18

 先帝ウルフガングが死んだのは、十五年前のことになる。

 まだ二十九歳だった彼は、生きていたら今でも玉座にいただろう。

 三人いたウルフガングの皇妃は、そのうち二人が死んだ。先帝の死から、二年後のことだった。彼女たちはそれぞれ別の離宮におり、特に第二皇妃ハリエットは当時三歳の皇子の育児を優先していた。

 皇帝亡き後、三人の皇妃たちは共に協力し合ってこの国をまとめることで意見が一致した。幼い皇女と皇子が成長するまでこの国を守ろう、どちらを後継にするかなど、後で考えればいいと思っていた。

 第一皇妃エレオノーレは火事で、第二皇妃ハリエットは事故死した。皇女セレスティアは、母と共に火事で死んだとされていた。エルリッド皇子は、無事だった。

 セレスティアが辿り着いて保護されたのが、聖ヴァレリア女子孤児院だった。彼女は当時、名前などないことにした。身分を隠さないといけないことを、八歳の皇女はよく理解していた。身分のせいで身の危険を感じるならば、その身分など隠してしまった方がいい。

 そして、十一歳になった彼女はアーヴィング侯夫妻に引き取られた。

 引き取られたとき、彼女はエミリューレ・ヴァレリアと偽名を使った。







 ウルフガングという男は、皇帝には向いていない男だった。

 病死した妻のことを今でも忘れられないシリウスにとって、三人の皇妃を娶って同時に愛したウルフガングの夫としてのあり方もよく理解できなかった。ただ、血族を重んじるオルフェリア皇族として、世継ぎを作らねばならないことは事実だった。おそらくウルフガングが三人の妻を迎えたのは、それだけが理由ではないとは思われるが。

 ウルフガングという男は、皇帝には向いていない男だったが、誰よりも民を想う男でもあった。

 ウルフガングは政治がまったくできないわけではなかったが、人を疑うことを知らなさすぎた。だから、誰も不正をしない前提で政治をしてしまって、結果的に国がよくなることはなかった。

 法で縛れば民は不正を働かない。貴族は税を着服して私腹を肥やしたりしない。そう信じて疑わなかったのだ。しかし、取り締まらなければ法なんてあってないようなものだ。

 民が何故幸せになれないのか。ウルフガングはしばしば問うた。

 それは民の心が清らかではないからです。誰かがそう答えた。

 そうすると、それでは何故民の心は清らかではないのか。ウルフガングはいつもそう返した。

 ウルフガングは、優しすぎたのだ。

 皇帝とは孤独なものなのかもしれない。周りに誰もいない。だから、周りの者の悪意に、彼は気付くことができなかった。

 だが、シリウスは彼の友であり続けた。人間ウルフガングは、ちょっと馬鹿でやたら惚れっぽくて、綺麗な女に目がないが、基本的には優しくていい奴だった。良かれと思って面白くない冗句を言うような、人間らしい男だった。心は誰よりも清らかだった彼が、シリウスはどうしても嫌いになれなかった。

 そのウルフガングが急死し、セレスティアが死んだ。

 シリウスは皇帝と皇女の死を事故と思い定め、彼に代わって自分なりの方法で帝国を守ろうとしていた。

 その矢先に、偶然にもエミリューレと名乗る孤児の少女に出会った。

 エミリューレの名前が偽名なのは、わかっていた。孤児院の教師から、偽名だと聞いていたのだ。

 それでも、彼女の名前をシリウスは否定しなかった。

 孤児院で与えられた思い入れのない名前だったとか、親から与えられた名前を拒絶しているとか、そういう事情で名前を変えたがる子供がいると孤児院の教師から言われたのだ。

 事情があるのならば、引き取った後で改めて名付ければいいと思っていたが、先にエミリューレはクロエに名乗った。四歳のクロエは、舌足らずな声で、嬉しそうに「エミルお姉さま」と呼んで慕った。人見知りをするクロエが懐いた彼女の名前を変えようなんてとてもできないと、妻と笑いながら話したものだった。

「ちなみに、変えるならどんな名前にしようとしてたの」

 エミリューレが、後に聞き返したことがあった。

「ルナ」

 シリウスは即答した。「異国の言葉で月を意味する。髪の毛の色がぴったりだ」

 エミリューレはしばらく考えてから、「エミルお姉さまの方がいい」と呟いた。

「ルナお姉さまも悪くはないだろう」

「あたしに似合うかの問題」

「確かに」

 妻が他界してからも、一応、娘らしく育てたつもりではあった。

 だが、エミリューレは予想以上に強く勇ましく育った。それ自体が悪いわけではないが、アーヴィング候の養女という身分を偽って傭兵になると言い出したときは、さすがに耳を疑った。

 エミリューレが、剣術や銃撃を覚えてきたことは知っていた。シリウスの部屋にあった軍学の類いの本を、勝手に持ち出して読んでいたことも知っていた。だから、軍人になりたいと言い出すことは想像が付いていた。それを止めなかったのは、長年の経験で彼女の才覚に気付いていたからだ。未来を担う若い才能を、娘とか女とか身分とかそんな理由で潰すのは筋違いだ。

