彼は、そのまま大人ふたり分の距離だけ吹き飛び、壁に背中を強打した。女が拳ひとつで、大人の男を吹き飛ばした光景を見るのは、シキも初めてのことだった。

 その場にいた者が目を丸くした一方、ナダが笑い転げながら「あの子は、約束を守りました」と言った。あんなに笑うナダは珍しい。いいものを見たような気になったから、尚更アーサーが不憫だった。

 それからは、意外なほど穏やかに彼らの間の時間は回っていった。

 ふたりが許嫁の関係を捨てた経緯はわからないが、互いを想い合っていたのは変わらないようだった。人の恋路に首を突っ込むと碌なことにならないのが定番だが、今回ばかりはそうでもないらしい。

 アーサーはナダが用意した薬の原料を栽培する手段など、様々な質問状を用意していた。先方の商人はさすが製薬企業と言うべきか、薬に関する知識は驚くべきものがあった。アーサー曰く、商人の夫は医者だと言うことで、いざ投薬や治験となるとその男も関わることになるだろう。薬に効果があっても、それ以上に危険が及ぶ副作用があってはならない。

 オルフェリア帝国で、女帝が不祥事により廃位に追い込まれた。その混乱で、アーサーの帰国の手続きがうまく進まなかったようだが、若い新皇帝の即位によってやっと帰れるようになったのだ。

 そう言う話を聞いていたら、マキリが新しい知らせを持ってきた。

「オルフェリア帝国と、テイレシア王国の間で、休戦協定が結ばれたようです」

 戦争が終わると言うことだ。アーサーも安全に帰国できる可能性が高い。

 アマツチは中立領土なので戦争には関与していないが、本土に上陸してからは安全とは限らないのだ。ただ、テイレシアの国民性は少し不親切だが他人に危害もあまり加えないから、戦争さえしていなければほぼ安全とみて良さそうだった。

「オルフェリア側は皇女が、テイレシア側はレイドリック王子が締結に立ち会ったそうです」

「……皇女がいたのか? オルフェリアに?」

「皇帝の姉妹だと聞いています」

 その存在は初めて聞いた。

 マキリも名前すら知らないようだ。隣国の情報も、いくらか遅れはするが、シキはこの離島では誰よりも早く正確に得られるはずだった。

 ただ、シキの知っている限りでは、オルフェリアの皇帝には姉妹も兄弟もいなかったはずだ。突然現れた姉だか妹だかは、得体が知れない存在だ。

「それと、もうひとつ」

「ああ」

「レイドリック王子が、当代の勇者として王位継承権の放棄を発表いたしました」

 遂に訪れてしまった。

 訪れてはいけない、その瞬間が。







 テイレシア王国メオリッド州。

 オルフェリアとの国境付近に、レイドリックは向かっていた。周囲には、彼が自ら率いた王国軍が布陣し、オルフェリア軍と対峙していた。

 領主が水没させた街は、水が引けていた。領主の娘と共に避難していた人々は、その娘を中心に復旧作業にあたっていた。

 休戦協定の申し込み。それが、先方からの通達だった。新皇帝はまだ若い少年だというが、即位して選んだのが戦争の終結への道だった。もともと、戦争には反対だったのかも知れない。

 レイドリックは兵を引かせた。連れているのは、ロランだけだ。先方の休戦が本当でなくても、供回りはひとりで十分だ。

 約束した場所に、黒衣の若い女が立っていた。オルフェリアからは、皇帝の代理人に皇女が来ると言っていた。オルフェリアに皇女がいることを、レイドリックは知らなかった。

 その少し後ろに立っているのは、似たような格好をした中年の男だった。皇女の供だろう。

 近付いた。皇女の姿が、徐々に明らかになる。

 長い銀色の髪の頭には、黒い軍帽を被っていた。着ているものもまた黒く、軍服のようだった。装飾がついたコートの袖を通さず、肩から羽織っていた。袖口が、風に揺れる。腰には剣と拳銃を身につけている。

 服装だけを見ると軍人にしか見えないのに、堂々とした立ち姿のすべてが、高貴なものだと告げた。

 皇女はレイドリックの姿を確認して、前に出た。

「セレスティア・ルーデンベルグ・アルベルタインと申します。テイレシア王国の、レイドリック王子で間違いないでしょうか?」

「如何にも。レイドリック・アル・デューテ・テイレシアだ」

 彼女は、青い瞳に笑みを浮かべていた。

「あなたに、会いたかった」

 そして、まるで恋に落ちた少女のように、甘く柔らかな声で、されども凛とした口調で言った。

 レイドリックは、何故かその言葉の意味を正しく理解して、頷いた。

「俺も、あなたをずっと求めていたように思う――魔王セレスティア」







「アマツチの地下には、こんな空間が広がっていたのですね」

 キョウの都には、広大な地下空間がある。そのことを知っているのは、歴代の巫覡たちと彼らのナダ、そしてテイレシア王家の者たちだ。

「ここは、古来より続く墓地」

 シキは、石段を降りるヴァイオラに手を差し伸べながら、ゆっくりとした足取りで地下に降りた。

 地下墓地の内装は、美しい装飾が施されている。壁には帯電石が取り付けられており、薄明るく灯されていた。

 今では使われることは滅多にない電力源に、歴史を感じさせられる。アマツチは離島という都合上、あまり電力は普及していなかった。今でも、夜間の屋内照明と食材の保管に使われるだけだ。地下にまで回す電源はないのだろう。

