19
黒竜師団が緒戦に勝利しながらも、大きな損害を受けて撤退した。
大陸歴七六五年、四月。
負傷兵の治療という夫の仕事が落ち着いてきたのは、軍の撤退から一ヶ月は経ってからだった。
義弟のクレールは無事に帰ってきた。そして、本人曰くとても地味だったらしいが活躍して、昇進した。戦場で自分の能力で活躍して昇進したのならば、地味だろうと派手だろうと素晴らしいものだと、皆で祝った。なんとその活躍が皇子の目に留まって、すぐに護衛官に異動することになったのだと言う。
シェリルの体調も、最近は少しばかりいいことの方が多い。懐妊した子も順調に成長していて、見た目にも妊婦とわかるようになってきた。
新任の黒竜師団長は、史上初の傭兵上がりにして、史上初の女だった。その上、史上最年少でもあるおまけつきだ。相当苛烈な訓練を受けてきたのか、義弟は彼女を鬼のような女だとか悪魔だとかと言っていたが。
そう言った若い者を育てるのは、いかにもシリウスらしかった。
大人の負債を現代の若者や子供たちが背負うのは、筋が違う。
シリウスはよくそう言っていた。大人が作り上げてしまった腐敗や不正は、大人が贖うものなのだ。子供たちは、自分が死んだ後もきっと生きていく。引きこもりになってしまったクロエが社会に出られるようになってほしい願いは、たぶんそこから来ている。彼女を守ってあげられなかったのは、大人の責任だと思っているのだ。
彼の理屈は間違っていない。だが、実際に現在を生きているシリウスの幸せは、どこにあるのか。まだ、その答えを訊けずにいる。
黒竜師団長の就任日に、とても重要な会談があったらしい。シリウスと、エルリッドと、それからエミリューレ。エミリューレという名前のシリウスの養女のことをシェリルは知らないが、彼女はエルリッドに出会わなければいけなかったらしい。傭兵上がりから師団長になるだなんて言う、かなり目立つ出世の仕方を若くして進めたのは、エルリッドの視界に入ってもらう必要があったからだ。ただ、その事情はわからない。シリウスもそれを語ろうとはしない。
それから数日後、サイラスの仕事が終わった頃に、アーサーとグレンが帰ってきた。玄関まで声が聞こえる。
「ただいまー」
少々緩い語感のグレンの挨拶は、変わらなかった。
「ふたりとも、よく帰ってきたな。シェリルが奥にいるから、顔を見せてあげてくれ」
「はーい」
グレンがアーサーに行こうぜ、と声を掛けながら奥に向かうのがわかった。顔を見るまでもなく、元気だとわかる。
「ただいま戻りました」
足音に混じって、声が聞こえた。
「先生」
それはとても小さくか細い声だったが、偉大な一歩を感じさせる一言だった。アーサーの声以外、誰の声だっただろうか。
「おかえり、アーサー」
アマツチ巫領に赴いた事情を、サイラスには教えていなかった。
話を聞かされて、サイラスは喫驚した。シェリルは、アナスタシア一世を玉座から引きずり下ろすだけではなく、その先の未来を救うことまで考えた。サイラスは、今はまだそこまで考えることができていなかったようだが、商人とはそう言うものだ。その先に利益が眠るからこそ、今の損失を許せる。
彼らは、アマツチの領主――巫覡と簡単に会えたらしい。おそらく方々に護衛はいるのだろうが、心が広い男らしく、面会を望む者は等しく面会するのだと言う。
トラヴィス商会は、大きな事業を興そうとした。皇族の印章を捺印してくれたのはエルリッド皇子で、彼もまた魔薬で穢れていく国を憂えていた。この国を変えたいと、皇子はずっと願っていた。それを皇族として行えないならば、民間企業が行うしかないのだ。
「毒使いのイブキは、化け物みたいな女の人だった」
グレンはそう楽しそうに言った。そして、補足する。「そう言えって言われた」
イブキは秘匿されるべき存在だから事実は話せない、と言うところだろう。ただ、わざわざそう言う言い方をするのだから、グレンはイブキを化け物のような女だとは思っていないのだろう。本当は否定したいという、わかりやすい本音が伝わる。
