セレスティアの追憶
17
大陸歴七六五年、四月。
ユーフェミア大陸オルフェリア帝国、帝都オルローザ。
帝国城の中枢で、新黒竜師団長の就任式が執り行われる。
新黒竜師団長の名は、エミリューレ・ヴァレリア。若干二十一歳。
黒竜師団、第七小隊の隊長。それが彼女の以前の肩書で、その前は赤狼師団で元傭兵の士官として傭兵部隊をまとめ上げていた。さらにその前の経歴は不明だが、孤児として育ったものと思われる。
「……だって」
ベッドに上体を起こした姿勢で、新聞を捲りながら、少女は呟いた。
緩く編んだ茶髪に、病的にも思える白い肌。クロエ・アーヴィングだ。
「エミルお姉さまはわたしのお姉さまよ。血が繋がってなくたって、関係ないわ」
「昔からそうだったからね」
エミリューレは、義妹が新聞を閉じるのを見やって笑った。妹の部屋の床には、相変わらず土や顔料や道具の類が転がっていた。片付けろとは誰も言わなくなったし、許可なく片付ける者もいない。
「親父は色々言うだろうけど、クロエは好きなように土を触ってればいい。芸術とか陶芸とか、あたしはよくわからないけれど、あたしはクロエが作ったものを見てるのが好きだから」
「わたしもね、お姉さまが褒めてくれるのすごく嬉しい」
エミリューレは笑う。十四歳のクロエは、年齢に比べても少し幼いところがある。言葉遣いや態度には、まだ幼さが残っている。この一年で、あまり身長も伸びていないようだった。本人に気にした様子がまるでないことから、クロエの周りは時が止まっているようにも感じられた。
「お姉さま、外は怖い?」
クロエは時々こんな質問をする。外に出るのを、彼女は怖がるのだ。それで、もう半年は外出していない。
「怖いよ」
エミリューレは答える。「外は怖いけど、外には怖いものを跳ね除けてくれる奴がいることを知ってる。彼らがいたら、大丈夫」
「それは、お父さま?」
「どうだろう。クロエにも、きっとそう言う人がいるはずだよ。外にいる、怖いものを跳ね除けてくれる人」
「まだわからないな」
苦笑して、クロエの頭を撫でた。十四歳の妹は、頭を撫でられたりすると喜ぶ。思春期に差し掛かると、触られたりすることを嫌がることも珍しくはないのだが。
主治医だと言う、クレールの兄ではないらしい。だが、その医者も、外にいる悪意のない人間のひとりだと、エミリューレは思っていた。もしかしたら、妹は気付いていないだけで、そう言う人間がたくさんいるのかもしれない。
妹は普通の子ではない、とエミリューレは思わなかった。
ただ、クロエは自分は普通ではないと思っているようだった。外に出ることを怖いと思って、友達も作らずに陶芸に打ち込む自分は普通ではないと思っているのだ。言葉遣いはゆったりとしていて、人見知りをする。
外出が社会に出ることだと思わないと、エミリューレはシリウスに告げていた。クロエの主治医も、概ね同意だと言う。外にいる人間と関わることだって、社会に関わることと遜色がないのだと言うのが主治医の主張だ。エミリューレは、無理に他人と関わらなくても人は生きていけるし、ひとりでどうにもならなくなった時に頼れる人間がいたらどうにでもなると言うのが持論だった。
「お姉さま、もう時間じゃないの? 師団長の就任式」
「そうだった。クロエはしっかりしてるね。行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい。皇子様がどんな人だったか、後で教えてね」
見られるだけで会話できるわけではないのに、そんなことを言う妹にエミリューレは苦笑した。
クロエの部屋を出るなり、エミリューレは黒い軍服と軍帽を身につけた。金と銀の糸で龍の模様が刺繍されたコートを羽織り、外に出る。
「クロエの様子は?」
廊下の鏡で曲がった襟元を直していると、最近は娘に避けられていると言うシリウスが、躊躇いがちに聞いてきた。もう少し娘と正面から関わった方がいいと思う。
「友達がいた方がいいかも。男でも女でもいいけど、年齢が近いといい」
「友達か。サイラスにも相談してみよう。たぶん彼も賛成するだろうが、同じ年頃の子に心当たりがない」
何故友達が必要なのかとは、シリウスは問わなかった。
シリウスは、黒竜師団の副師団長に任命されていた。階位は変わらないから、あまり雰囲気が変わったようには見えなかった。
軍の再編に伴って、クレールは昇進と同時に白鷺師団に異動することになっていた。皇子付きの護衛官になるらしい。七光りな人事には見えたが、技術者としての能力を持つ彼を、皇子が気に入ったのだと言う。
皇子がどんな奴なのかは、エミリューレよりも知る機会がありそうだ。
外では、エミリューレはシリウスを父と呼ばなかった。父娘であることは隠しておいた方がいいと思っていた。そうでなければ、わざわざ傭兵に身をやつした意味がない。
「おまえは、何者なの」
シリウスは彼女を見下ろす。彼女は、血の繋がらない娘で、クロエの姉だ。
「セレスティア様」
だが、それが彼女の求める答えでないことはわかっていた。
「わたしは、友との約束を守りたいだけの、ただの男だ」
黒竜師団長の就任式が終わった。