 薄明るい地下空間に、墓標が並んでいた。

「我ら巫覡の役目とは、即ち墓守に近い。この墓地に眠る英雄たちを供養しながら、テイレシア王家に伝えることが、我らの使命なのです」

「全く文化や風習、統治の在り方まで違うアマツチがテイレシアの領土として扱われるのは、国防ではない理由があったのですね」

 ヴァイオラが呟く。

 レイドリックとは違う反応だった。彼は、王家の者がアマツチに行く公務をこなすことを義務とする理由に、この墓場を知らねばならないという事情があるからだと呟いた。

 どちらも、正解だった。

「それでは、シキ殿。この墓場に眠る、英雄とは?」

 地下墓地に眠る墓石は、どれも二対ずつ並べられている。それにも、理由があった。

「ここに眠る英雄は、勇者と魔王です」

 テイレシア王家の者は、世界に危機が訪れたとき、魔王を討伐する勇者になる。勇者に選ばれた王子や王女は、理由を問わず王位継承権をその場で放棄する。

 ――それは、魔王を討伐する際に、勇者もまた命を落とすからだ。

 レイドリックから受け取った手紙には、自分は遠くないうちに勇者になるだろうから、次の王となるヴァイオラをよしなに頼むと綴られていた。

 事実を知れば、ヴァイオラはおそらく自らが勇者になると言い出して、本土に戻ろうとするだろう。だから、彼女が事実を伝え聞かされる時にはもう手遅れになっているようにしてほしいと。レイドリックは当代の勇者になった。もう、彼は引き返せない。シキ自身も。

「魔王が勇者に討伐されるとき、魔王はこの世界のすべての負をその身体に閉じ込めます。そして討伐されることでその負がこの世界から浄化され、世界は救われます。ただ、魔王が引き受けた負に触れてしまうことで、勇者は命を落とす。この墓地は、身を呈して世界を守り、命を落とした勇者と魔王のものです」

 しかし、その世界の負も、やがて戻ってくる。

 人の心に眠る欲望や悪意は、世界に少しずつ負を植え付ける。それが蓄積されて、崩壊が近づいた頃に、魔王が生まれる。

 魔王は生まれたときから自分が魔王だと心得ており、世界を救うために指名された勇者を受け入れる。あるいは、勇者が魔王を受け入れるのかもしれない。

 アマツチからさらに離れた離島シルで、勇者と魔王はその終焉を迎える。巫覡は、彼らを導き、そして未来に繋げるのが存在意義だ。遺体は回収できないが、死を悼み、弔うことはできる。

 手紙を受け取ったとき、シキはレイドリックが勇者になるなど、現実にならないことを願った。

 だが、オルフェリアのトラヴィス商会曰く、帝国内の不正により大地が失われる危機は既に訪れており、それが戦争の遠因になっている。戦争は、オルフェリアとテイレシアを中心に、大陸中に負を植え付けている。

 この世界にある負の根元は人間にあるから、人類がいる限りどうあっても消えることはない。だから、伝承の戦いは幾度となく繰り返される。

 魔王は、勇者に討伐される宿命を背負っている。当人が邪悪を成す気がなくても、世間からは邪悪として滅ぼされる。しかし、本当に邪悪だったらおとなしく討伐などされないだろう。

 一方で勇者はただの人間だ。世界のために命を手放す人柱に、自らなろうという者はなく、だからこそテイレシア王家はその役目を引き受けた。歴代の王は、人柱になる子と跡継ぎの子を作ってきた。

 王家に生まれた勇者という崇高な肩書きを、人柱に与えてきた。子に死んでほしい親などなく、兄弟に死んでほしい者もいない。それは、王であっても変わることはないのに、彼らは王としてその残酷な理不尽を呑み込んできた。王は、悲しいほど傲慢で高潔なのだ。

「あなたの父上は、十五年前に勇者になりました」

「そう、ですか」

 ヴァイオラの表情はわからなかった。

 ただ、事実を聞かされても、レイドリックより落ち着いていた。それは単に、父親と死別した当時は二歳だった彼女には、父の記憶がほとんどないからだろう。レイドリックは、幼いながらに父親の記憶は持っていた。だから、父の死の真相に少なからず衝撃を受けた。

「何故、兄上が勇者にならなければならないの」

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