魔薬は育てるのは簡単だが、栽培を繰り返すと大地が汚染されて、他の作物も一切育たなくなる。そう聞かされたアマツチの巫覡は、「大地を殺す植物を育てるのが簡単? 笑わせるな」と憤った。話によると巫覡の実家は農家だというから、その怒りは納得だ。
その一方で、彼が召抱えていたイブキは、アマツチに存在しないために知らなかったという、魔薬を「毒」だと認めた。そして、まずは目の前のアーサーを救おうとした。
アーサーはもっと救うべき人がいると固辞しようとしたが、イブキはそんな彼を一喝した。目の前のひとりを救えなくて、誰が何を救うのかと。
そこまで話してから、アーサーは机の上に瓶を置いた。中には、小指の爪のような大きさの黒い塊がいくつも入っていた。よく見るとその黒色は緑がかっている。薬草をすり潰したり固めたりした丸薬だろう。
「この薬で、君の声は戻ったのか」
アーサーは頷いた。
「一時的です。しばらくしたら、喋ろうとしたら息しか出なくなるんです。まだ副作用もわかっていない薬だから、声を出したい時にしか飲まないほうがいいと言われました」
「この薬の原料は何なんだ? こちらでも再現できるならばその方がいい」
彼は紙が束ねられた冊子を差し出した。アマツチ文字で記されている。イブキは本土の言葉が喋れても、読み書きは苦手なようだ。
「イブキは、すべての情報を提供してくれました。その代わりに、自分のことは化け物のような女だと語れと言われたんです」
「安すぎる対価だ」
「それと、必ずやオルフェリアを救ってくれと」
「そちらが本命だな」
冊子を、シェリルはしばらく見つめた。アマツチで作られた薬は多く、トラヴィス商会の名義で輸入しているから、いくらか知識があった。
アマツチ文字が読めない夫と、目が合う。任せろとばかりに頷いた。彼は、肩を竦めて笑った。惚気文句が増えそうだと、シェリルはつまらないことを思った。褒めちぎられて、呆れはしても嫌な気はしないのだ。
不意にアーサーが咳き込んだ。
「そろそろ駄目っぽい」
彼の背をさすってやりながら、グレンが呟いた。「だいたいいつも、二刻とちょっとくらい」
もう何度も見てきているのだろう。手話だけでもお喋りなアーサーのことだから、声が出る間はとにかく話したがりそうだ。
イブキが提供してくれた薬は、魔薬を打ち消すと言うよりは、少し中和出来る程度のものだった。それでも、ないよりはずっと良い。他の健康被害にも効くかもしれない。アーサーによると副作用らしいものを感じたことがまだないそうだから、他の患者にも相談しながら試す余地はあるだろう。
グレンたちは汚染された大地で手に入れた土をアマツチに運んでおり、その土に効く薬を用意してくれた。グレン曰く、アーサーの声の薬よりも、この薬の方が早く作れたらしい。
肥料のように撒いて別の植物を育てながら、少しずつ毒を吸い込んでいくらしい。育った植物にも魔薬の成分があるかもしれないから、扱い方には気を付けておかないといけないだろう。もちろん薬には原料があり、こちらの栽培も考えないといけない。オルフェリアで栽培できるのが理想だ。そのあたりは、トラヴィス商会がイブキと相談しながら進めるほかはない。
――完全に治せる薬を研究するので、一旦ここまでの内容を持ち帰ってくれと言われました。報告はここまでです。
咳が落ち着いたアーサーが、手話で説明する。薬の効果が切れてしまったようだ。
「報告ありがとう。お疲れ様。想像以上の結果で、嬉しいわ」
シェリルは微笑んだ。
「まずは、ゆっくり休んで。アーサーは、サイラスに診てもらった方がいいわ」
サイラスがアーサーを伴って診察室に向かった。
「シェリルさん、お腹大きくなったね」
グレンがふたりを見送るなり、楽しそうに笑った。「いつ生まれるの?」
「まだ先よ。早く会いたい?」
「うん、会いたい」
無邪気に言う彼に、シェリルは肩を竦めた。
「わたしもよ。早く会いたいわ」