帝国城の大広間では、宴が始まろうとしていた。先の戦では勝利しながらも壊滅的な被害を受けたから、少しでも国内を明るくしたいとの考えらしいが、帝都は変わらないし犠牲者が帰ってくるわけではない。しかもその宴の費用は血税だ。
女帝アナスタシア一世に、縁戚であるレナートを失って悲しむような気配はなかった。早速皇子の護衛官としての任務に従事するクレールのことが、気になるようだ。
アナスタシアは美青年が好きで、若い男を三人ほど侍らせて寵愛していると言う。クレールにはすらりとした長身で、顔立ちも比較的整っている方だ。白鷺師団の白い軍服に替えたことで、容姿が映えるようになったから、女帝の目に留まったのかもしれない。
女帝の視線を受けながらクレールがそばで控えながら時折会話をするのが、十六歳のエルリッド皇子だった。彼は亡き先帝ウルフガングの第二皇妃ハリエットが産んだ皇子だ。
ウルフガングには三人の皇妃がいた。第一皇妃エレオノーレとの間には皇女が生まれ、第二皇妃ハリエットとの間には皇子が生まれた。現皇帝にして第三皇妃であるアナスタシアとの間には、子はいなかった。
ウルフガングが急逝した頃、彼には幼い皇女と皇子しかおらず、次代の皇帝を指名していなかった。幼い彼らに皇帝の座を与えてしまうのは残酷だとするアナスタシアの主張は決して筋が合わないものではなく、三人の皇妃たちがしばしの代理として玉座を守り、治世を行うことになった。
だが、幼い皇女は母親である第一皇妃エレオノーレが死んだ火事で同時に死に、その後第二皇妃ハリエットも事故で死んだ。アナスタシアは、半ば強引に女帝として即位することになった。
アナスタシアの治世は、帝国内の格差を広げるものだった。彼女は人々から重税を搾り取り、若い男を侍らせるなどして遊ぶ一方で、弱者は平然と切り捨てた。
そんなアナスタシアはクレールが気になるようだが、当の彼は愚直に皇子の護衛官としての任務に従事していた。女帝の視線に気付く様子は、まるでなかった。いや、気付いていても流しているだけだろう。
幾らか時間が経って、エルリッド皇子が立ち上がった。短く切り揃えた黒髪の、利発そうな少年だった。クレールは彼に続くように宴席を辞した。アナスタシアが残念そうな表情を浮かべたが、宰相のハイリアがアナスタシアのグラスに酒を注いだのですぐに表情を切り替えた。
憮然とした表情で宴席にいたエミリューレは、小さく嘆息した。目的が果たせているのかどうか、怪しいところだ。そろそろ帰ってもいいだろうかと、シリウスに声をかけようとしたところで、別の声がかかった。
「隊長」
クレールだった。
「いや、団長の方がいいのか」
「お好きなように。何の用?」
「エルリッド様が、あんたとおっさんと三人で話したいらしい。陛下の目に触れないように」
クレールの口ぶりだと、女帝の視線を受けないように伝言するように気を付けていたのだろう。エミリューレは、彼の方を見ないで頷いた。
「うまく機会を狙って来てくれ。それじゃ、確かに伝えたぞ」
彼は姿を消した。
ハイリアが、アナスタシアのグラスに再び酒を注いだ。彼女に呼ばれたらしい、別の若い男が現れる。
シリウスが、堂々と宴席を辞する。エミリューレは人の流れに乗ってそっと姿を消して、廊下で合流した。
廊下には誰もいなかったが、ふたりは会話をせずに同じ方向に歩いた。来いと言われたが、どこに行けばいいのかシリウスは知っているようだった。そして、皇子に呼び出されたことでエミリューレが目的を達成していると確信できたとも、気付いているだろう。
回廊を進み、扉の前に着く。警備兵は皆、シリウスの姿を見て中に通してくれた。
クレールが、皇子にふたりの往訪を伝えたのが聞こえる。彼に何か指示をされたのか、クレールはふたりが入って来た扉から外に出た。人払いを命じているようだった。
「待っていた、シリウス」
聞こえて来た皇子の声は、柔らかいものだった。
「それから、あなたも。さあ、こちらに」
シリウスに仕草で合図をされ、エミリューレは部屋の奥に向かった。
柔らかそうな布地のソファに身体を寛げながら、皇子は利発そうな青い瞳で彼女の姿を確認して、身を起こして立ち上がった。
「何故あなたを呼んだのか、その理由がわかるならば、その剣を見せてくれませんか」
エミリューレは、何も言わずにレナートを刺した宝剣を差し出した。エルリッドは、鞘を抜いた。その使い込まれた刀身が、赤い宝珠が、露わになる。
「ずっとこの時を、信じていた」
エルリッドが、呟く。鞘に戻して、彼女に返す。エミリューレは、剣を受け取った。
「僕は、あなたに逢いたかった。何度、諦めた方がいいと思ったことか」
皇子の瞳から、涙が溢れてくる。彼女はそっと手を伸ばして、それが適切かわからなくて、引っ込める。
「……セレスティア姉上」
彼女は首を左右に振って、引っ込めた手を再び伸ばす。そして、皇子の頭をそっと撫でた。
「よく頑張ったね、エルリッド」
彼女は優しく囁いた。
「おまえの敵を、すべて排除してやる。だから、泣くのはこれで最後にしなさい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます