セレスティアの革命
21
大陸歴七六五年、五月。
オルフェリア帝国軍は再編成され、改めてテイレシア王国への進軍の準備を進めていた頃に、その進発を挫く事件が起きた。
帝国で一、二を争う大企業の大手文具メーカー、ラディッシュ社の摘発である。
「ラディッシュ社は各地の貧しい農村を買収し、魔薬の原料となるジュネ草の栽培、及び魔薬の製造をさせていた」
オルフェリア帝国情報部総督ハイリアは、朗読でもしているかのように、報告書を淀みのない口調で読み上げた。
「ジュネ草は土に根を張る際、土壌を汚す毒を発する。かつては魔薬ではなく観賞用として栽培されていたが、それも禁止されたのは土壌を汚すためだ。しかし、だからこそ裏では高値で取引された」
「魔薬の製粉時に舞う粉塵を吸い込むだけで、健康被害が出るそうですね」
クレールが口を挟む。
軽く手を組んで目線を下げていたハイリアは、知っているのか、と言いたげに顔を上げた。
「……おまえの兄は、医者だったな」
「兄貴のところの患者にも、そう言う被害者がいるのです。声が出なくなったとか、片眼が見えなくなったとか」
「酷い話だ」
ハイリアの情報網は広い。そう言った情報も、とっくに拾っていると見ていいだろう。
インクや紙の原料を栽培し、製造する。ラディッシュ社は、そんな名目で農村を買収した。現実に育ったのは魔薬だったが、知識の浅い農村の民は皆それを疑わなかったと言う。それに、言われた通りのものを育てればラディッシュ社からは多額の報酬が得られて、その報酬の一部で納税も賄えたのだ。魔薬でさえなければ、悪い話でも違法でもない。
土壌が汚れれば、別の土地を買う。それを繰り返す。そうして、オルフェリア帝国の環境は急激に悪化の一途を辿った。環境の悪化で農地や住む場所を追われた農民たちは、工場での仕事と生きるのに困らない程度の給金を与えたラディッシュ社の「慈悲」に感謝した。その工場も、魔薬の製造をしていることさえ知らずに。
ラディッシュ社の魔薬取引の証拠が、トラヴィス商会から提出された。商人ギルドはこれを重く受け止め、ラディッシュ社は社長や役員たちを中心に摘発されていった。社員たちはどこまで事実を知っていたか、確認を進めている。
過日滅ぼされた青蛇師団の砦から魔薬が入ったラディッシュ社のインクの瓶が複数発見されたことは、以前から報告されていた。もちろん瓶は偽物の可能性もあったし、インクを使い終わった後に魔薬を詰めただけの代物の可能性が高いから、青蛇師団の不正としてしか扱われなかった。魔薬の取り締まりも任務にしていた青蛇師団ならば、魔薬を得るルートには事欠かないのだ。
商人ギルドは、その情報網で青蛇師団の軍人たちが近郊の娼館で娼婦たちと遊んでいた事実を掴んだ。オルローザの黒い地域や郊外では性産業も少なくはなかったから、駐留中の軍人たちが遊ぶ手段として推奨はされなくても黙認はされていた。
襲撃事件後、娼館から複数の娼婦たちが姿を消したことが判明した。娼婦たちを探したところ、ひとりが近隣の農村の近くで無惨な死体として発見された。そして、彼女の側で青蛇師団の軍服を着た男が、倒れていた。男の軍服は酷く汚れていて、とてもまともな生活を送っている者の身嗜みではなかったが、この男が娼婦を殺したことは現場の状況から明らかだった。その男は、死んでいた。
「死んでいた?」
思わずクレールは聞き返した。ハイリアが頷く。
「そうだ。内臓を酷く破損していたらしい。検死した医師によると、痛みのあまり歩くことさえままならないと思われる状態だったと」
「その状態で、人を殺すなんて」
「普通では考えられないな」
軍人らしき男は、右手に女を殺したと思われる剣を持っており、左手には魔薬が入った瓶を握っていた。女は他にも魔薬の瓶を持っていた。
商人ギルドは、近隣の農村に関する情報も集めていた。
風車小屋がいくつもあるのが特徴の、ネア村だった。それは、娼婦たちの出身地だったという。ジュネ草は栽培されていなかったが、風車小屋では魔薬製造が行われていた。村の近くには不審者が出没するとの噂があった。それに襲われた娼婦たちは、逃げ帰ってきて、またすぐ別の街の娼館で働き始めたらしい。殺された娼婦は、不幸にも逃げ遅れてしまったのだろう。
「つまり、その娼婦たちは娼館で男の相手と一緒に魔薬の密売をしていて、製造は故郷の村で行っていた、と言うことですか」
