23

 六七五年、六月。

 女帝アナスタシアによって、黒竜師団の団長と副団長が招集された。

 エルリッドは、概ね予想通りの方向に女帝を動かしたと、エミリューレは悟った。

 ラディッシュ社の魔薬取引に、アナスタシアは関与していない。自分の地位を少しでも安定させるために彼女が選んだのは、軍を動員して何かを取り締まらせることだ。見せしめであればよいので、それは魔薬ではない別の何かでもよかった。たとえば、罪のない何かであったとしても。

 女帝の名において、多くの被害者を出すような不正を許すわけにはいかない。軍に取り締まらせることで、その立場を行動で示そうと言うのだ。その上、実家の身勝手な行動に憤る娘を演じることさえできる。魔薬取引に一切の関与をしていないとする彼女の主張も、多少通りやすくなるだろう。

 軍を動員させ、民に代わって身内の不正に鉄槌を下ろす。それが、クレールを利用したエルリッドの進言だったのだろう。

 ただし、アナスタシアは国家存続のためにと銘打って多額の金を実家から毟り取っていたし、先代の黒竜師団長である親戚のレナートが死んでも特に感情は見せなかった。彼女は実家に憤ってはいないのは明らかだろう。利用するだけ利用して、冷徹に切り捨てることのできる実家など、たいした感情も抱いてないと見ていい。

 エミリューレはシリウスを伴って、招集命令に応じた。

 就任式に出た時の大広間と同じ場所だったが、重い空気が張り詰めていて、物々しい。玉座の奥に、真紅の生地に黄金の糸を縫い付けた、オルフェリアのタペストリーが飾られている。装飾品の類は片付けられていて、簡易儀礼用の装備を身につけた兵や、やけに重たそうなローブを着た文官たちが彫像のように並んでいた。

 この城から引き離されたのは、まだ幼い頃だった。この大広間が本来どのような姿をしているのか、よく覚えていない。

 玉座の隣に、皇子が控える。その少し離れた横に、クレールが立っていた。

 黒竜師団が選ばれた理由は、予想できている。他の師団の長たちは、どれも貴族などと言った家柄の生まれだから、傭兵から上がってきた平民であるエミリューレしか汚れ役を引き受けられそうな者がいないからだ。

「民が無駄に苦しむことは、かつては同じ民であったわらわに許せることではない。そなたも同じであろう? エミリューレ」

 エミリューレは答えない。愛想の悪い小娘だとばかりに、眉を顰められただけだった。

「よって、そなたに真実の鉄槌を下す許しを与えてやろう。どうじゃ、非常に名誉なことであろう」

 アナスタシアの口調はまるで老女のようだが、年齢はまだ三十代半ばくらいのはずだ。

 亜麻色の髪に、藍色の瞳。美容に気を配っているのか天性のものなのか、二十代の頃からほとんど変わらない美貌だった。オルフェリアの西側で手に入る高級な毛皮を羽織って、青い絹のドレスを身にまとう。装飾品の類は少なく、自分の美しさを自覚しているかのようだった。

「真実の鉄槌で裁かれるのは、貴様だ」

 エミリューレは、静かにそう呟いた。

 重い空気が、一瞬だけ重力を失った。沈黙の中に、さざ波のような音が聞こえた気がした。儀礼用の外套を、引き裂くように乱暴に脱ぎ捨てた。

「曲者」

 前に一歩踏み出すだけで、女帝が叫ぶ。「田舎の小娘風情が、少しできるからと出世させてやれば、調子に乗りおって。まずはそなたを裁かねばならぬようだな」

「田舎の小娘風情が、少し綺麗だからって皇帝に惚れられて調子に乗ったのは誰?」

「ええい、無礼者。捕らえよ。妾の前に小娘を突きだせ」

 七名の兵が、囲もうとばかりに、剣を抜いて前に出ようとした。女帝の近衛兵を気取っているこの兵どもは、数ヶ月前まで技術者だったクレールよりずっと弱いことは気付いていた。構えを見ても、間違いないだろう。どう見ても及び腰だ。相手は仮にも師団長である。

 エルリッドを庇うように、クレールがそっと前に出たのがわかった。エミリューレは勝てない相手だと、彼は承知している。だったら、庇うなり逃すなり、護衛官としての任務を全うする方が先決だ。正しい判断と言えた。

「アーヴィング候、何をしている。その無礼な小娘を、はよう捕らえろ」

 アナスタシアが叫ぶ。シリウスが腰の剣の柄に手を掛ける。

「シリウス、殺さないように」

 エミリューレが低く呟くと、彼はこの場に似つかわしくない、気の抜けた微苦笑を浮かべて頷いた。

 そして、言い放つ。それは、仄暗く、凜とした声で。

「かしこまりました」

 束の間、すべての空気が張り詰めた。シリウスが剣の柄に手を掛けたまま、エミリューレを庇いに前に出る。第七小隊の一般兵よりも弱い近衛兵など、彼女にとって歯牙にもかからぬ相手ではあるが、何も言わない。シリウスが守っているのは、養女でも師団長でもなく、皇女であり、親友の娘なのだから。

 兵たちがシリウスの動きを見て、再び前に出た。ひとりが剣を振る。

「稚拙だ」シリウスは剣の柄から手を放して、左手でひとり目の兵の腕を掴んでいなすように投げる。

「その剣で何を斬り、何を守る気だ。出直せ」

 ふたり目の足を払って転ばせる。三人目の剣を、手刀で落としたと思ったら突き飛ばして四人目を巻き込んだ。五人目の剣は左足のつま先で蹴り上げて落とし、奪った剣を首筋に突きつけたら、その場に座り込んでしまった。僅かな間に、残りふたりになった。このふたりは、剣はこちらに向けているが、腰は完全に後退していた。

 彼らの直属の上司であるはずのジョシュア将軍が、色黒の肌をした顔を青ざめさせた。ジョシュア・クェシリーズ将軍の次男クレールは、さすがに素手で戦えるとは思っていなかったのか、少し驚いていたが冷静だった。

 シリウスが、奪った剣を投げ捨てる。

「お待たせしました」

「ご苦労」

 エミリューレは笑みを浮かべた。それから、一歩また一歩と上がり、悠然と玉座に近づく。

 外で騒ぎが起きているのがわかった。

 治安維持に動員されていた赤狼師団が、女帝の廃位を求める民衆を鎮圧するために出動しようとしていた。しかし、反政府を掲げる内通者たちが、出動を妨害しようと嘘の情報を流しているようだった。今頃は、民衆がいない方に導かれているだろう。今、ここに踏み込める軍はいない。

 アナスタシアが即位した時、庶民から生まれた女帝に期待する民が多かった。庶民の視点での政治をしてくれると信じていたのだろう。しかし、今ではオルフェリア皇族の血族の施政者を求める声が多い。それは矛盾かもしれないが、民の願いは庶民を想う政治をして欲しいと言う点のみである。庶民だろうと皇族だろうとどうでもいいし、そもそもアナスタシアはラディッシュ社の社長令嬢なので貴族でなくても庶民とは言えない程度の財力がある。

「ずっとこの時機を、待っていた」

 腰の剣を抜く。刀身が、赤い石が、光る。

「我が名は、セレスティア・ルーデンベルグ・アルベルタイン」

 ジョシュア将軍が何か声を上げた。聞こえない。ただ、何を言いたいかは察しがついた。クェシリーズ伯爵が、皇族の宝剣を知らないはずがない。

「貴様に命を受けたレナート・ミグルージュが殺し損なった、第一皇女だ」

 シリウスが、外套から紙の束を放り投げた。それは、エルリッドの足元に落ちた。

「報告書だ。証拠は後ほど提出する。ハイリアにでも寄越しておけ」

 クレールが拾い上げる。紙の束を手早く捲る。中身を読んでいるわけではなさそうだった。紙の表面を軽く撫でている。

「先帝ウルフガングの第一皇妃エレオノーレと、第二皇妃ハリエットの両名への毒殺の嫌疑に関して」

 ふと、クレールが目に留まった言葉を読み上げた。空気の温度が、下がったような気がした。とんでもない空気の読み方をした自覚が、あるのかないのか。

「それは首謀者特定の証拠がない」

 シリウスが口を挟む。「だから、疑惑の範囲ではある。それでも、ほぼ殺害であることは掴めている」

 再び沈黙が流れた。しかし、それは束の間で、青ざめた顔で呆然としていたアナスタシアが、唐突に玉座から立ち上がった。

「この無礼者ども。よもや亡きセレスティア皇女を騙るとは、度し難い侮辱じゃ。あの娘は確実に死んだと、レナートが――」

「アナスタシアを拘束せよ」

 エルリッドが叫んだ。

「聞こえただろう。義母上は、セレスティア姉上の死に関わっている。よりにもよって皇女を殺すなど、度し難いのはどちらだ。もう一度言う。アナスタシアを拘束せよ」

 シリウスが動く。ジョシュアが追うように動いた。兵が集まり、女帝が引き摺り下ろされていく。アナスタシアの悲鳴は、無視された。

「中尉、その書面をこちらに」

 アナスタシアは途中で気を失ったようだが、構わずに担がれていった。その様子を見ながら、エルリッドがクレールに手を差し出した。

「はい」

 クレールが手渡した。

「薬品や爆弾の類は、仕掛けられていませんでした」

「先ほどから、そんなことを気にしていたのか?」

「殿下の護衛官として、当然です」

 その返事に、エルリッドは肩を竦めた。







 女帝アナスタシアの拘束から、彼女の廃位と皇子エルリッドの即位が同時に決まるまでにかかった日数は、十八日だった。

 たったの十八日、と呼ぶのが正しいだろう。調査や処分の決定に、数ヶ月がかかってもおかしくはない。実際には調査に使った期間は短く、秘密裏に戴冠式の準備が進められていたという。

 クレールの報告によると、アナスタシアが引き摺り下ろされる一部始終は、まるで流れるようで、まるで台本通りに動く劇でも見ているような気分だったと言う。

 ハイリア自身はその場にいなかった。だが、シリウスが準備したという書類を見て、すべてを悟った。

 エルリッドの戴冠式は、決定から五日後のことだ。セレスティア皇女が現れてから、ひと月もかからなかった。エルリッドは、死んだはずの姉がエミリューレ・ヴァレリアであることを以前から知っていたのだろう。

 青蛇師団の砦の襲撃の実行犯は、シリウスと言う見方が強い。

 こちらは証拠はないが、現場の痕跡の少なさからほぼ単独犯であることは掴めていた。単独で砦をひとつ滅ぼすと言う業をやってのける人間は、シリウスくらいのものだ。

 現場は拳銃ではなく剣の痕跡ばかりだった。エミリューレと呼ばれていた彼女は、調練でしか剣を使わなかったが、その腕はシリウスにも引けを取らないほどだという。だが、銃を扱う者が多いオルフェリアの軍で、わざわざ戦場で剣を使うのはシリウスくらいのものだった。シリウスは、戦場に銃を持ち込むことさえしないらしいのだ。その割に武器には詳しそうとは、持っていた銃剣の型式を当てられたことがあるクレール曰く。

 シリウスが砦を襲撃したとして、証拠もなければ動機も不明だ。

 ただ、クレールは「俺は、軍を再編させるときにエミリューレを昇格させたかったんじゃないかと思います」と言い放った。更に、「戦争したかったのかもしれないです」と。

 それなりに筋が通っている。

 確かに、襲撃の件によって軍は再編されて青蛇師団は解散された。そして傭兵から兵士に取り立てられたばかりだった彼女はその再編に乗じて黒竜師団に異動して小隊長となり、シリウスも同時に異動できた。隣国との開戦は遅かれ早かれ起きたことで、それは彼女が黒竜師団の師団長にまで昇格する結果を生んだ。うまく昇格できずとも、戦功をあげてエルリッドの眼に止まって宝剣を見てもらえればいい。レナートは、殺されかけた私怨で殺されたと思うのが自然だった。

 戴冠式当日の、深夜だった。

 もう間もなく、エルリッドの戴冠式が終わり、その日の護衛官としての任務を終えたクレールが執務室に来る頃だろう。財政を案じたエルリッドは、すべての宴を手短に切り上げた。本当は、やりたくもなかったのだ。

 予想したとおりの時刻に、クレールは現れた。

「青、でした」

 彼はそう言った。

「エルリッド皇子――ウルフガング五世陛下の宝剣の宝珠は、深い青に輝いておりました」

 戴冠式で、その刀身を見せることはわかっていた。

 ハイリアは、アナスタシア廃位と同時に宰相としての地位を辞していた。

 皇帝亡き後に皇妃と皇女が立て続けに死んだオルフェリアの混乱をまとめるため、情報部総督としてアナスタシアを擁立した。幼いエルリッドを擁立できなかった事情があったのだが、アナスタシアの政治能力は想像以上に酷いものだった。

 ハイリアも努力しなかったわけではない。情報網を使って宰相にのし上がり、軍や貴族の不正を見つけていった。アナスタシアは手を出さなかったが、裏では非情な人事や謀殺さえ厭わなかった。だが、国の腐敗はどうにもならなかった。ひとつ潰しても別のどこかで生きていれば、腐敗とは広がり続けるものだ。

 結果として、アナスタシア擁立責任を取る形での辞職だった。宰相ではなくなったが、エルリッドの恩情で情報部の総督ではいられることになった。あの少年皇帝は情報部を利用する気でいるのだろう。

 クレールに宝珠を見るように指示したのは、ハイリアは以前から自分の失脚を予想しており、戴冠式に出られないとわかっていたからだ。

「青、か」

 それは、どう捉えればいいのか、わからない回答だった。

 、エルリッドをはじめから皇帝にしていた。

「もうひとつ、ハイリア様」

「なんだ」

「意味があるのかわかりませんが、個人的に気になったのでお耳に入れておきます。エミリューレ――セレスティア皇女のそれは、血のような赤でした」

「血のような赤か」

 ハイリアは、それだけ呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る