11

 ヴァイオラを迎えてから五日が経った。

 ヴァイオラは、ナダやマキリを伴いながらアマツチ巫領を視察していた。マキリは彼女を聡明かつ勤勉と褒め、ナダとは歳の近い娘たちとあって、打ち解けてきたようだった。

 属州と本国と言う政治的関係性を考慮すれば、王女の公務は王位継承権を抜きにしても成功に収めないといけないものだった。半年もあれば何かと問題が起きるものだが、今のところ、すべて順調と言えた。

 受け取った書状を、シキは順番に確認する。

 公的文書は、物流関係や軍事などの政治的な内容がほとんどだったが、その一部には王女ヴァイオラをよしなにと言う趣旨のものもあった。政治的な意味でも、個人的な意味でもあるだろう。

 先代の急病によって巫覡となってから、五年が経つ。先代は急病に倒れた直後に従者だったシキを次代に指名してから二ヶ月後、眠ったまま起きなくなり、やがて呼吸も鼓動も止まった。シキと先代との間には、血縁関係はなかった。古来より続く宗教的な風習で巫覡は男でなくてはいけないが、血縁である必要はない。子供がいない巫覡も独身を貫いた巫覡もこれまでの歴史には多くいた。

 それからは、自分のやり方で働く五年間だった。民も概ねシキを認めてくれている。疲れていないと言えば嘘になるが、休もうとは思っていなかった。安らぎを感じる時が、全くないわけではない。

 レイドリックの手紙を一度読み、自分で行なった翻訳に間違いがないかと読み直し、嘆息した。

 勇者になるので、王になるヴァイオラを頼む。

 その言葉の意味を本当に理解しているか、不安になるほどに軽快な文章だったが、自分は王には向いていないからと言う言葉は妙に重かった。

 レイドリックのことだから、勇者になる道を選んだのは、ヴァイオラの方が王の器というだけではないだろう。ただ、彼なりに祖父や妹や民を想っただけなのだ。

 その結果が、妹の代わりに勇者になる選択だ。

「人は何故、誰かのために、己しか正しいと思わぬような選択をしてしまうのだろうな」

 シキは小さく独り言ちた。

「あたしのことですか、シキ様?」

 背後でそっと声を上げるのは、ナダだった。シキは苦笑して振り返る。

「まさか、そんなはずがなかろう。レイのことだよ」

 そう呟いた彼に、ナダは何かを察したのか言葉を続ける。

「勇者のことですね」

 シキはゆっくりと頷いて、それから続けた。

「巫覡の使命はテイレシアの王家の者に、勇者の使命を伝達すること。そして、当代の勇者に使命を全うさせるための力を尽くすこと。わたしはレイに勇者の使命を伝えて、そしてレイは勇者になる。わたしはその使命が完了することを祈りながら、ヴァイオラ王女に全てを伝える」

 ナダは静かに聞くだけだった。こう言う時の彼女は、土のように静かだった。そして、自分の言葉を水のように吸い込んで消していくような気がした。

 一年前に、彼女を許嫁にした。ナダとはアマツチの巫覡の許嫁や妻の通称であり、彼女の本名は別にある。誰もがナダと呼ぶ彼女は、数いるアマツチの娘達の中において、最高の栄誉を得ている。誰にも名前を呼ばれないことが、本当に栄誉と呼んでいいのかはわからないが。

 彼女をナダにしたことは、一片の悔いもない。彼女がナダになったことを悔いている可能性はあるけども。

「何も間違ってなどいない。それが、わたしの存在意義だ」

 ナダは、静かに聞くだけだ。







 キョウの都の郊外を、案内した。

 ヴァイオラは何にでも興味を示した。リーシャも言葉には出さないが、興味深げに周囲を窺っていた。

 彼女は単なる従者ではなく、王女の護衛だと言うことは心得ており、王都で流行っているデザインの傘に武器が仕込まれていることをナダは知っていた。リーシャは多くを語ることはないが、細かい挙措には僅かな隙も見られない。

 ナダは生まれてから、一度もアマツチの島を離れたことがない。ふたりの少女が初めて見ると言う光景も、ナダにとっては生まれた頃から当たり前の存在だった。だから、本土と言うのはこの島とは比べ物にならないほど大きな陸地なのだと聞かされても、今ひとつ実感がわかない。

