10

 水平線の向こうに陽が沈む。陽が、黄金のような色に染まってきた。

「綺麗ね、リーシャ」

 ヴァイオラが声をかけるが、従者の娘は小さく頷くだけだった。リーシャは船酔いしてしまって、気分があまりよくないのだ。

「あちらをご覧ください、ヴァイオラ姫」

 船頭が声をあげたので、手で示した方を見ると、見慣れない陸地が見えた。

「あれが、アマツチ巫領ですか?」

「はい。アマツチの港町、ハマでございます。もう間も無く、到着しますよ」

「ですって。よかったわね、リーシャ」

 今度は深く頷いたので、思わず苦笑した。

 ヴァイオラにとって船旅は少しずつ姿を変える海や空を見られる興味深いものだったが、船酔いしてしまったリーシャにとっては苦痛だったのか、一刻も早く陸へと上がりたそうだった。さすがに可哀想なので、もう少し船に乗っていたいなんて我儘は言わないでおいた。リーシャは王女のためならば、我慢してしまうから。

「レイドリック王子のお連れの方も、酷く酔っていたなぁ」

 船頭がそんなことを呟いた。いつも軽快な態度を変えないのに隙を見せないロランにも弱点があるのだと思うと、不思議な気分になった。だが、人には誰にでも強み弱みはあるものだろう。己は強くあらねばならないと、どれだけ王女が願ったとしても。

 港に停まった。リーシャが桟橋で落ちてしまわないように、船頭に支えられながら船を降りる。ヴァイオラはその後を追った。しばらく陸地に立っているうちに、リーシャの気分もよくなったようだった。

 港で待ち構えていた長い黒髪の男に、船頭が声をかける。

「ヴァイオラ姫と、お連れのお嬢さんです」

「予定より少し早かったですね」

 三十歳くらいのその男は、見慣れない衣服を着ていた。新緑の胴衣の裾の幅が広い。白い袖口も、幅が広いものだった。袴と呼ばれる、アマツチの民族衣装だ。昔は男しか着ていなかった衣装だが、今は男も女も着ている。重たくて動きづらそうに見えるが、見た目よりもずっと動きやすいらしい。

「長旅お疲れ様でした、ヴァイオラ様、リーシャ殿。これより、お屋敷にご案内いたします。わたしの名前はマキリ。お見知り置きを」

「よろしくお願いします」

 世話になった船頭に別れを告げると、ヴァイオラはリーシャを伴い、マキリに続いた。マキリは何も言わずに、勝手に荷物持ちを引き受けた。連れているのが若い女ひとりだったからだろう。

 アマツチの港町ハマは、王女を迎えるとあって賑わっていた。祭りのような喧騒に、事情を知らない観光客が首を傾げる光景が見える。普段は開いていない露店が立ち並び、テイレシアの本土では見ないような食べ物も多く売られていた。

 口語だと多くの者が大陸の共通語を使うが、読み書きの文字はアマツチ文字が使用されていることが多い。軒先の看板はどれもアマツチ文字だ。古い文化の名残が今でも残っており、本土の者もこれを改めよとは言わなかった。アマツチの人々は観光客を見慣れているから皆親切で、看板の文字を読んでくれと言われたら喜んで引き受けてくれるから、誰も不便を感じていないのだ。

 マキリは尋ねられた物事の全てを、慣れた口調で丁寧に教えてくれた。あの店で売られている食べ物は何か。あの店の看板は何と読むのか。あの娘の髪飾りは何と言うものか。着ているものさえ珍しいのだと、この男はよく心得ていたのだ。

 石段を登る。高台の上は、ハマの街並みとは違って静かなものだった。磨かれた石畳の道と、年季は感じるが丁寧に手入れされた木造の背が低い建物。屋根は赤や黒の屋根瓦。重く落ち着いた雰囲気の、趣深い街だった。

「アマツチの都市、キョウです。お屋敷は、もう間も無くです」

 マキリはそう言って、先を進む。今にも陽が沈みそうな頃合いだった。軒先には提灯と呼ばれる灯りが提げられているが、陽が沈みきってしまえば明るくはないだろう。アマツチにはあまり電力が浸透していないのだ。しかし、夜の街並みの方々に浮かぶ提灯には、美しい景観としての価値がある。

