22
ラディッシュ社の摘発が続いた。
シェリルの予想通り、女帝アナスタシア一世の廃位を求める声が広まったが、ラディッシュ社の社長は娘は無関係だと主張していた。それはあながち嘘ではなかったので、女帝自身の摘発は進まず、廃位まではあと一歩及ばなかった。
まともな政治ができる皇帝であれば、もう少し真面目に庇ってやれるのに、とシリウスは思っていた。
アナスタシアが手の者を使って、皇妃をふたり、皇女をひとり暗殺したことは知っていると、ハイリアは前に言っていた。セレスティアが生きていて、まさか自分の養女になっているとは思ってもいないのだろう。今はまだ、明かす気にはなれなかった。彼女は、自分が皇女であることを否定はしなかったが、あえて身を隠している理由は明かさなかった。それであれば、ただの養女なのだ。
アナスタシアが、ふたりの皇妃を殺してまでその地位を手に入れたのは、平民である以上に三人いたウルフガングの妻の中で唯一子を成していなかった負い目があったかもしれない。幼いエルリッドは殺さなかったが、常に誰かが側にいる年頃だった皇子を殺害することが難しかったからかもしれない。その点、既に王侯貴族向けの学問所に通い始める年頃だったセレスティアは、狙いやすかった。
ハイリアは立て続けに皇妃と皇女が不審死を遂げたことに「健康および安全にもっと配慮するべきだった」とし、エルリッドには常に護衛をつけた。そうして、皇子は暗殺から逃れることに成功した。あの男は知恵が回る。幼いうちに姉を失った皇子を守ろうとする動きを、誰が拒絶できよう。
シリウスが知っている範囲では、歴史上、身内を暗殺して玉座にのし上がった王者に、碌な者は数えるほどしかいない。政治が悪くなくても、その最期は悲惨なものばかりだ。殺害された身内の人間を慕っていた者は、どこかに必ずいる。テイレシアのアマツチ巫領には、因果応報なる言葉があるらしい。意味を調べて、どこの国も変わらないものだと不思議と納得した。
ウルフガングは民にも貴族にも甘く、アナスタシアは貴族には甘かった。政治において優しさや人の心は必要でも、甘さは不要だ。王とは時に冷徹でなくてはいけない。
「治安維持に忙しすぎる」
シリウスは、シェリルが淹れてくれた紅茶を啜りながら愚痴をこぼした。
「このままでは、この街の黒いところが広がるばかりだ」
「皇子殿下が、どこまで動いてくださるかですわ」
シェリルは、だいぶ大きくなってきた腹を撫でながら呟いた。シリウスは、束の間死んだ妻を思い出す。物静かで、穏やかで、そして虚弱だった。クロエは、妻に似たと思う。娘が自分に似ていると思うところは、はっきり言って見当たらない。
「アナスタシアが、ラディッシュ社の魔薬取引には本当に関与していないことを逆手にとると、殿下は仰った。どう利用するのかは、まだわかっていないが」
「そうですか」
彼女はそれだけ呟いた。
「お腹の子は、元気なのかい?」
シリウスは唐突に話題を変えた。
ここは診療所だった。サイラスがまだ診察の途中だし、グレンは会議室や倉庫を出入りすることが多い。誰が聞いているか、わからない。
「ええ。それはもう、よく蹴ります。わたしは男の子だと思うのですが、夫は女の子だと思うと言って聞きません。何故かしら」
「奥方に似てほしいのかもしれない。いざ生まれて自分に似ていなかったら、それはそれで寂しいだろうに」
そう言うと、シェリルが笑った。なんとなく想像できたのだろう。
しばらく談笑をしていたら、扉が開いた。サイラスの仕事が終わる時間だった。サイラスの背後からグレンが顔を出す。
「シリウス殿。よくいらっしゃいました」
彼はそう言って、笑った。シェリルがサイラスとグレンの分の紅茶を淹れようと立ち上がる。グレンが「手伝うよ」と言って追いかけた。
今日は早く帰るつもりだったから、食事と酒は断ってあった。
サイラスが酔って妻を褒めちぎり惚気る姿は、見ていて微笑ましくはあったが、シリウスにとっては亡妻を思い出させるものだった。何故、生きているうちにああして褒めてやったり、わかりやすく愛情を伝えたりしなかったのだろうと後悔することもあった。この若い夫婦からは、学ばされるものが多い。できれば、もう少し早く学びたかった。
「あの子も、すっかりお兄ちゃんになったみたいです。十何歳も離れてはいるのですが」
「戸籍を持ってからは三年ちょっとだから、三歳ちょっとだって言っていた」
「あれは三歳児ではないでしょう。幼くもあれば大人びてもいるような、純粋で不思議な子には成長していますが」
グレンは、数日おきにクロエに会いに来てくれていた。
ものは知らないが、素直で純真で、将来に期待が持てそうな子だったから、シリウスも来たら受け入れるように家の者には伝えていた。体格や膂力に恵まれている子供なので、試しに剣の稽古をつけみたら、剣はうまくないが剣を遣う相手と素手で渡り合うと言う特技を持っていることがわかった。軍人には向いていないが護身術としては十分だし、若いうちに自分の得意分野がわかっていることは悪いことではなかった。得意分野がわからなくて、あるいは自分で受け入れられなくて潰れてしまう若者は、たくさんいる。