「そうだ。不審者というのは先ほどの軍人らしい男のことで、そいつは魔薬を求めて、持っていそうな奴を手当たり次第襲うほどにおかしくなっていたんだろう」
「幻覚作用、でしたか。おかしくなりすぎて、痛みも感じなくなっていたのでしょうか」
「自身の生存本能に対する感覚すら、狂っていたのだろう」
死んだ女については、少々哀れだが自業自得でもあった。密売をしていたくらいだから、禁じられているものだということくらいは知っていたはずだ。
ネア村は、ラディッシュ社と契約していた。その証拠は、監査でラディッシュ社を調査すれば簡単に手に入った。土が細くて、あまり作物を得られない村で、インクの製造をさせていたと言うことになっていた。許可を得て、インクの納品書を押収した。一見特に不正のなさそうな書類だったが、魔薬が検出された。風車小屋で書いて付着したのだろう。
「もう少し徹底した管理をしていたら、証拠が押収できなかった。ラディッシュ社が、甘い連中だったのが自滅に繋がった」
「甘ったれるのも、無理はないかもしれないですね」
クレールは呟いた。
ラディッシュ社が魔薬取引で大金を巻き上げていようと、同社が大手文具メーカーであることは事実だ。商人ギルドは、自ら経済界に打撃を与えたことになる。それで得をする誰かがいるのだ。
ハイリアは、静かに頷いた。
「何せ、ラディッシュ社は、女帝陛下のご実家だ」
その表情から、感情は読み取れなかった。
オルフェリア帝国皇帝、アナスタシア・ラディッシュ・エルゲンベルグは、ラディッシュ社社長の長女だ。
潤っては浪費で枯渇するオルフェリアの国庫は、ラディッシュ社が満たしていた。国家予算を一企業が賄った方法は、魔薬取引だろう。オルフェリア帝国は微妙な均衡を保ちながらも、とっくに斜陽を迎えていた。今回の摘発によって、遂に崩壊の時が訪れたのだ。
「俺の任務も終わりますね」
クレールの任務は、アナスタシアの監視と、彼女に近づいて情報を得ることだった。
将軍の令息という立場を利用すれば女帝に近づくことは難しくなく、エルリッド皇子の護衛官である必要はなかったのだが、彼が気に入ったのだからかなり好都合だった。
じきに、女帝が国庫を潤しては枯渇させることを繰り返した財源が実家で取引した魔薬であることは、明るみに出るだろう。実家が摘発されれば、アナスタシアの立場が危うくなるだけでなく、国庫を満たす税収も得られなくなる。
それはクレールの仕事が終わると言うだけでなく、オルフェリア帝国そのものの存続の危機に繋がる。
だが、エルリッド皇子は国の現状を憂えるだけでなく、自ら政策を打ち出すなどの行動に出ていた。アナスタシアがすべて却下したから結果には結びついていないが、この皇子がいれば、この国はまだ再生の余地があるような気がする。
「おまえには新たな任務を渡す」
「はい」
「皇子殿下の所有物から、あるものを確認してほしい。それは盗むな。確認した結果をわたしに伝えるだけでいい。今わたしの手元にいる者の中で、おまえほど適任な男はおるまい」
エルリッドの護衛官。それが今のクレールだ。ハイリアの手の者は自分以外にどのくらいの数がいるのかわからないが、彼がそう言うのだから一番接触しやすい人間はクレールだろう。
「我がオルフェリアの皇族には、伝統の所有物がある。皇族が生まれると、占星術師に新生児に相応しい宝珠を占わせ、その宝珠を埋め込んだ剣を鍛えると言う伝統がある。その剣を、皇族の血族は必ず固有に所持しているはずだ。むろん、エルリッド皇子も例外ではない」
「俺は、その剣を見ればいいのですね」
不思議な指示だった。だが、それ以上は問わなかった。剣を見ろと言われたら、見ればいい。不正も働いていない皇子を殺せと言われたら、さすがに問い返すだろうが。
「その通りだ。おまえは、色を見ろ。そして、正確な情報をわたしに言え」
「宝珠の色ですか」
「そうだ。おそらく、抜かねば見られないだろう」
なるほど、それは確かに難しそうだ。どうしたら剣を抜かせられるか。
「なるべく早い方がいいが、多少時間をかけても構わん」
「かしこまりました。必ずや、情報を届けます」
「それでいい」
今度は、死ぬなよと、言わなかった。
だがハイリアは、クレールを見上げて、はっきりと視線を合わせてきた。
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