 マキリの宣言通り、間も無くして大きな屋敷の姿が見えた。とは言っても王都にある王城や、離宮などと比べるとずっと小さな建物だった。門を潜り、赤い屋根瓦の屋敷の敷地に踏み入る。

「長旅、お疲れ様でございました」

 マキリが言う。

 屋敷の内部は木製の床が広がる。履き物は脱いで上がる習慣らしいので、それに従った。外観で二階建てだと思ったが階段の類がないらしく、天井が高い。襖を横に動かして開くと、畳の部屋だった。王女たちが座するための座布団が敷かれる。聞きかじった礼儀作法の知識で、正座をする。

 部屋の中は明るく、見えない場所に電気が使われているようだった。利便性を高める一方で、文化的な景観は保とうとしているのだろう。

 離れた場所には段差がある。その上にも、畳が並んでいるようだった。さらにその奥の壁には、掛け軸が垂れ下がる。

 段差の奥の襖が静かな音を立てて開いた。中に、ひとりの男が入る。少女が男に付き従うように後を追う。ふたりとも袴を着ていたが、男は光沢のある羽織を着ており、少女の袴は花飾りがあしらわれていた。

 男が中心に胡座をかいて座る。少女が少し離れた座布団に腰を下ろした。見ると、男はまだ若かった。二十三、四と言ったところだろう。少女は、ヴァイオラよりも歳下に見える。

「テイレシア王国第一王女、ヴァイオラ・ソフィ・リメリナ・テイレシアと申します」

「タケハヤ=シキと言います」

 シキ。その名前は聞いたことがある。兄の友人だ。

「このアマツチの地を統べる、巫覡ふげきです」

「巫覡?」

「大陸の言葉では、シャーマンというそうですね。どちらで呼んでも構いませんが、巫領の民は、巫覡と呼びます」

「わたくしは、シキ殿と呼びましょう。どうやら巫覡と言うのは、本土の者の舌では発音しにくいので」

 そう答えると、シキは表情を綻ばせた。

「レイも、そう言っていた」

「レイ?」

「あなたの兄上のことです。アマツチの者にとって、彼の名前は発音しづらかった故、皆が王子と呼んでいました。わたしは、恐れながらレイと呼ばせてもらっていた」

「わたくしのことも、お好きなようにお呼び頂ければ」

 シキが、少し笑って、背後にいた少女に声をかけた。

「何と呼ぼうか? ナダ?」

「シキ様がお決めになれば良いかと」

 ナダと呼ばれた少女の口調は、少しぶっきらぼうだった。本土の言葉を発する彼女の発音は、アマツチ特有の淀みと訛りが混ざっている。

「ヴァイオラ様は、元々が発音しやすいお名前だから、そのままでいいと思います」

「そうか、確かに」

 シキが、どこか満足げに頷いた。名前の発音に少し訛りがあるが、ヴァイオラは気にしないことにした。それはそれで、愛嬌があって悪くない。

「ならばヴァイオラ王女と呼ぶことにしよう」

 ナダの顔は陶器のように静かだったが、ふたりのやりとりにはどこか微笑ましさがあった。ヴァイオラは静かにその会話を見守った。関係性はわからないが、どれにしてもこのふたりの仲が良好なのは間違いなさそうだ。

「ともかく、ヴァイオラ王女。長旅で疲れたであろうから、今日は食事を済ませたら用意させてある部屋で休むといいと思います」

「お心遣い、ありがとうございます」

 その言葉に、ヴァイオラはゆっくりと微笑んだ。アマツチ料理は、本土では食べられない食材と独自の調味料を使った珍しいものだ。初めは戸惑うかもしれないが、慣れるととても気にいるだろうと兄が教えてくれたから、以前から興味があったのだ。

「シキ殿。兄より手紙を預かっております」

「親書の類ならば、マキリを通して全て受け取ったはずですが」

「いいえ。これは、兄からお友達のシキ殿に宛てた、個人的な手紙だと聞いております」

「なるほど。それは、わたしの手で受け取らないといけないな」

 シキが微笑んだ。封書を受け取ると、懐にそっとしまった。

「あとで読ませてもらおう」

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