とは言っても、早すぎてもよくないのだが。グレンのことだから、早産が危険だとはまだ知らないだろう。後で、正しい知識を教えてやらないといけない。
「シェリルさん、俺たち、またアマツチに行くのかな」
「どうかしら。サイラスが、グレンに手伝ってほしいことがあるとか言ってたから、すぐには行かないかも」
「そっか」
「アマツチが気に入った? また行きたそうにしてるわ」
「不思議なところだった。けどそれよりも、アーサーを、また連れてってやらなきゃ」
理由を問うと、グレンは、ゆっくりと話し出した。
アマツチで、アーサーは偶然にも大切な人と再会したらしい。大切な人とはどんな人なのかと問い返すと、グレンの回答は「好きな人だと思う。たぶん、あのお姉さんもアーサーのことが好きだと思う」と非常にわかりやすい回答をしてくれた。
ただ、アーサーはそのときに件の娘を突き放す趣旨の手話をグレンに通訳させた。グレンには彼が嘘をついていることくらいすぐにわかって、どうにか会わせてやれないかと思ったのだが、先方の都合もあって一度も会うことができなかった。それが、心残りなのだという。
アーサーは、没落したヴィンセント子爵の嫡男だ。
それをシェリルは知っていた。本人は何も語らなかったので、危険が及びそうかどうか知るために、情報屋のサラを通じて身分を掴んでおいたのだ。アーサーが声を失ってしばらくしてから、当主が病気で死に、跡取りも不在で家が取り潰されたことも知っていた。
彼の実家は財政難や不正で潰れたわけではないから、自分が家を継ぐ立場にあるとアーサーが申告すれば、家を再興させて家督を継ぐことはできるはずだ。彼で間違いないという証言書は必要になるが、クェシリーズ家の長男であるサイラスの署名があれば不足はない。
ただ、そのような話は一度も持ちかけられなかった。声が出ないことが家を継がない理由なのではないかと思って、シェリルはそれを問うことができなかった。
声が出ないのが、好き合った相手と話そうとしない理由ではないのか、とグレンは思っているようだった。
アーサーは、歌うことで生活の糧を得てきた。それほど大切なものだった声を失って、彼はすべてを失ったと思ったのだろう。
彼は、声と一緒に、自ら多くのものを手放してしまったのかもしれない。本当は、手放さずに済んでいたものも。
「その彼女に、声が出ないことで嫌われると思い込んでるのかもしれないわ」
「話してみなきゃわからないよな」
「その通りだけど、黙っていようと思うくらいには嫌われるのが怖いのよ」
とは言っても、アーサーは目の前でグレンに手話を通訳させているのだ。その時点で、相手の娘は声が出なくなっていることはわかっているだろう。だからこそ、何も言えなくなったのかもしれない。
「アーサーを向かわせたいのは、アマツチにまだいると思う、その女の子とお話しさせるため?」
「うん。仕事で行ってるのは、わかってるけど。実は、イブキさんに頼まれてんだ」
「どう言うこと?」
「お姉さんは、イブキさんの友達なんだ。それで、アーサーがちゃんとお姉さんに話すことが、お姉さんを助けることになると思うって。イブキさんは、友達を助けたいからこの事業に乗るんだって言ってた。イブキさんはアーサーを助けてくれただろ。だから今度は、アーサーがお姉さんを助ける番だ」
グレンの言い分に、思わず面食らった自分にシェリルは気付いた。
イブキは若いのかもしれない。若いうちに真の友に恵まれたから、友情というものに愚直でいられる。それとも、グレンの純真さに高潔なものを思い出したのか。
そんな友は、シェリルにはいない。大切な人には恵まれたけれど、彼らにどこまで愚直でいられるだろう。そこに、諦念にも近い憧れのような感情があった。
答えは、考えるまでもなかった。
「わかったわ。そう言うことなら、少し考えましょう。仕事のことも、サイラスに相談してみるわ」
言うと、グレンは嬉しそうに笑った。
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