20

 アーサーは、戻ってきてから数日後、今度はひとりでアマツチ巫領に向かった。

 アコだとかナダだとか名乗っていたイブキの娘は、おそらく彼にかなり厳しい態度を見せるだろうとグレンは思っていた。と言うよりも、滞在していた時もかなり厳しかった。

 ただそれは、彼女が自分の友達を助けるためだ。アーサーも、好き合った相手を切り捨てるならちゃんとそう言った方がいいに決まっている。お節介だとは思うが、イブキがそのお節介を望んだのだから仕方がない。

 イブキに突きつけられた条件を、アーサーは知らない。グレンとだけの約束だったのだ。だが、アーサーは事情を察しているのか、露骨に渋った。

 だが、シェリルはいくつかの質問を用意したと書面を差し出した。すべてアマツチ文字で書かれていたので、内容は一文字も読めなかった。更にサイラスにはグレンに手伝わせたい仕事があるとまで言われて、ひとりで行かざるを得ない状況になった。

 それから、グレンはサイラスに連れられて訪問診療に向かった。たまに、そう言うことがある。主に荷物持ちとかだ。ただ、グレンにやらせたいことと言うのは、ただの荷物持ちではないはずだ。

 帝都オルローザの白い、区域に足を踏み入れつつあった。

 以前、街で一番白いと勘違いしていた、クェシリーズ邸の敷地よりもずっと白い。サイラスは、何の躊躇いもなく白いところに向かって行った。グレンは付いて行くしかないのだが、どうしても場違いなような気がした。サイラスの弟子になる前は、オルローザの一番黒いところで服も身体も汚れていたのだ。たぶん心も。それは、身嗜みを整えたくらいでは綺麗にならないものだ。

 やがて街並みが輝いているようにさえ思えてきた頃に、邸宅に辿り着いた。屋敷と言うには小さいが、一般住宅にしてはやや大きい。それに、庭の手入れも行き届いていた。豪奢過ぎない装飾が、かえって家主の地位の高さを感じさせる。

 サイラスが訪問を告げる鐘を鳴らした。中から侍女らしい女が現れた。髪の毛に白いものが混じっており、顔立ちも若くはない。この家に長く仕えているのだろう。

 侍女とサイラスは顔見知りらしく、少し会話を交わすなり、ふたりは応接間らしい部屋に通された。案内されたソファでさえ適度に柔らかく、露骨に緊張を見せるグレンに、サイラスが苦笑する。

 ややあってから、中年の男が現れた。雰囲気からして、どうやらこの邸宅の主人のようだ。

「シリウス殿、ご無沙汰しております」

「ああ、そうか」

 シリウスと言うらしい男の声は柔らかいが、敵にしてはならない何かを感じさせた。貴族の中年親父に見えるが、もっと違う顔を持っていそうだ。

「開戦前が最後だったな。君の弟の活躍で、わたしは無事に君に会うことができている」

「お話は聞きました。技術部での経験が活きたそうですね」

「本当に役に立った。本人は言われた通りにやっただけなどと言い張るが、彼がいなければ、わたしも生きていたかわからん」

 シリウスの言葉で、この男が軍人なのだとグレンは理解した。クレールと一緒に戦場にいたようだ。柔らかさの奥に牙が見えた気がしたのは、そう言う一面だろうか。

「ところで、その子が話に聞いていた、君の弟子かな?」

「はい。グレンといいます。僕などとはまったく違う世界で生き延びてきた子だから、こう言うところに連れて行くのも勉強になるかと思って連れてきました。ご迷惑をおかけするかもしれませんが」

「構わない。まったく違う世界で生きてきたのならば、わたしや娘も学ぶことがあるだろう。是非娘にも会ってあげてほしい」

「そう言っていただけると幸いです」

 娘がいるらしい。このシリウスという男が患者という感じではないから、おそらく娘が患者なのだろう。そう言えば、患者についての情報を何も聞いていないとグレンは思った。症状などによっては、余計な偏見を避けるためにあえて何も言わないことがある。

 しばらく談笑してから、サイラスは患者の元に診察に向かった。

 臙脂色の絨毯が敷かれた部屋の床には、顔料らしいものが入った瓶が転がっていた。独特な匂いが鼻をつく。悪臭ではないのだが、グレンは初めて嗅ぐ匂いだと思った。

 その膝を床につくように座って、土をこねる少女がいた。茶髪だが、その髪の毛にも陶芸用の土が付着している。だからといって、不潔だとは全く感じない。

「やあクロエ。今日は寝ていなくていいのかい?」

 サイラスが明るく声をかけた。少女が顔を上げて、笑う。陶器みたいな、温度の低そうな白い肌だとグレンは思った。腕も、ちょっと触れるだけで、折れてしまいそうなほどに細い。