「これは畑ですね」

 知っているわとでも言いたげに、ヴァイオラは目の前に広がった牧歌的な光景に呟いた。

 その自慢げな表情に苦笑しながら、頷く。いつも凛としているのに、こういうところは妙に子供っぽい。

「この辺りの畑は、シキ様のご実家タケハヤ家が管理しております。毎年の収穫祭も、この畑から行われるのです」

「収穫祭?」

「大地の豊穣を神に感謝し、この地の安寧を願う儀式です。シキ様は収穫祭に入ると、アマツチの各地にある畑や山々に赴き、祈りを捧げます」

「素晴らしい。常に感謝を忘れないからこそ、この地はいつも豊かなのね」

「シキ様は、この収穫祭をいつも楽しみにしています。各地の農村では、神の代理人である巫覡を、その年に収穫した作物でもてなす習慣があるんです。シキ様は、毎年それが楽しみなんですよ」

 多くの巫覡が、収穫祭の行脚で出会った村娘を娶る。彼女もそうしてナダになったひとりだった。

 その時に出会ったシキは、子供のように目を輝かせる若者だった。求婚されてナダになることを選んだのは、神格化されている巫覡の、人間的な一面を垣間見たからかもしれない。

「ナダ」

 不意に無言を保っていたリーシャが、声を上げた。ほとんどが収穫された葉物野菜の畑の中に、花が咲いていた。

「あの花は?」

「あれは、収穫期を終えた縞綱麻シマツナソです。本土ではモロヘイヤと言われている、青菜野菜。種子を残すために、残してあるのでしょうね」

「知りませんでした。モロヘイヤにも、花が咲くのね。もう少し近づいても?」

「近付くだけならば。触るのならば、すぐに手を洗ってください」

 足取りを縞綱麻の畑に近づけながら、ナダは言葉を続けた。

「成長し過ぎた縞綱麻には、毒があるので」

 リーシャが足を止めて、毒、と復唱する。衝撃的な言葉だったのだろう。普段何気なく食べている食材に、実は毒がある。そう告げられて、驚くのも無理はない。

「その毒は、人を殺したことはないですが、家畜を殺したことはあります。大陸の人が、何も知らずに触った手で別の食材を口にしたり、収穫してしまうことが時々あるそうで、あたしたちも気を付けているんです」

「親切にありがとう、ナダ」

 リーシャが神妙に頷いた。「お花が、お料理に添えられていたら華やかになりそうって思ってしまったの」

 ナダは苦笑した。気持ちは分からなくもない。

「そろそろ戻りましょう。この時期は陽が沈むと寒くなるから」

 頷いて、ヴァイオラが後を追う。

 今日の夕飯はモロヘイヤの酢の物だと屋敷の者から聞いた気がするが、気にしないでおこう。


 夕暮れ時に、キョウに戻った。

 街行く人はその日の労働を終えて帰路についていたり、これから開く店の準備に追われていた。中には提灯に火を灯す人もいる。それは、文化の差はあれど、どこの国のどこの街でも似たような光景だった。

 ヴァイオラたちが船を降りたその日のような賑わいはなかったが、キョウは静けさの中に活気を帯びていた。草履が鳴らす独特な足音の中に、僅かだが観光客のものと思われる硬質な音が聞こえた。

 アマツチの中心であるこの街に宿を構える観光客は多い。アマツチ巫領は本国が戦時中でも関係なく、島の外から来た来客を受け入れる。それがたとえ、敵国の人間でも。

「……だから、この中にオルフェリアからの旅人がいても、あたしたちは対等に受け入れます」

 旅人ならば、という但し書きをナダは声に出さなかった。外敵であれば容赦しないのが、アマツチ巫領で神に仕える者の在り方だ。この地を汚す行為は、神に牙を剥く行為だ。

「あちらの方も観光客かしら。アマツチの衣装を着ているわ」

 ヴァイオラの目線の先には、着物と呼ばれる民族衣装を着た、観光客らしい若い男女の姿があった。

「観光客向けに、衣装を貸し出す商売もあるのです。買い取ることもできるのですが、着付けを手伝ってくれる商売の方が人気なのです。そうだわ、おふたりも着てみてはどうかしら」

「まぁ、素敵。リーシャもとても似合いそうだわ」

 嬉しそうに笑う王女の隣で、リーシャが首を振って拒絶する。

「あたしは、いいです。動きにくそうなので」

 その表情が真剣そのものなので、ヴァイオラが苦笑する。

「あなたはいつもこうね。お洒落よりもわたくしを守ることばかり」

「それは、任務ですから」

「そうだけれど、……リーシャ?」

 唐突に、リーシャが足を止めて、全く関係のない方向を見た。二人組の旅人の姿があった。彼女は、ヴァイオラとナダが何を言うのも聞かずに、駆け出した。短く切り揃えた髪の毛が、揺れる。

「アーサー」

 小さく、だがはっきりとした声で、リーシャが囁いた。彼女の視線の先にいる二人組が、こちらを振り返る。

 長い黒髪の男が、何かに驚いたようにリーシャを見る。片手を振る。隣にいた少年が、何かを呟いたのがわかったが、何を言ったのか聞き取ることはできなかった。

「アーサーでしょう、やっぱり。どうして、そんな」

 男の前に立ち、リーシャが何やら言い募る。ふたりの間に、ただならぬ何かがあったことしか察せなかった。男が、手を動かした頃に、ヴァイオラとナダが追いついた。

「本当に、それでいいんだな」

 隣の少年が、男に向かって呟いた。男が再び、手を動かした。手話だとわかったが、何を言いたいのかはとっさにわからなかった。少年が、理解したとばかりに頷く。

「『僕から、君に話すことはない』だそうだ」

 その言葉を聞いたリーシャが、目を見開いて一歩後退る。男がハマの方角に歩き出す。

「あっ、待てよ、アーサー」

 少年が男を一度振り返り、それから、リーシャの方を見て、慌てたように小声でまくし立てた。

「あのさ、あー、宿屋の名前忘れた。けど、まだしばらくは、この辺にいると思うから」

「えっ?」

「俺、ただの手話通訳だけど、友達が嘘ついてるのはわかるんだ。お姉さんもあんな馬鹿な嘘、納得してねぇだろ……あ、待てよ、アーサー! それじゃ!」

 少年は言うだけ言って、港に向かって走り去る。ナダは、その姿を呆然と見送った。待てと言う、少年の声が聞こえてくる。

「アーサー」

 リーシャが呟き、ゆっくりと語り出す。

 先ほどの若い男は、オルフェリア帝国貴族の令息で、リーシャとは子供の頃に結婚の約束をしていた間柄だったという。親同士によって決められた縁談だったが、婚約をしてからは月に三度は手紙を取り交わし、ふた月に一度は会っていた。

 アーサーは遊学などと称して、しょっちゅう旅に出ては放蕩息子だと両親に呆れられた一方、その度にリーシャに会いに来たまめな男だった。そのまめなところが、リーシャは好きだったのだと、淡々とした言葉の端からナダにも伝わってきた。

「三年前、最後に届いた手紙は、婚約を破棄する内容でした」

 その手紙には、事情は特に書いていなかった。事情だけでも知りたかったリーシャは自らオルフェリアに渡り、帝都で彼の実家が取り潰された事実を知った。その時には既に、アーサーと連絡が取れるものは誰もいなかった。初めて旅をした彼女は、すべてを知るのに時間がかかりすぎたのかもしれない。

 やがて、リーシャはアーサーとの再会を諦めて、ヴァイオラの臣下になることを選んだ。今はもう、とっくに結婚していた頃だろう。子供ができていたかもしれない。

「生きていた。それだけでも、よかったのかもしれないですが」

 そんなはずはないだろうと、ナダにはすぐにわかった。だって、そんな風に泣きそうな声で呟くくらいに、好きだったのだ。

 アーサーが共に歩いていた少年は、自らを手話通訳と名乗り、それ以上に彼の友達だと言った。だから、彼の嘘がわかると。言葉遣いは少し乱暴だったが、心根は優しい少年なのだろう。

「この島は小さいから、きっと、会えますよ」

 唇を噛んで黙ってしまったリーシャに、ナダは声をかけた。

「一緒にいたあの男の子も、しばらくこの辺りにいると言っていましたから」

 リーシャが、小さく頷いた。

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