クロエは、最近少し明るくなった気がする。友達がいた方がいいと言う、エミリューレの言葉を思い出す。確かにその通りかもしれない。
「医者になる気はないと言っていたが」
「僕と、似たようなものです。あの子は『なりたくないから向いてない』とはっきりと言い切れる。僕にはその勇気がなかった。医者を志す決意をするまで、軍人になりたくないと誰にも言えなかった」
「素直にはっきり言えるように育てたのは、君だ。あの子は、医者になりたくないなんて、本当は立場上言いづらいはずだぞ」
その言葉に、サイラスは苦笑した。
彼の場合、軍人の家系で長男として生まれてきた圧力があった。士官学校での成績が優秀だったことで、周囲の期待を集めてしまったことも彼を苦しめただろう。ただ、サイラスは自らその士官学校を退学した。あと半年通っていれば軍人になれる頃だった。
医者になると決めてからも、弟にその圧力を押しつけてしまっていると言う苦悩があったようだが、当のクレールは目立たなくても活躍しているから、少し安心しているらしい。自己評価が低いせいか、果敢ではないが冷静だ。今、彼を親の名前がいいだけの暗愚な青年だと思う者はいない。
「シリウス殿、最近のクレールの様子はどうでしょうか」
「クレールは異動してしまったからな。将来を見込んでいたので手放したくはなかったのだが、最近は少し疎遠だ。皇子殿下とはうまくやっているようだが」
「そうですか。クレールが、先日愚痴をこぼしていたので」
クレールは仕事の愚痴をサイラスに呟くところがあった。それはシリウスの部下になる前、技術部にいた頃からの癖のようだ。それで精神的に楽になるのなら、相手に負担を掛けない程度に愚痴を言う分には気にしていなかったが、それに対する反応で情報を得ようとしていたのかもしれない。サイラスは貴族の医者として上層部と接触できるから、顔が広い。
「『皇子殿下が俺を利用してくるんだけど』と」
「ほう」
「本人は嫌がっていませんでした。むしろ『と、クレールが』と付け足すだけで表情を変える奴がいるのが信じられないと不思議がっていて」
その話は、あえて情報を与えたいのか、偶然漏れてしまったのか。いずれにしても、皇子がどう動いたのかがわかった。エルリッドは、アナスタシアがクレールを気に入っていることを利用しているのだ。
「そうか。話を合わせるのは大変だろうな。察する」
ウルフガングの頃は、シリウスもしばしば同じように利用されたものだった。主に、皇帝の女癖に辟易した皇妃たちの訴えに「シリウスも呆れている」と使われた。娶らなかっただけで関係を持っていた女たちは、たくさんいたのだ。ただ、利用された割には、ウルフガングの女癖は直らなかった。
そうやって裏から女帝を操り続ければ、この国はもっと早くよくなっていたかもしれないが、使える男がなかなか現れなかった。
実家の魔薬のことが明るみに出た以上、もう遅い。
*
クェシリーズ邸から帰宅した。
シリウスが、廊下を歩いていたエミリューレを呼び止めると、彼女は憮然とした様子で振り返った。
「皇子殿下はクレールを利用したそうだ。そのうち、動きがあるだろう」
「クレールが何をしたの?」
「何もしていない」
シリウスは肩を竦めた。「ただ、皇子の護衛官になって、見た目で女帝陛下に気に入られただけだ。彼は色目さえ使ってない」
「
エミリューレは露骨に眉を顰めながらぼやいた。悪態の相手が女帝なのか皇子なのかは、あえて考えないでおく。すべてが終われば、皇子がクレールをそんな方向で利用することはないだろう。
「その、動きとやらがあるらしいことは知っておけ、と?」
シリウスは頷いてから、持っていた包みを差し出した。
「クロエに渡しておいて」
「なにこれ?」
「グレンからだ。街の店で買った、人気の焼き菓子らしい。買ったはいいが、渡しに来る時間がなかったそうだ」
「ああ、クロエのお友達の男の子」
エミリューレはその包みを受け取らずに呟く。「自分で持って行きなさいよ」
「あの子には避けられているし、せっかくだからふたりで食べるといい」
「避けられてるからって、クロエを避ける理由はないでしょう。三人で行きましょ」
「わかった、君の言う通りだ。そうしよう」
「まったく」
エミリューレが嘆息した。
「あたしがあの子のお姉さまでいられる期間は、もう長くないの。少しは考えて」
その言葉の含みにまったく気付かなかったシリウスは、
「君が誰の娘でも、君はわたしの娘で、クロエの姉だ。それに変わりはない」
そんな有り触れたことを言いながら、クロエの部屋に向かうエミリューレの後を追った。
ウルフガングの死の真相と彼女の目的は、まだ聞けていなかった。
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