「先生。今日のわたしは、結構元気よ」

「それは何よりだ」

 元気どころか悪阻で体調が悪いときのシェリルよりも顔が白いのだが、サイラスはそんな指摘する気はなさそうだった。

 診察が始まる。それは診察と言うよりは口頭での問診という感じで、クロエは、グレンの方に時々目をやった。いつもは存在しない異物が気になる感じだろうか。サイラスの診察を手伝うと、そんな態度をする患者は珍しくなかった。

 話を聞く限り、見た目は病的だが、体調は確かに悪くなさそうだ。

 サイラスはグレンを軽く引き合わせた。束の間、何かにおののくような表情を見せる。

 その眼は、昔、追い剥ぎで生きていた頃に見たことがある眼だ。

「俺のこと、怖い?」

 クロエが首を縦に振る。

「知らない人は、怖い」

「俺は、オルローザの白いところが怖い。白いところにいる人も、実はちょっと怖い」

「このあたりは、白いよ」

「だから、クロエのこともちょっと怖いし、さっき会ったシリウスっておじさんのことも怖かった。何だったら侍女のおばちゃんも」

 この言葉は意外だったのか、クロエは驚いたように、だが何故か嬉しそうに呟いた。

「わたし、怖いなんて言われたの、初めてよ」


 サイラスが、クロエの部屋を離れてシリウスと話しに行った。

 そこにグレンは用事がないらしく、そのまま話し相手になるように言われた。

「グレンは、先生のお弟子さんだからお医者さんになるの?」

 あちこち連れ回される度に、よく聞かれた質問だった。戸籍を与えるだけの肩書きだとも、知っていた。以前は回答に窮した質問だったが、今は自分なりに答えを見つけた質問でもあった。

「ならないな。向いてないし」

「どうして?」

「医者になりたいって思わないから。だから、向いてない」

 サイラスのことは、心の底から凄いと思っている。多くの人を助けて、それでいて強くて、多くのことを知っていて、歩みの遅いグレンの成長を見守ってくれる。そう言うのを尊敬とか敬愛と言うのだと、この前アーサーに教えてもらった。だが、だからといって同じになりたいとは思わない。どうあっても、違うのだ。

 漠然とした、夢はあった。それをどうやったら叶えられるのか、わからなかった。問えば教えてくれる人はたくさんいる。だけど、それは自分で考えないといけない気がした。

「クロエは、土こねるのは好き?」

 その質問に、今度はクロエが回答に窮したようだった。

「……わからない。でも、お姉さまやお父さまは、時々わたしに土を持ってきてくれる。だから、触る。それだけ」

「それで、色々作るの?」

「触ってると、土が何になりたいのか教えてくれる。お皿になりたいとか、壺になりたいとか。その通りに作ると、綺麗になる。無視すると、駄目になる。だからわたしは、土とお喋りしてる感じなの。そしたら、何かになってる」

 よくわからない感覚だと、グレンは思った。土と会話するというのが、まるで理解できない。芸術とはそう言うものなのだと、アーサーならば言いそうだが、生憎彼は今頃アマツチ行きの船に乗ろうとしている頃だろう。

「変だと思う? みんな、変だ、って言ったよ。おかしい奴だって」

 クロエが少し沈んだような表情で呟いた。本当に悩んでいるようだ。

「そんなこと聞かれても、変なのかどうかがわからない。俺は、土を触ったことがないから」

 彼女は、少しだけ驚いたように顔を上げた。音は生きていると、アーサーが言ったことがある。それがよくわからないと言えば、いつか感じることがあると笑うだけだった。

 今は、クロエの声は確かに生きているなと思う。

 その彼女が土の声が聞こえると言う。それは耳で聞こえるのか、眼で聞こえるのか、あるいは鼻とか指先で聞こえるのか。何かの感覚が人よりも強い人は一定数いると、サイラスも言っていた。クロエにもそう言う感覚があるだけではないのか。それを変だとか変でないとかと括ることは、できない。

「変でも変じゃなくてもいいじゃん。クロエはクロエだ」

 クロエは面食らった表情を浮かべる。グレンにとって普通のことでも、こういう反応を相手にされることはしばしばあった。変なのは自分かもしれない。生い立ちからしてちょっと変だという自覚はあった。あえて目指すべき普通とは、外に出るときには服を着ないといけないとか、ものを買うときに金を払わないといけないとか、そう言う普通ではないのだろうか。

 サイラスに、生きろと言われたことを思い出す。

 それは、死ぬなと言うことではない。人が人として生きるには、どうあるべきか。それを知れと言うことだ。

 最近、だんだんそれがわかってきた。

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