 軍人になりたければ、士官学校に入ればいい。士官学校の試験くらいは合格できる程度の学は与えてきたつもりだし、彼女が本気ならば自分で勉強するだろう。

「養女だからって、学費を気にする必要はない。と言うか、さほどかからん」

「そう言ってくれるのは、わかってた」

「それでも傭兵になりたいのは、何か事情があるんだな」

 エミリューレが、頷いた。

「たとえ他の誰の子供になっても、引き取られないで孤児院にいても、あたしは同じことをする」

 そのとき既に、シリウスはエミリューレが死んだと思っていた皇女だと言うことに気付いていた。それは彼女がウルフガングにもエレオノーレにも似ていたからではない。確かに彼女は両親によく似ていたが、それ以上にオルフェリア皇族に伝わる宝剣を所持していたことが大きかった。

 オルフェリア皇族には、生まれてきた子に、柄に宝石をはめこんだ剣を与えるしきたりがある。それを、彼女は肌身離さず大事にしてきた。後にそれを見て、エルリッドは彼女が自分の姉であると確信するのだ。

 だが、それを指摘するのは、もっと先のことになるだろうとも思っていた。

「本気なのはわかった。やりたいように、最後までやりなさい。困ったときにはこの養父ちちを頼りなさい。いつでも助けるから」

「ありがと」

 思えばそれが、彼女が言った言葉で一番娘らしい一言だった気がする。

「お養父とうさん」


 ウルフガングが死ぬ前に、シリウスに語った言葉があった。

「この国と、子供たちを頼む」

 それはこのたった一言だったが、シリウスにとっては一生忘れることのできない一言になった。

 ウルフガングはこの言葉を言ってから数日後、事故により若くして急逝した。誰もその死を想像することなどできなかったのに、死ぬことを予見しているかのようだったのだ。

 その一言を言われた時、友が死ぬことなど想像さえせずに、シリウスは笑って頷いた。彼が生きていても死んでいても、自分はこの友とこの国のために生きていくのだと、そう思った。

 シリウスなりに、この国のために尽くしたつもりだった。アナスタシアがこの国に害をなす君主だと気付くまでは、彼女を守ろうと思ったりもしたものだった。

 生前のウルフガングの政治が他者に甘すぎたせいで、帝国は財政難に苦しんでいた。アナスタシアはそれを解消すべく、増税した。

 はじめに増やした額はそれほどでもなかったから、民の反発は多くなかった。国庫を補うためにやむを得ない手段でもあったから、おそらく誰が玉座に座っても同じ決断をしただろう。その一方で、税を納められない民は事情を問わず冷徹に処罰した。やがてオルローザの街に黒い区域が増え始めた。

 財政難を楯にとって、彼女は少しずつ税を増やし、民から重税を搾り取るようになった。その背景にあるのは、税を徴収した貴族たちの横領だった。貴族たちが横領で私腹を肥やす中、国庫は潤わなかった。彼女は貴族の不正を取り締まらなかったのだ。

 アナスタシアは、ウルフガングのように不正などないと思い込んでいたわけではない。むしろ不正は当然あるものと思っている節があった。貴族たちの不正は多少目を瞑ってでも、皇族のために働いてもらうべきと考えていた。彼女は自分を娶ったのが皇帝だっただけの庶民で、世継ぎを出産していないから、はじめから身分を持つ貴族たちに負い目があったのだだろう。そして、貴族たちは自分たちを取り締まらない彼女を田舎娘と舐めて、更に不正を加速させた。

 宰相ハイリアはテイレシアをはじめとする近隣諸国との貿易の拡充を提案した。少しは効果があったが、それも限界があった。納税できずに処罰された民が多すぎて、輸出できるものの生産を増やすにも人手がなかったのだ。処罰として労働させればいいとハイリアは言ったが、処罰が甘すぎると言うのがアナスタシアの主張だった。

 彼女の頼みの綱は実家になった。商家の娘である彼女の実家からの納税は、他の貴族を介さずに直接皇族に送られていたのだ。他の商家の納税は取引先の貴族を介しているから、不正が横行した。不正に腹を立てて貴族との取引を辞めるほど肝が据わった商人は、少数だった。

 実家はアナスタシアが嫁いだ効果で一気に企業規模を拡大させて大企業の仲間入りを果たしたが、さすがに国庫を潤すのは無理があるはずだった。

 しかし、彼女の実家はどこから財源を得たのか、帝国の国庫を潤した。それに気を良くして、アナスタシアは今度は浪費するようになった。そしてまた国庫が薄くなれば、また実家を頼る。民から税は取り続けたが、アナスタシアが実家を頼りすぎるせいで、貴族の不正が加速するだけだった。

 状況を打開するために、幼子から少年に成長したエルリッド皇子は何度も打開策を立てては義母に訴えた。しかし、そのすべてが悉く却下された。

「僕の策は間違っているのでしょうか」

 シリウスが父親の友人だったことで呼び出されて相談されたのは、三年前のことだった。

 彼が作った幾つもの提案書は、着眼は悪くなかったが、荒削りだった。父親譲りの甘さもある。それを率直に告げた。

 娘と同じ年頃の少年には、些か厳しすぎる意見も言った。しかし、本気で情熱を傾ける者には、たとえ子供であっても本気で相手をするのがシリウスなりの礼儀であって、関わった人間としての責任と覚悟だった。そこで折れれば、その程度の子供だ。

 エルリッドはやはり、真面目に全てを聞き受けた。そして新しい策を練っては、アナスタシアに進言していった。それはすべて通らなかった。

「義母上は、この国を何だと思っている。皇帝と言う立場を、玉座を何だと思っている」

 エルリッドの言葉は、どこか悲痛に満ちていた。

「シリウス。僕は、皇帝アナスタシア一世を、その玉座から引き摺り下ろす」

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